戦争に正義はない

映画「プラトーン 特別編(原題:Platoon)」を観た。

この映画は1986年のアメリカ映画で、映画のジャンルは戦争映画だ。

この映画は1960年代を中心に十年以上続いたとされる、アジアのベトナムを南北に分けた戦争であるベトナム戦争をもとに、一人の大学を中退した志願兵の視点から、ベトナム戦争を描いた映画だ。

1960年代、ベトナムでは、アメリカをバックにしたサイゴン政権と、アメリカをバックとしたサイゴン政権に抵抗する北ベトナム南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)との戦争が、ベトナムを北と南に分けて行われていた。

これはアメリカ帝国主義に対する抵抗である。そして、もともとはベトナムはフランスの植民地であったことからも示されるように、植民地としてのベトナムの抵抗だ。ベトナム戦争での北ベトナム南ベトナムを合わせた推定戦死者は146万2000人、行方不明者は209万4000人、民間人死者は458万1000人で、実に813万7000人の人がベトナム戦争で死んだことになると言っていいだろう。

このベトナム戦争プラトーン(Platoon)、つまり”小隊”の視点から描いたのが、オリバー・ストーン監督だ。オリバー・ストーンは「ウォール街」「7月4日に生まれて」「ナチュラル・ボーン・キラーズ」「ブッシュ」などの映画を作ったことで知られる映画監督だ。

プラトーン」を作るとほぼ同時に、エルサルバドルでの内戦の様子を取り上げた映画「サルバドル/遥かなる日々」を、オリバー・ストーンは撮っている。「サルバドル」は、アメリカが中米に傀儡政権を建てて、その傀儡政権と現地民のゲリラとの闘いの残虐性を描いた映画だった。オリバー・ストーンは「サルバドル」でアメリカの帝国主義を描いた。

それと同時に撮られていたのが、これもアメリカの帝国主義を描く映画「プラトーン」だ。同時期に撮られていた「サルバドル」と「プラトーン」は、アメリカの帝国主義を描く映画となっている。「ウォール街」や「ブッシュ」なども、アメリカの帝国主義を描いている映画だと言っていい。オリバー・ストーンは、アメリカの帝国主義を映画にしてきた映画監督と言ってもいいのではないだろうか。

ベトナム戦争関連の映画として最近では、黒人監督であるスパイク・リー監督の「ザ・ファイブ・ブラッズ」がある。これも戦争の残虐さを描いた映画である。VARIETY誌のインタビューで、スパイク・リーは、マーティン・スコセッシオリバー・ストーンが在籍していた大学だから、僕はニュー・ヨーク大学に入ったと言っている。

ベトナム戦争を扱った映画で他に有名なのは、フランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」、マイケル・チミノ監督の「ディア・ハンター」がある。これらは戦争の精神的異常性、精神症的部分をも、描いた映画だ。

この映画「プラトーン」は、黒人差別、ユダヤ人差別、貧困、地方差別などを描いた映画とも言えるし、他にもドラッグ・カルチャーや、敵味方ない殺し合い、戦争の不条理さを描いた映画とも言える。

この映画の主人公は、クリス・テイラーという大学を中退してベトナム戦争に志願した兵士だ。テイラーは、ベトナム戦争に行かされているのは貧困にある人たちばかりだと言う。貧困にある人たちとは、黒人やユダヤ人や地方出身者のことだ。

そのような現状がおかしいと思ったテイラーのような白人のリッチな家の大学中退者がベトナム戦争に参加すると、参戦理由を聴いた黒人の兵士はこういう。「お前は変わり者だ。お前の家はリッチなんだろうな」と。

この映画は、ベトナム戦争の敵味方の区別がつかない残虐性を現わしている。これは実際にあったMy Lai massacreソンミ村虐殺事件のような事実と重なる所がある。オリバー・ストーンは、ベトナム戦争に参加していた。その監督が描くのが、そのような残虐シーンだ。

オリバー・ストーンは、ベトナム戦争に実際に参加していた。その監督が描くのが、敵味方ないただの殺し合いであり、虐殺だ。兵士は少女をレイプして、農民の男や女たちを殺し、食料をまき散らし、村を焼き払う。

