福祉国家の貧困を描く

映画「真夜中の虹(原題:Ariel)」を観た。

この映画は1988年のフィンランド映画で、映画のジャンルはコメディ・ラブロマンス・底辺生活者ものだ。

この映画の主人公は、タイスト・カスリネンという30代後半くらいの男性だ。カスリネンは、フィンランドの鉱山に勤めているが、鉱山が閉鎖されることになる。この映画の冒頭は、鉱山を閉鎖するために爆破するところから始まる。

鉱山が閉鎖され、カスリネンは失業する。カスリネンの同僚の年輩の男は、失業してこの先、職を得ることができないと悟って、バーのトイレで拳銃自殺をする。それにより、カスリネンは以前からその年輩の同僚に欲しいとねだっていた車を手に入れる。

この年輩の同僚の男は、カスリネンにこう言い残して死んでいく。「南に行っても仕事はなくて、どうせ行き止まりだ」と。カスリネンの勤めていた鉱山は北にあった。北の今住んでいる場所から、南の都市部を目指して行っても仕事はない、というのが、年配の同僚の死を選ぶ理由となった原因の一つだ。

また、この年輩の同僚はカスリネンと同じく、独り身だったようだ。人は失業などの困難に陥ると、ホームベースの支えが必要になる。ホームベースとは、家族や友達などのコミュニティーのことだ。

アメリカの例を上げると、学歴に自信があれば、それが自尊心の支えになるが、それがない場合、自尊心を支えるのは、コミュニティーになる。アメリカの白人は自尊心を学歴から得る。それに対して、アメリカ黒人は自尊心をコミュニティーから得る。

フィンランドに住むカスリネンの場合、鉱山に勤めていることから、ホワイトカラーではないので、大学を卒業しているとは考えにくい。カスリネンは、低学歴であると考えられる。よって、アメリカ型に当てはめた場合、カスリネンは自尊心をコミュニティーからえるはずだが、カスリネンには家族がいないし、近い親戚もいない。

カスリネンは、友達が拳銃自殺をして、家族がなく、近い親戚もなく、恋人もいない。カスリネンの心は、失業をしたことにより、危機的な状況に陥っているということが考えられる。カスリネンは、次の仕事を見つけられるかどうかという、社会学的に言えば、危機的移行の真っただ中にいる。

フィンランドというと、福祉国家社会保障が手厚い印象がある。第二次世界大戦の終わりから、フィンランドは、近代的な福祉国家に舵をとった。この映画が作られた1980年代のフィンランドの失業率は3.5%で、貧困に陥るリスクが考えられたのは人口の10.7%だった。

北欧のノルウェイ、スエーデン、フィンランド、そしてロシアには、サーミと呼ばれる人たちが住んでいる。サーミの人たちは、エレクトリシティの暮らしとは違い、テントでトナカイを飼って暮らし電気の通わない暮らしをしていた人たちだ。

映画「サーミの血」では、サーミの人たちに対する差別が描かれている。また、フィンランドは、北アメリカやカリビアンそしてアフリカの植民地会社から利益を得ていた。この映画の監督アキ・カウリスマキの他の映画には、サーミの人たちを馬鹿にするセリフが出てくる。それは、登場人物の持つ人間観を現わしている人間描写であると同時に、フィンランドにもサーミに対する差別があったことの証明になっている。

つまり、フィンランド植民地主義をとり、現地の人たちを搾取していた。今現在のフィンランドは、最も進んで豊かな先進国という建て前を持っているが、フィンランドは実は、サーミの人たちを差別して、植民地主義をとっていた国だ。

フィンランド福祉国家路線は、第二次世界大戦の終わりから始まっている。その福祉国家の路線から零れ落ちてしまう人たちがいる。それが、カスリネンだ。カスリネンは白人で、サーミの人ではない。

カスリネンは、この映画が作られた1980年代のフィンランドの失業率の3.5%に入り、鉱山で働いている時も、貧困に陥るリスクが考えられる人口の10.7%に入っていた。現代的な福祉国家の路線が第二次世界大戦の終わり、つまり1945年から始まりそれから35年以上経った1980年代でも、貧困という社会の底辺に落ちてしまう人たちがいたことを、この映画「真夜中の虹」は示している。

この映画の監督アキ・カウリスマキは、映画で1980年代の好景気の最中にあるフィンランドの人たちや、1990年代の不況の真っただ中にあるフィンランドの人たちを映画で描き出している。福祉国家で、失業率が低くても、さらにその失業者に焦点を当てる。これは、何を現わしているのだろうか?

それは、ここにあらわれているのは、この監督アキ・カウリスマキの、貧困に対する問題意識だ。福祉国家の欠点をあぶり出そうとしているのが、映画監督アキ・カウリスマキだ。どのようにして、人は貧困に陥るのか? アキ・カウリスマキはそう問い続けている監督だ。

それが、このアキ・カウリスマキの映画にみられる一貫性だ。フィンランドの良心は、アキ・カウリスマキのような監督を輩出するところにあるのかもしれない。だから、フィンランドは世界でも類を見ないほどに成功した国家となっているのだろう。

ただ、今のフィンランドから失業率は消滅しているのか? ちなみに、2023年の11月のフィンランドの失業率は6.8%だ。1980年代の失業率の3.5%から増えている。つまり、フィンランドの状況はまったく変わっていないということかもしれない。

フィンランドは2023年の世界の幸福度ランキングで1位だ。だが、フィンランドにはまだ失業があり、カスリネンのような状況に置かれている人たちが存在する。ちなみに日本の世界幸福度ランキングの順位は47位だ。

フィンランドアキ・カウリスマキ監督は、福祉国家で幸福な国の貧困を描いているが、その国よりも幸福度ランキングが低い日本の状況は一体どうなっているのか? それは、相対的貧困者の数や、生活保護を受けさせない役所の在り方を考えてみればわかることだ。

つまり、この映画「真夜中の虹」で描かれている状況は、日本はまったく他人事ではなくて、日本人の多くの人が、相対的貧困でもっと酷い貧困に陥る可能性があり、酷い貧困に陥っても役所で門前払いされるという事実がある。

この映画「真夜中の虹」以外にも、アキ・カウリスマキ監督には「パラダイスの夕暮れ」(1986)、「マッチ工場の少女」(1990) 、「愛しのタチアナ」(1994) 、「浮き雲」(1996)などがあるが、そのどれもが、福祉国家の不完全性を描いている。そして、その福祉国家フィンランドの幸福度よりも、2023年の幸福度がはるかに低い日本は、アキ・カウリスマキ監督の一連のコメディタッチの映画を観て、引きつりながら笑うしかないのだろうか?