反体制

映画「ワイルドバンチ(原題:The Wild Bunch)」を観た。

この映画は1969年のアメリカ映画で、映画のジャンルは西部劇だ。

この映画の舞台は、西部開拓時代の1860年代から1890年の間だと思われ、場所はアメリカとメキシコだ。また、1846年から1848年の間に、アメリカとメキシコの間では、米墨戦争が起こっている。

米墨戦争は、テキサスを取り合って戦争が起こった。この映画では、メキシコのシーンで車が登場する。メキシコの近代化を進めたのが、ポルフィリオ・ディアスという人物で、1870年から1880年の間と、1884年から1911年の間に大統領になっている。

ディアスは、メキシコ革命前の最後の大統領だ。メキシコには、リカルド・フロレス・マゴンとエンリケ・フロレス・マゴンというジャーナリストの兄弟がいて、自由のためにディアスの政権と闘った。

この映画は西部劇となっていて、近代の車が登場するので、近代化を進めたディアスが大統領の時代の時代設定になっていると考えられる。だとすると、この映画の時代は、1870年から1880年の間だと考えることもできる。

この映画は、老いを描いた映画だということができる。この映画の監督である、サム・ペキンパーはこの映画が公開されたとき44歳だ。40歳半ばになって、20歳代、30歳代の時より老いに目が向くようになっていると考えることができる。

この映画の中心となる、パイク、ソーントン、サイクス、ダッチ等の人物は、初老の年齢だと思われる。映画の中でも、「年寄り」といって馬鹿にされたり、「若かったころは」と昔話をしたりするシーンがある。この映画は、老いも扱っている。

この映画は、アメリカで、パイクたち一味が、アメリカの鉄道会社を襲うシーンから始まる。鉄道会社には大金があると聞いて、パイクたち一味は計画を立てて、銀行を襲う。だが、その襲撃は待ち伏せされている。

その際に激しい銃撃戦が行われて、パイクの仲間や、パイクを襲った政府、そして鉄道会社の民間人や、通行人の死者が出る。この時、政府にパイクを襲うために連れてこられた囚人は、民間人も容赦なく打ち殺す。

この映画の代名詞として、残酷さを上げることができる。民間人が残酷に殺され、パイクたちの仲間のメキシコの現地民は、車で引きずり回されて殺される。売春婦たちは、パイクたちの盾となって死んでいく。

この映画には、「俺たちは金と女さえあればいい」というようなセリフが出てくる。これはパイクの仲間のダッチが言う言葉だ。現地民は、アメリカ政府やメキシコ政府から取り上げられた土地を奪い返すために闘うが、パイクたちは金と女のために生きていると言う。

実際この映画の中では、金を手に入れると、パイクたち一味は酒と女を買う。金があれば何でも欲しいものは手に入る、というのがパイク一味の考えであり、それがパイク一味の生き方だ。つまり、パイク一味はこの映画の主人公ではあるが、決して正義の味方ではない。

この映画では、売春婦の表情が乏しい。金で買われて売春をする女性は、男たちが笑うと愛想笑いをして、それ以外は無表情だ。そこには、女性の権利など全くないと言っているかのようだ。金のために男といるのだから、男の傲慢な性欲に従っていて、それが仕事なので、楽しそうにしているはずはない。

当時のメキシコでは、政府のjefes pditicosという政策のもとで、政府は女性を強制的に性奴隷にすることが可能だった。パイク一味にあてがわれる、メキシコ政府の所持する性奴隷の女性たちが、楽しい表情をするのは、それが、強制的だからだ。("Bad Mexican" Kelly Lytle Hernandez p.31 2022)

この映画では、反体制と体制側の対立が描かれもしている。パイクたち一味はアメリカの反体制グループで、パイクを襲う囚人を使う政府は体制側だ。一方、メキシコにも反体制と体制側が存在する。

メキシコの反体制側は、パイクたちの一味に参加しているメキシコの現地民のエンジェルという人物や、パンチョ・ビラというメキシコの現地民からなる反体制のグループだ。それに対して、メキシコの体制側の人物は、ドイツのモール中佐から武器についての助言を受けているマパッチ将軍が率いるメキシコの政府軍だ。

メキシコの政府軍の従う大統領は、先ほど言及したポルフィリオ・ディアスだと思われる。つまり、メキシコの内部では、独裁制を敷くメキシコ政府と、メキシコの現地民の間で対立が起こっている。

エンジェルの恋人で、政府軍の将軍の愛人になったテルサという人物は言う。「現地民たちが住んでいる場所では食べるものにも困るじゃない。だったら将軍のもとにいた方がまし」。エンジェルはこの愛人を撃ち殺してしまう。

この映画では馬鹿にされている人物が登場する。それはパイクもそうだが、パイクと古い付き合いがあるソーントンとサイクスもそうだ。ソーントンは、パイクと以前行動を共にしていたが、政府に捕まり囚人となっている。

ソーントンは、政府に「自由になりたかったらパイクたちを殺せ」と言われて、渋々パイクの追跡をしている。そして、同じ主人仲間たちから、年寄りでもリーダーとして威張るやつとして、馬鹿にされている。

サイクスは、パイク一味と行動を共にする。パイク一味の世話役をやっているのだが、コーヒーもろくにいれられなくなって、パイクたちの一味から馬鹿にされていじめられている。

このソーントンとサイクスが、この映画の実は隠れた主人公であることが、この映画のクライマックスで明らかになる。そこでは、虐げられた者が、生き残り、映画を観ている者にその姿は、安堵感を与えてくれる。

年老いた囚人とつまはじきにされている老人が、映画のクライマックスで救われたかのように映るからだ。この映画のラストでは、囚人として無理やり政府に働かされているソーントンと、パイク一味にいじめられ続けているサイクスが、輝いて見える。

この映画には、メキシコの政府軍が、アメリカの蒸気機関車を襲って、アメリカ製の武器を盗むシーンがある。メキシコ政府が、アメリカ政府と対立しているというようなシーンだ。米墨戦争前、メキシコからアメリカへは、大量の移民がアメリカ西部ための労働力としてやって来ていた。

米墨戦争がはじまると、そのメキシコからの移民の子孫たちは、下級市民として扱われるようになった。低い賃金や、危険な労働環境、分離政策、人種を基礎とした強制移民政権に、これらの下級市民と呼ばれた人たちは立ち向かった。

アメリカ政府は、メキシコの人たちを植民地の劣った住人としか見ていなかった。つまり、アメリカの反体制のパイクや、ソーントン、サイクスは、アメリカ政府に対する立場として、非常にメキシコの人たち、似ていて、彼らは連帯することが可能だとも思われる。それがこの映画のクライマックスとして観ることもできる。