村を焼き払うのは、北ベトナム側の兵士の補給基地に村がならないようにするためだ。そして戦場での憂さ晴らしと、性欲解消のために少女をレイプしようとする。そして、仲間の兵士が死んで、その事実が自分の精神をすり減らしていることを、ベトナム人のせいにしてベトナム人を殺す。

この映画の中で象徴的に描かれるのは、エリアスとバーンズという2人の軍曹の対立だ。エリアスは戦場に残ったわずかな良心の象徴であり、バーンズは死に直面して、一般的な死への配慮を忘れてしまった戦争の残虐性を象徴する存在だ。

ここで忘れてはならないのが、この社会全体にエリアスとバーンズのような人間は存在して、そして、戦争という現実の中の良心的部分であるエリアスは、バーンズに殺され、戦争の残虐性であるバーンズはエリアスを殺して生き延びているだろうということだ。

映画「プラトーン」のDVDのジャケットにも使われている、有名なこの映画の1シーンは、エリアスが死んでいく様子だ。エリアスはバーンズに撃たれて、その後北ベトナム兵に撃たれながら追われる。そして、エリアスは息絶える。天に両手を仰ぎながら。

敵味方のない殺し合いである戦争。その最もわかりやすい映画の中での例は、前線のアメリカ兵を砲撃するアメリカの戦闘機だろう。アメリカ人が、アメリカ人を殺す。そう、ベトナムが南北分かれて殺し合ったように。

アメリカの帝国主義アメリカはベトナムを侵略して、ベトナムアメリカのものとしようとした。その結果当然のように被植民地の現地民たちは怒り、自らゲリラを立ち上げた。アメリカという見せかけの民主主義国である軍事独裁国家と、現地民の戦い。

その勝敗を決定づけたのが、テト攻勢のフエ虐殺だ。フエ虐殺では、北ベトナム兵に、軍人だけでなくフエの市民が虐殺された。この事件を転機として、アメリカのベトナム戦争の敗戦は確実なものになっていった。アメリカは、ベトナム戦争に負けた。

戦争に正義はない。この北ベトナム側による虐殺により、アメリカは戦争に負けた。侵略者は虐殺する。しかし、憎しみの連鎖は生まれて、被支配者側も虐殺した。これがベトナム戦争が私たちに残した教訓だ。

戦争は、血で血を洗うようなものと言われる。映画は、戦争を美化するか? DVDのパッケージにくるまれて商品として売られる戦争映画が、戦争を美化しているのか? それは映画の内容と、映画を観るものの認識が問われているということだろう。

男の正体

映画「ザ・フライ 特別編(原題:The Fly)」を観た。

この映画は1986年のアメリカ映画で、映画のジャンルはホラー・リメイクだ。

この映画はデヴィッド・クローネンバーグ監督による、1958年に公開されたホラー映画「ハエ男の恐怖(原題:The Fly)」のリメイク版だ。そして、この映画は、このザ・フライまでにクローネンバーグが撮ってきた映画「デビット・クローネンバーグのシーバーズ(原題:Shivers)」1975年、「ザ・ブルード/怒りのメタファー(原題:The Brood)」1979年、「ヴィデオドローム(原題:Videodrome)」1983年、「デッドゾーン(原題:The Dead Zone)」1983年、のボディ・ホラーと呼ばれるジャンルの要約にあたると言われている。

この映画の主人公は、セス・ブランドルという科学者と、ジャーナリストの女性ヴェロニカ・クワイフだ。また、その2人に関係してくるヴェロニカの元カレのステイシス・ボランズもいる。基本的に、この映画の登場人物はこの3人だ。

セスは、ノーベル賞候補になった科学者。ヴェロニカは、付き合ってきた男性の社会的影響力を利用して自らのキャリアを築いていこうとするジャーナリスト。元カレのステイシスは、ヴェロニカを大学で教え、就職の支援をして、ヴェロニカをジャーナリストに育て上げた男だ。

