自分の本当に言いたいこと

映画「40歳の解釈 ラダの場合(原題:The Forty-Year-Old Version)」を観た。

この映画は2020年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の原題タイトルは、The 40-Year-Old Virginという映画のタイトルにかけてある。このThe 40-Year-Old Virginという映画の邦題は「40歳の童貞男」という。The Forty-Year-Old Versionが女性の40歳の場合ならば、The 40 Year Old Virginは男性の40歳の場合と言っていい。

どちらの映画も、40歳になりそれなりの問題を抱えている人の話で、この両方の映画はコメディであることにも共通点がある。

The 40-Year-Old Virginの方は邦題からも連想されるように、下ネタが連発される映画だ。その下ネタの連発は、卑猥な言葉を言ったり、テレビの画面にアダルトビデオを映し出すといった具合だ。

それに対してThe Forty-Year-Old Versionの方も、下ネタがある。主人公のラダが、白人男性のお尻が大きいのを好んでいて吉兆の印としていたり、隣の部屋の隣人のセックスの音を壁越しに聞いているというものだ。また、ラダの友人のアーチ―というゲイの男性のオーラルセックスかハンドジョブの映像を連想するような映像が、瞬間的に映し出される。

The Forty-Year-Old Versionの主人公はラダという女性だ。この女性を演じるのは本名ラダ・ブランクという女性だ。名前が映画の登場人物と、俳優で共通していることからもわかるように、この映画の下地にはこの映画の主演俳優であり、監督でもあり、脚本家でもあるラダ・ブランクという女性の人生がある。

ラダ・ブランクという人は、ニューヨーカーで、脚本家で、ラッパーで、シナリオライターの教師で、ドラマのエピソードを受け持つ脚本を書くこともあり、プロデュースもし、俳優もこなすマルチなタレントだ。

そんな彼女が初監督をした映画がこのThe Forty-Year-Old Versionだ。映画の中でラダは、学校のシナリオライターの教師をして、ラップをする。しかもこの映画の監督や制作や脚本や主演はラダ自身がしている。この映画はまさにラダそのものだ。

この映画は白黒映画だ。なぜこの映画は白黒なのか?ラダはインタビューで、最近のヒップ・ホップは、あまりにあふれていて、あまりに性的にうるさくなっていると答えている。ラダはThe Forty-Year-Old Versionの中で、円熟して、傷つきやすく、洗練されたものを描きたかったと言っている。

ラダの好きな白黒映画には「狩人の夜」「失われた週末」「アパートの鍵貸します」といったものがある。いずれも成功してハッピーというようなヒップ・ホップの昨今のイメージからは遠い非常にシリアスな映画だ。

他にもラダは自身のフェイバリット・ムービーとして「狼たちの午後」をあげている。

狼たちの午後」という映画は、主人公とその仲間が銀行強盗をするという話だ。すると人々は銀行強盗をする、準備周到で、タフで、残虐な登場人物を想像するかもしれない。しかし、この「狼たちの午後」という映画は観る者のその期待を裏切る。

狼たちの午後」の登場人物は、金庫の場所を知らず、人を殺せない。主人公が「そいつに銃を向けてろ」と強盗仲間に言うと、強盗仲間はこう言う。「僕に人は殺せないよ」と。銀行強盗はタフで残虐な人物ではない。

この映画の表現方法からもわかるように、ラダは映画に脆弱さを求めていることがうかがえる。その脆弱さとはこのThe Forty-Year-Old Versionの中では、自分の言いたいことをお金を前にすると言えなくなるという形で表される。

ラダはアパートの家賃の支払いに困っている。「家賃代が欲しい」とラダは言う。自分の主義主張より家賃の方が、つまりお金の方が先決なのだ。しかし、ギャングスタ・ラッパーのようにラダは成功を受け入れることができない。

ラダは白人のプロデューサーから、仕事の依頼を受ける。その時に、その白人の老人男性はこういう。「君の脚本は黒人らしくない」と。「今は、ハーレムの高級化で白人が黒人の居場所を乗っ取ろうとしている。それを書くんだ」と彼は言う。

