未解の文明に魅せられて

映画「ロスト・シティZ 失われた黄金都市(原題:The Lost City of Z)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で、映画のジャンルはアドベンチャーだ。

この映画の舞台は、アイルランドイングランドボリビアとブラジルの国境辺り、そして、フランスだ。この映画の登場人物は、パーシー・フォーセットという軍人と、その妻ニーナ。パーシーの子供のジャックとブライアンとジョアン。そしてパーシーの部下のヘンリー・コスティン。そしてたかり屋の貴族ジェームス・マリーなどだ。

パーシー・フォーセットは、イングランドの軍人だ。軍務で功績を立てて、昇進を狙っている男だ。パーシーは父親の過去の行いが悪く、なかなか思うように出世できない。そのパーシーのもとにやってきた任務が、王立地理学協会からの地図を作製する仕事だ。

ボリビアとブラジルの境の辺りの地図はまだできておらず、そのあたりの地図を作成するために、パーシーは派遣される。時代は、1906年ごろだ。パーシーはイングランドの国のために地図製作のための探検に出発する。

パーシーはボリビア東部の未開地に到着する。するとそこには既に、ゴム農園を経営する資本家が存在する。その資本家の名前は、ゴリンドス男爵という。ゴリンドス男爵は、現地民を奴隷として使って、ゴムの木からゴムを休むことなく採取している。

ゴムは当時の宗主国帝国主義の国、先進国では、貴重な資源だった。そのゴムの生産の末端は、ゴリンドス男爵という無法者の資本家による奴隷労働によって成り立っているものだったことが、この映画を観ているとわかる。

この先進国による、現地民の奴隷労働者を使った資源の採取は、現代の世界でも行われていることだ。この映画ではボリビアがゴム農園のある場所だが、そのような先進国の資本家による現地民の搾取の場所は、アフリカ大陸や、南米や、中東などに現在でも存在する。

イングランドが、ボリビアとブラジルの国境の辺りの地図を製作するということは、その地域を支配する礎に地図を使うということだ。つまり、地図作製は、イングランドという帝国主義の国の支配の方法の一部になっている。だから、地図製作に軍事あるパーシーが任命された。地図製作の前線では、未開の地の住人に攻撃されることもあるからだ。

パーシーはイングランドの軍人だ。まさにパーシーはイングランド帝国主義に便乗して、自らの地位を昇進させようとする男だ。それは家族のためでもある。家族を養うには身分と収入が必要と、パーシーは考えている。要するにパーシーは、自らの立身出世のことばかりを考えている軍人で、その野望のためなら軍国主義にも加担する男だ。

パーシーが探検家として活躍した時代は、第1次世界大戦がはじまった時とも重なる。パーシーは、軍人としてフランスで第1次世界大戦に参加する。ただ、その表情は暗い。なぜなら、パーシーは戦争以外の目的を見つけた軍人だからだ。

そのパーシーの戦争以外の目的とは、南米のボリビアとブラジルの国境辺りの探検だ。パーシーは第1次大戦前に、ボリビアとブラジルの間の地図を作るために、川の源流に行きつく。そこで、パーシーは、アマゾンの奥地に土器を見つける。

パーシーは、それは考古学的に価値のあるものだと確信する。そしてそれ以来、パーシーは軍務ではなくて、探検に、自分の夢を託すようになる。それは家名の復興や、恵まれた身分、家族のためだ。だがそれと同時に、パーシーはアマゾンの奥地に文明の痕跡を認めたことにより、西洋社会ではない、先住民の文明に魅せられるようになる。

そして、その未開地の文明を探す探求への欲求は、先住民には文明があるという発想に繋がり、パーシーの中の先住民観が変わっていく。パーシーは、未開の地に住む先住民に敬意をはらうようになっていく。

先住民に敬意をはらっている珍しいイングランド人であるパーシーだが、女性の妻の社会進出には抵抗がある様子だ。パーシーが、アマゾンの奥地で文明の痕跡を見つけた時に、その裏付けとなる1753年のポルトガルの兵士による手紙を発見したのは、妻のニーナだった。

それを根拠として、女性にも社会進出の実力があり、夫パーシーの探検についていこうとする妻ニーナのことを、夫パーシーは認めようとしない。ニーナは言う。「夫婦平等は嘘なの!?」と。

先住民のことは一人前の人間として認めるが、女性のことは一人前の人間として認めない。それがパーシーの在り方だ。しかし、やがてその態度も映画が進むにつれて軟化していくが。パーシーも、時代の流れの中にいる一人の男に過ぎない。

妻ニーナが、安全に社会進出を図れるのは、夫の保護があるからか? それともニーナは夫と離れたくなかったのか? ニーナの、パーシーへの執着は、家父長制が女性に強いたものだと考えることができる。

夫がいなければ、女性には何の力もない。女性に与えられる仕事は、家事労働と売春などだった時代に、女性が社会進出を図れば、それは夫と共に働くぐらいのものだったと、この映画は語っている。

パーシーは息子ジャックと、映画の最後アマゾンの奥地に旅に出る。そこで、2人は先住民の土地で生きたにせよ、死んだにせよ、アマゾンの土地と一体化することになる。つまり、パーシーとジャックは、先進国とは別の、違った形を持った社会に入ったことになる。

それはつまり、パーシーとジャックの奴隷労働を支持するような先進国への別離の態度であり、先進国の住民ではなくなり、はたまた、アマゾンの住民でももともとない人間としての、パーシーとジャックの在り方の存在形態だ。

ニーナは、パーシーとジャックが失踪して、心が苦しいというが、その苦しみは2人に会えない苦しみであると同時に、社会進出から取り残されて、しかも奴隷制を支持するようなイングランドのような国の支配から解放されない女性の苦しみを現わしているかのようだ。

この映画の悲劇は、ニーナの人生かもしれない。自ら社会進出を望み、その社会進出の数少ないチャンスも逃し。愛する人が、自分から離れて行った辛さ。もし、自らの道がニーナに切り開かれていれば、2人の失踪も、ニーナは乗り越えられたかもしれない。

先住民への尊敬。女性への尊敬。帝国主義国家の横暴。資本家の傲慢。子と父の関係。様々なものがこの映画では描かれているように見えて、実はその要素は一本の線で繋がっている。その一本の線を見つけるのに役立つのが、社会の不正を見破る視点であることは、この映画が明確に物語っている。