女性がキャリアを築くには、男性の地位と権力にすがるしかないというのが、この映画の中の女性像であり、それは今日の世界の中でも、まだあてはまることだ。ヴェロニカは、地位と名声と権力を築くための数少ない自分にできる方法を選択している。これが、家父長制の社会の女性の生き方だ。

つまり、この映画は、この映画が作られた当時のように、そして今の現実の世界のように、男尊女卑の古い習慣が残り、いわゆる女性差別が残っている社会の話だ。ヴェロニカがセックスによって男をコントロールして、立身出世をしていくのは、男女差別のため女性に選択肢が少ないためだ。

この映画の主要な部分は、セスが作り出したテレポッドでセス自身が変身することにある。セスのテレポッドは、セスの劣等感の現れだ。セスはインテリだが、内向的な性格だ。つまり友達も少なく、女性にもてるわけでもない。いわゆる、なよなよした男だ。

そのなよなよした男が、テレポッドを使って、男性性のあふれた、筋肉質の男に生まれかわる。テレポッドで使われる技術とは、「スター・トレック」に出てくるようなワープ、つまりこの映画では転送と表現されている、技術だ。

機器Aから機器Bまで物体を転送するというのが、テレポッドの当初の形だ。そして最終的にテレポッドは、機器Aと機器Bに入れた物体を機器Cに転送して、機器Aの物体と機器Bの物体を、機器Cで融合させるという形に発展する。

テレポッドは、セスの研究課題だ。なぜセスがテレポッドを作っているのか? それは単純だ。それは、地位と名声とお金と、それに付随して寄ってくる性的対象である女性のためだ。これは、セスだけでなく多くの男性にもあてはまることだ。男は、性的対象を求める。

テレポット自体が、セスの野望の象徴であり、そのテレポッドがセスの夢を叶えてくれる。その夢とはテレポット機器自体の完成であると同時に、ヴェロニカの注意を自分に惹きつけることだ。

つまりテレポッドは、セスの願望の象徴的な現れだ。セスは、テレポッドによってヴェロニカの心と肉体を手中に収める。そして、その後にセスは、自身の非男性的な欠点を補うために自身もテレポッドに入る。

自身にヴェロニカを与えてくれたテレポッドと同化するように、セスは自身をテレポッドで転送する。その時は、セスには融合という考えはない。ただ、ヴェロニカが元カレに会っていることを知りその嫉妬で、強固な男性性を求める焦燥感に駆られて自信をテレポッドで転送する。

嫉妬は映画では、ハエとして現れている。地位、名声、お金、性的対象。これらと常に一緒にあるのは、自分の欲しいものを既に持っている者に対する嫉妬だ。そしてこのハエ=嫉妬がセスの人生をさらに狂わせていくことになる。

ハエ=嫉妬は、セスの体を男性性に溢れたものにする。体は筋肉質になり、性欲も増えて、食欲も増す。しかし、その変身は一時的な美しさをもたらすが、肉体と精神は徐々に崩壊に向かっていく。名声と地位と金と性欲が、セスを滅ぼし出す。つまり、名声と地位と金と性欲が満ちている者へのセスの嫉妬が、セスを崩壊へ導く。

この肉体が朽ちていく過程が、一連のクロ―ネンバーグのボディー・ホラーと要約される映画の中で見られる、グロテスクな特殊メイクによるものだ。でこぼこの皮膚。突き出した目。めくれた唇。剥がれ落ちる耳や爪。それはどこかしら、Rupa Marya&Raj Patelによる著書「Inflamed」の中に出てくる、実際の病気で肉体が崩壊してく患者を思い出させる。

変身の過程を、当初セスは喜んでいる。本当の自分になれると。しかし、それはヴェロニカにとっては耐えられるものではない。特に、セスの子供を妊娠しているヴェロニカには。ヴェロニカは、映画「ローズマリーの赤ちゃん」の主人公のように自分の子供の誕生に強い不安を覚える。

ヴェロニカにとってはセスの変身は当初は、今までとは違う男らしいセスに変わった、むしろ喜ばしい変化だ。しかし、その変化は段々忌まわしいものになっていく。セスは、「これは自分自身を取り戻して行く過程だ」と嬉々としている。

