地位を利用しても、得られるものなどなにもない

映画「オール・ザット・ジャズ(原題:All That Jazz)」を観た。

この映画は1979年のアメリカ映画で、映画のジャンルはミュージカル・コメディだ。

この映画の主人公は、ジョー・ギデオン、通称ジョーイという50代後半くらいの男性だ。ジョーは、ブロードウェイの舞台の演出家と振付師そして映画監督の仕事をしている。

この映画の主人公ジョーには実在の人物のモデルがいる。その実在の人物のモデルとは、ボブ・フォッシー(Bob Fosse,1927-1987)という、アメリカ人俳優で、バレエの振付師で、ダンサーで、映画と舞台の監督として成功していた男性だ。

ボブは1973年に映画「キャバレー」の監督として最優秀監督賞を獲り、また同じ年に、監督と振り付けをした舞台「ピピン」でトニー賞を獲り、またまた同じ年に、振り付けと監督をしたリザ・ミネリのテレビ・スペシャル「リザと一つのZ」でエミー賞を獲っている。

ボブは同じ年に、オスカーと、エミー賞と、トニー賞を獲った唯一の人物(2024.2.18時点)だ。この映画「オール・ザット・ジャズ」はそのボブ・フォッシーの自伝的映画で、主人公ジョーはボブを映画中に登場させた人物で、この映画は、そのジョーの死を迎えるまでの時間をミュージカル・コメディタッチで描いた映画だ。

ジョーは酒と、ドラッグと、女性とのセックスに溺れている。映画中のセリフで「チャンスがあればセックスしていた」と出てくる。そのジョーのセックス好きは、舞台の振り付けにも出てきていて、振り付けの題材がセックスで、舞台俳優たちに、露骨に腰を振ったり、女性ダンサーが客にお尻を向けて顔を股の間からのぞかせるセックスを連想させるような振り付けをしたり、はたまたお尻を客に向けて突き出して性器のある辺りを手で隠してその手をひらひらさせるような振り付けもある。また、ゲイやレズビアンのセックスを連想させるような振り付けも出てくる。

これらの振り付けを観ていた舞台の関係者は「セックスばかりじゃないか」と苦悩の表情をする。また、この舞台の事前の関係者でのゴーサインを得るための発表を観ていた関係者は、「このセックス描写は露骨過ぎる」と口にする。ジョーは若いころに、裸の女性が踊るショーの舞台に出演しており、そのジョー自身のルーツも、そのジョーの舞台に色濃く反映されているとも言える。

この映画「オール・ザット・ジャズ」では、酒とドラッグとセックスが頻繁に登場する。酒とドラッグとセックスは、人を常軌から逸脱させるものだ。酒とドラッグとセックスは、人を混沌とした世界に誘う。

そのどれもが、人を急激に減退させる。酒とドラッグとセックスの先には、死が待っている。そして、この映画「オール・ザット・ジャズ」は酒とドラッグとセックスをやり過ぎたジョーという男が消耗して死んでいく物語だ。

ジョーの人生は、酒とドラックとセックスに関しては混沌としている。だがジョーは、仕事に関しては超一流だ。ジョーは仕事という合理性や秩序や規則性にも卓越しているが、同時に酒やドラッグやセックスといった混沌としたものにも深く溺れている。

そして、ジョーは自分の地位を利用してダンサーたちをセックスをしている、いわゆるパワハラ・セクハラ親父だ。この部分もボブの自伝的性格を映画はよく現わしていて、ボブは問題のある人物だったということができるし、当然映画でのジョーも問題のある人物として描かれている。

例えば、舞台という規律と、酒やドラッグやセックスという混沌。舞台で規律性を生み出して倦んできたところで、酒とドラッグとセックスをして憂さを晴らす。それがジョーの生活パターンだ。

ジョーは憂さ晴らしがないとやっていけない人物で、そのためには地位を利用する。周囲の女性は、「私はいつスターになれる?」と言ってジョーに近づいてきて、ジョーは成り行きに任せて地位を利用してセックスをする。

これはボブがやっていたことだろう。なぜなら、この映画の監督・脚本・振り付けはボブ自身がやっているのだから。地位のある男性に対するこの映画に登場する女性の行為は、ある特定のステレオタイプを現わしている。

それは、仕事をして生きていく機会が少ない女性に、仕事とお金を与えてくれる男性に、近づいていく女性という、社会的構造が強いる、特にこの映画が作られたころにはまだ根強かったと思われるステレオタイプだ。

これは、地位のある男性にとって非常に好都合で、地位のある男性の利己的なものだ。女性は従属する性であり、それは社会の通念がそれを強いていて、暗黙の了解で男性が直接命じることなく、女性の方からあたかも女性が好んでそれを行っているかのようにことが運んでいく。

20世紀フォックス・ホームエンターテイメント・ジャパン株式会社 All That Jazz オール・ザット・ジャズ 6:39 ジョーに自宅の電話番号を教えるビクトリア

20世紀フォックス・ホームエンターテイメント・ジャパン株式会社 All That Jazz オール・ザット・ジャズ 15:57 ジョーの自宅に呼び出されセックスと引き換えに将来の保証を求めるビクトリア

これはいわゆる現在の社会にも残る、社会的通念に利用されて搾取されていく、地位の低い女性たちの在り方だ。日本でも伊藤詩織さんが起こした訴訟のように、地位のある男性が、就職の機会を女性に与えるために、女性に性行為を強要するということが起こっている。

これは、ジョーのやっていることと全く同じだ。日本の関西のお笑いの世界でも男性が地位を利用して、女性をレイプしたり搾取したりすることが平然と行われてきていてそれが問題となっている。

社会的地位がある者が、経済的に力のない立場にある人を、地位のあるものの性欲のはけ口として利用する。そこにあるのは合意形成によりはぐくまれていく男女関係ではなくて、「俺は力がある。もしお前が俺に従えば、何かいいことがあるかもね」という、権力者の半ば詐欺行為だ。「俺にセックスを提供して、俺が気に入れば、お前は成功するかもね」、この「かもね」が、この権力者の行為を詐欺行為と呼ばせる。

時間をかけた合意形成のないセックスは、人間をすり減らす。時としてそれは、心的外傷後ストレスを、セックスさせられた人に残す。合意のある瞬間的な男女関係を否定するわけではないが、男女関係に時間は重要だ。男女関係に手続きは必要だ。

この場合手続きと言うのは、書類を書いてサインするということではなく、知り合って、会話して、デートして、手を繋いで、そのうち2人きりになって、軽いキスをして、そのうち軽いキスがディープなキスになり、会話の内容も親密になってきて、合意のあるセックスに至るというのが、ここでいう手続きだ。

この映画「オール・ザット・ジャズ」は、成功を利用してパワハラ・セクハラをする男性が、自分の死を迎えるまでだ。ラストの辺りの、ジョーの死の迎え方は、とても滑稽だ。ぬぐい切れない過去を正当化するわけでもなく、自分の無様な生を、ダンサーである元妻や、恋人や、ジョーの娘が、滑稽に歌って踊ってジョーの人生を笑いものにする。この映画は、ジョーを称えるのではなく、ジョーを笑いものにする。それが、この映画を作ったボブの罪滅ぼしのための苦しい言い逃れなのだろう。