ラダは黒人だ。白人の老年のプロデューサーが言う。「君の脚本は黒人らしくない」と。ラダが黒人で、ラダが脚本を書いているにも関わらずだ。しかも、その白人の老人男性は、ラダがハーレムの高級化の話題を先に出していて、そのラダの会話を遮り、ハーレムの高級化を黒人の問題として取り上げると横柄に言い出す。つまりは、黒人の言葉の盗用、いうなら黒人文化の盗用だ。白人が黒人の求めるものを決定するという侵略者的な姿勢がここに現れている。

ラダは貧困ポルノを嫌っている。貧困ポルノとは、貧困である状況を利用してお金儲けをすることだ。貧困ポルノの作品は、貧困家庭だったりを描く。その貧困に同情が集まる。そしてその同情を利用して作品を売るのだ。

そのためには主人公は貧しければ、逆境にあればあるほどいい。ラダはその老人のプロデューサーに対して言う。「ジャンキーの母親が出てくるのは?」白人のプロデューサーは言う。「ノーノーそれは違うよ。やっぱり高級化の問題だね」と。

白人のプロデューサーにとって、ジャンキーの母親は重過ぎるか、明らかに貧困ポルノっぽくて嫌なのだろう。黒人街であったハーレムの高級化により、低賃金の黒人が追い出されて、高級取の白人がハーレムを乗っ取っていく方が、無難だと彼は思ったのだろう。

ちなみに黒人街の高級化のことをgentrificationジェントリフィケーションという。この話題は新聞のニュースにも取り上げ得られている。アイビー・リーグ出身の銀行員やコンサルタントや弁護士の人たちが、職場に近いマンハッタンに住むようになって起こった現象だ。黒人の住民が、家賃が上がって暮らすことができないという訴えをしている様子が新聞で取り上げられている。

その被害にあっているのが実はラダという女性だが、彼女はジェントリフィケーションについて当初とりあげようとして、それを白人の老人の男性に遮られ盗用されたことで、それを取り下げる。ラダがその後に思いついた脚本は、雑貨屋を営む黒人夫婦の話で、妻が黒人の活動家という内容だ。

映画の傷つきやすさについて触れたが、前述したように、この傷つきやすさがラダにある。それは、自分の意見が通らないことへの傷つきだ。ラダの名前がクレジットされる作品なのに、ラダの意向が尊重されていないことへの憤り。それがこの映画の、ラダの脆弱性だ。そしてその傷つきやすさを現わしているのが、この映画が白黒である理由だ。

過去のラダが好きな白黒映画の、傷つきやすさを、ラダは表現しようとしている。それは、ラダが自分の声を、言葉を失わないための戦いであることが、ここから読み取ることができる。

ラダは自分の言葉を発するためにラップを利用する。ラダは10代のころラップをして自分の主義主張をしていた。その原体験が、40歳の戦いを強いられているラダに、自分の本当に言いたいこと、自分の声を取り戻させるのだ。

脚本家が自分の声を取り戻す作品には、「マンク」というデヴィッド・フィンチャー監督の作品がある。この「マンク」も自分の声を、映画の支配者であるランドルフ・ハーストから奪われていた自分の声を、最後にその自分の声を取り戻すというのが「マンク」という映画だった。

他にもこの映画のように学校の教師と生徒を描いた映画はたくさんある。「イカとクジラ」「ソウルフルワールド」「グッド・ウィル・ハンティング」「今を生きる」などがそういった映画だ。

イカとクジラ」では、自分の言いたいことを押し通すために、大衆のことを俗物呼ばわりする作家の父親が出てくる。言いたいことを押し通すことと生活の間のバランスが重要で、彼の妻は売れっ子の作家で、自分の言いたいこととセールスが結びついている。

「ソウルフルワールド」では、自分のやりたいと思っていたことが、何なのか実はわかっていなかったという作品だ。自分の声を手に入れる以前に、自分の本当に言いたいことがわかっていなかったのが主人公だった。

映画The 40-Year-Old Virginには、自分が好きな人がわかっているのに、人の好さが裏目に出て、他人の余計なアドバイスを聞き入れてしまうという話の筋書きもあった。自分の声がわかっていても、正直に動けないそれが人間なのかもという問題定義だ。

自分の心の声がわかっている人はそれだけで幸せなのだが、その自分の声の維持のためには戦うことが必要な時もある。そう教えてくれるのが、The Forty-Year-Old Versionという映画だ。

 

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