しかし、その過程はヴェロニカにとって悪夢に変わっていく。男性が女性にアプローチするのは、表面上のみてくれやカッコよさだったりする。女性は男性が粋がっているのを、自分に対する正当な男性の態度、男性の努力、男性の自分に対する評価として受け入れる。私にふさわしい男になろうとしていると。

しかし、付き合うにつれて男性性は男性の女性に好ましくない、しかも人間的にも好ましくない正体を明かすようになる。それがこの映画では、セスの変身という形で現れてくる。つまり、セスのハエとの合体による変身は、そのまま男女間の付き合いの進行で、男性性を獲得していく男の姿を現わしている。この映画「ザ・フライ」は男女の付き合いの過程の話と言える。

セスは、こう言う。「人間としての僕は夢で、昆虫として僕は目覚める」と。これは映画「コッポラの胡蝶の夢」を思わせるセリフだ。

男性は今の自分ではない、もっと女性に好かれる自分を求めているともいえる。そのために過去を夢として否定して、変身してく自分を理想に近づいていると認識することもある。

ただ、そこで”変身を望むありのままの自分”が示されると、女性はそれに怖気ついてしまうものなのかもしれない。なぜなら、変身を望む男は、自分を愛することができていないからだ。自分を愛することができなければ、人は他人を愛することができない。

”変身を望むありのままの自分”とは、「今の自分が嫌いだ」と言っているようなものかもしれない。人に変化は、必要だ。だたそこに適度な自己肯定感がなければ、過剰な変身への願望は相手に不安を与えるだけなのかもしれない。

植民地支配

映画「エイリアン2完全版(原題:Aliens)」を観た。

この映画は1986年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSFアクションだ。

この映画の主人公はリプリーという女性だ。リプリーは宇宙航海士で、エイリアン・シリーズの第1作目のリドリー・スコットが監督したもので、既にエイリアン退治をしている。この第2作目の監督は、アバターで知られるジェームス・キャメロンだ。

この映画でも、映画の見ものになっているのは、エイリアン退治だ。第1作目では、エイリアンとの遭遇にも重点が置かれていたが、今回はエイリアンそのものの存在を知ることということよりは、エイリアンを全滅させることに重点が置かれている。

映画の主な登場人物は、ウェイランドという会社の航海士であるリプリー、同じ会社のバークという男、そして傭兵たち、植民先でのエイリアンからの生存者であるウェイランド社の社員の子供の女の子のニュートだ。

リプリーは、植民先の惑星LV426で先に植民した60から70の家族と連絡が途絶えていて、エイリアンによって滅ぼされたと思われるその惑星に、同僚のバークや傭兵たちと出発する。

リプリーは冷凍睡眠カプセルに入っている所を、地球の近くを通りかかったために発見されている。リプリーは、57年間宇宙を彷徨っていた。それをウェイランド社が、回収した。そのウェイランド社の目的は、植民地を探すことだ。そして多分、資源を探している。

惑星LV426は、地球からの植民先だ。ここで、地球内でのヨーロッパ列国の植民地時代とその過程で、ヨーロッパの人たちがしてきたことを思い出すとよい。例えばスペイン・ポルトガルは南米を植民地として時に、現地の人を虐殺して、資源を横取りした。

現地の豊富な資源を横取りしたことで、ヨーロッパはそれまでヨーロッパになかったものを手に入れて、それはヨーロッパ人の生活の中に普及していった。ヨーロッパは、“資源の呪い”といわれる資源の搾取の元凶だ。

映画の中のセリフで、ウェイランド社の社員の女性の放つ印象的な言葉がある。「No indigenous life」という言葉だ。Indigenousとは“現地の”という意味。”惑星LV426には、現地の生命はいません”という意味だ。

ニュースなどで現地民を指す言葉で、Indigenous peopleという言葉がある。つまりこの表現からは、現地に住む人のような生命体はいませんと言っていることになる。果たしてそうか? 実は惑星LV426には、先に入植していた宇宙人エイリアンがいる。

