ヒエラルヒー

映画「日の名残り(原題:The Remains of the Day)」を観た。

この映画は1993年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の舞台は、第2次世界大戦の前から、第2次世界大戦の後だ。つまり、この映画は第2次世界大戦を巡る映画であるとも言える。この映画の主人公は、ダーリントン卿というイングランドの貴族の屋敷に使えるスティーブンスという執事だ。

執事というのは、屋敷の主人の代わりに、屋敷のことについて管理する役割を負う。その身分は、いわば貴族の僕だ。言い換えれば、執事とは、多くの労働者と同じように、特権階級に仕える奴隷だとも言うことができる。

ダーリントン卿の屋敷に仕える執事スティーブンスは、ダーリントン卿に仕えることを誇りとしている。執事は、貴族の家来だ。貴族の屋敷とは、ヒエラルヒーの形をとっている「英国の秩序と伝統」の具体的な例であり、その象徴だ。

つまり、執事であるスティーブンスは、ダーリントン卿に仕えることで、イングランドヒエラルヒー構造をした社会に、自発的隷従をしているとも言える。ダーリントン卿の屋敷とは、王族と貴族が統治するイングランドの社会のミニチュア版だと言うことができる。

ダーリントン卿の屋敷の執事のスティーブンスは、屋敷の中の執事の中のトップだ。ヒエラルヒー構造でできているのが、この社会だ。奴隷の中にもランクというものが存在する。アメリカの黒人奴隷に、室内の仕事をする奴隷と、畑仕事の過酷な労働をする奴隷がいたように。

ダーリントン卿が、執事であるスティーブンスを従えて、そのスティーブンスの下に下位の執事たち、庭師、メイド、などが存在する。ダーリントン卿の屋敷は、前述したように、古き良き「英国の秩序と伝統」を表している。

古き良き「英国の秩序と伝統」というと響きがいいが、要するにイングランドは、王族と貴族が支配する土地だということだ。その土地のダーリントン卿の屋敷では、キツネ狩りが行われる。

キツネ狩りとは、貴族が馬に乗って、犬を従えて、キツネを追いかけまわして殺す、というゲームだ。このキツネは、イングランドの庶民や貧民だととらえることが可能だ。そして、キツネを追い回す犬も、貴族に飼われた人間を表しているとも考えられる。

つまり、王族と貴族のもとで、被支配者が、被支配者を、狩っているとも言える。それは、実際のイングランドの社会と似ているのだろう。王族と貴族のコントロールが、被支配者を覆っている。

ティーブンスは執事の長で、独身で、仕事に生きがいを見出している。仕事とは、隷属する者がすることで、王族や貴族は、仕事をしているというのだろうか? 統治するのが王族と貴族で、戦争のための準備も貴族の仕事かもしれない。

ただ、王族と貴族の行為を“仕事”であるとは、一般的には言わない。執事は仕事をするが、ダーリントン卿は、国のために行為している。仕事とは、隷属者がすることのことだと言っていいと思われる。

ティーブンスは、女性のことを差別している。イングランドの秩序と伝統に従って。ある日、ダーリントンの屋敷に、ミス・ケントンという女性がやって来る。ミス・ケントンの採用の試験の際に、スティーブンスはこう言う。「職場内結婚は良いですが、駆け落ちはだめです。職場は、ロマンスを求めていい場所ではありません」と。

つまりスティーブンスは、結婚以外の男女間のロマンスを認めていない。結婚はイングランドの「秩序と伝統」のために必要だが、ロマンスは「秩序と伝統」の範囲の外にあるというのが、スティーブンスの言い分だ。

そのスティーブンスの発言を聴いて、ミス・ケントンは辛そうな表情をする。いくら仕事ができても、自分の内部から湧き上がる他者を求める気持ちに、ミス・ケントンは正直だからだ。スティーブンスとは違って。

この映画は、ダーリントン卿の屋敷という形で、イングランドの社会のヒエラルヒーを描いている。そして、そのヒエラルヒーの中の一つの人間関係として、スティーブンスとミス・ケントンの関係性というものがある。

ティーブンスとミス・ケントンは互いに好き会っている。しかし、スティーブンスは、女性を自分の気を散らす邪魔者だと思っている節もある。それは、きっとスティーブンスの中にある、自分の劣等感が基になっている、女性嫌悪からだろう。

この映画には、スティーブンスの父であるウィリアムズが登場する。この父と母との結婚生活はあまりうまくいっていなかった。スティーブンスの母親が浮気をして、スティーブンスの父の愛情は、スティーブンスのみに向かうことになった。

そしてそのスティーブンスの父の、スティーブンスへの愛情とは、仕事を息子に教え込むことだったのだろう。スティーブンスは、仕事を教わることとしての愛情しか受けることがなかった。そして、父と母の結婚の現実を見て、スティーブンスは、結婚に幻滅し、女性に愛情を注ぐことに恐怖を覚えるようになったのかもしれない。

ダーリントン卿の屋敷では、国の、ヨーロッパの、世界の運命を決めるような会議が、第2次世界大戦前に行われていた。その会議の内容とは、ドイツを再軍備化するかとか、ナチス・ドイツと協調するかとかいったものだった。

その会議のたびに登場するのが、スティーブンスが名付け親であるカーディナルという、ダーリントン卿の兄弟の残し形見だ。そして、カーディナルから話しかけられる時には、いつもスティーブンスは、プライベートな悩みの渦中にいる。

それは、父親の死であったり、ミス・ケントンがベンという男と結婚するという告白だったりする。つまり、イングランドヒエラルヒーの危機の時にスティーブンスもまた危機に陥る。

イングランドヒエラルヒーの危機には2つある。それは一つは、公共的な危機であるナチスの存在であり、もう一つはプライベートな危機である、父の死と好きな人の喪失だ。プライベートな危機も当然、イングランドヒエラルヒーの中にある。

結婚もロマンスも、当然イングランドヒエラルヒーの中に折り込み済みだからだ。結婚はもちろん、男女間のロマンスもいずれは結婚という形をとることが予想されるために、結婚もロマンスもヒエラルヒーに入っている。

映画のラストには、このヒエラルヒーの危機についての回答が与えられる。それは、平和だったり、和解だったりする。ヒエラルヒーを肯定する者が、実は、ヒエラルヒーをプライベートでは否定しているということもあるのかもしれない。