ここで、アメリカについての神話を思い出して欲しい。アメリカに先住民が住んでいたことは、知られている。だがアメリカへの入植の際に、アメリカ先住民の人たちが虐殺されたことは歴史の表舞台にあまり出てこない。

つまり、アメリカにヨーロッパからの入植者に反抗したアメリカ先住民は、いなかったことになっている。つまり、アメリカにはヨーロッパ人が入植するまで、反抗的なアメリカ先住民は、アメリカ大陸には多くは、いなかったことになっていると言ってもおかしくはない。

アメリカは、惑星LV426と同じでいわば「No indigenous life」の土地ということにされている。惑星LV426は、植民地の代名詞であると同時に、具体的なヨーロッパの植民地であるアメリカを指しているように思われる。

つまり、エイリアン2アメリカに入植するヨーロッパ人の話で、入植先にいるのはエイリアンつまり先住民だったということになる。ちなみに英語のalienという言葉は、”地球外生命体の”、”異星の”、という意味の他に、”外国人の”、”異人種の”という意味もある。

ここで惑星LV426が、アメリカとイコールであると言ってしまうこともいいかもしれないが、それだとヨーロッパの植民地支配の全体を除外することになってしまいかねないので、惑星LV426に入植するというのは、すべての植民地支配の、宗主国としての日本などを含む植民地支配のメタファーとしてとらえることにしたい。

ではここで、エイリアンとは何者か? という話をしたい。もうすでにお分かりのようにエイリアンとは、植民地となる所に先に住んでいた現地民のことだと考えることができる。エイリアンは、アメリカ先住民や、南米の人たちや、韓国の人たちや、中国の人たちや、アフリカの人たちのことだと考えることができる。

こう考えると、エイリアンは植民地主義の被害者であるという視点が出来上がる。そして映画の中ではエイリアンの大群は、後からやってきた少数の植民者に虐殺される。それはまるで、南米の被植民地の歴史を示してるかのようでもある。

この映画を観る視点の一つがここで示されたわけだが、映画を観る人には、怖くて強いエイリアンを弱者である人間が、なんとか頑張って倒すという話に見えるかもしれない。しかし、虐殺されるのは人間だけでなく、エイリアンも同じことだ。

弱い人間? 強いエイリアン? その視点もある意味痛快だが、それでは事実を覆い隠すことになる。この大虐殺の勝者は、人間だ。つまり植民地支配が、完成したことになる。人間は、実は恐ろしい捕食者なのだ。

この映画には、もうひとつの別の物語がある。それは女の子供を失ったリプリーが、エイリアンに両親や兄弟を殺された女の子を、家族として受け入れる家族の再生の物語だ。ちなみに最後まで生き残る傭兵の男が、リプリーの夫ということになるんだろう。

この映画は植民地主義を描きつつ、そこで家族を喪失した者同士が家族として再生する物語を描いているということもできる。ただそこにある植民地支配の歴史を、忘れてはいけない。エイリアンは、虐殺されたのだ。

ちなみに植民地を探しているのは、多国籍企業ならぬ星間企業だ。

憎しみの連鎖

映画「暁の7人(原題:Operation Daybreak)」を観た。

この映画は1975年のアメリカ映画で、映画のジャンルは戦争映画だ。

この映画は、第二次世界大戦で連合国側と闘った悪の枢軸国の一つであるナチスドイツの司令官ハイドリッヒを暗殺する指令を受けた、連合国側のイギリスに亡命しているチェコ人の落下傘部隊が、チェコに降下するところから映画は始まる。

この映画の主人公はヤン・クビシュ、ヨゼフ・カブチック、カレル・チューダだ。この3人とも人殺しという戦争の暗い部分を現わしているが、この3人兵士の中で最も重い罪を犯しているのが、カレル・チューダという人物だ。

チューダは、いわゆる裏切り者だ。この映画の中で描かれるチューダの裏切りの原因は、家族だ。家族を思いやる優しい心が、自分の家族がドイツに殺されるのではないかという猜疑心や恐怖に飲み込まれていってしまう。

チューダには、妻と子供がいた。自分が連合国の部隊に参加している、しかもハイドリッヒ暗殺の計画のためにチェコに舞い戻ったとドイツが知ったら、自分の家族はナチスドイツに殺されてしまうかもしれない。

そんな恐怖に、チューダは襲われている。日に日にその苦悩は、強まっていく。そこでチューダが思いつくのは、自分の家族だけは助けてもらおうという発想だ。チューダは、チェコレジスタンスのいる隠れ家をナチスドイツに教えてしまう。

そしてそれが、ハイドリッヒを暗殺した2人ヤン・クビシュとヨゼフ・カブチックをナチスドイツに売り渡すことにつながり、結局2人はナチスドイツの兵士たちに教会で追いつめられて自殺してしまう。チューバの裏切りは、2人の死の直接的な理由の一つだ。

では、チューバは悪い奴か? それはそうとも言い切れないのが、この映画の重要な点であると言っても良い。チューバのようなどうしようもない状況に置かれてしまったら、誰もがチューバのような結果を犯した可能性がある。

チューバのことを責めることができないのが、この映画の重要な点である。その点でこの映画は善と悪がきっぱり分かれているような映画と違って、非常に後味が悪いものになっている。

そしてこの映画の後味の悪さは、映画のクライマックスにも関連する。それは、正義が勝つのではないということだ。直接的には。正義の人であるはずのハイドリッヒを殺した2人、ヤン・クビシュとヨゼフ・カブチックが映画の最後で自殺するのだ。

正義は必ず勝つ!! といった映画の醍醐味を、否定するのがこの映画だ。そしてそれゆえにこの映画は後味が悪く、そのために非常に印象に残る。戦争は善も悪もない。そこにあるのはただの人殺しなのだ、という事実がこの映画の突きつける最たるものだ。

この映画は、史実と違うところがある。隠れ家の家の母親のマリーは、トイレでUシアン化物を飲んで自殺している。そしてその息子アタはアパートで尋問されておらず、母親の生首を見せられて、情報を出さなければ父親を殺すと言われている。

戦争は、酷い。人を、どんどん残酷にしていく。ヒトラーは、チューダの自白の後に、実際はチェコ政治犯3万人を処刑している。また、1万3千人の人々がナチスドイツにハイドリッヒ暗殺の後に逮捕されている。

その中には、ヤンの恋人であったアンナも含まれている。アンナは、その後にマウサウセン強制収容所で死んでいる。ある推定では、5千人の人々が報復として殺されている(1)。また、ナチスの間違った推測によって、リディツェでは、虐殺が行われた。

1942年6月9日のそのリディツェの虐殺では199人の男が殺され、195人の女性が強制収容所に送られ、95人の子供たちが、牢屋に入れられた。このナチスの推測とは、リディツェがハイドリッヒ暗殺に関係していたという、間違った推測だ。

戦争とは、理由なき殺人かもしれない。そうこの虐殺を知ると、思われてくる。戦争で一端人が死に始めると、やみくもに連鎖的に人が殺されていく。自分の勢力が有利になるかのように、人が殺される。

しかし、実際人を殺して生まれるのは、人殺しに対する憎しみだけだ。憎しみが、連鎖していく。憎しみが連鎖して、人殺しが人殺しを呼び、ますます人が殺される。戦争は、戦争を呼ぶ。今の中東の状況も、この連鎖の結果だともいうことができる。

しかし、今の中東の憎しみの連鎖の原因は、アメリカの軍産複合体にある。戦争をすると巨大な利益が、軍産複合体にもたらされる。憎しみの連鎖の裏には、金持ちの金のための行為がある。憎しみの背後には、一部の人に利益をもたらすためという、広い範囲でみたら不利益な合理性がある。

アメリカは「暁の7人」のような映画を作っているが、実は第二次大戦中にアメリカの親ドイツ派はドイツの会社に融資を行っている。そして戦争の後も、アメリカにナチスドイツの技術者たちが移住している。

ヒトラーは、アメリカのために必要な存在だった。アメリカは、ドイツをソ連が勢力を広げすぎないようにするための防波堤の役割を果たさせようとしたという事実もある。アメリカにも親ドイツ派と反ドイツ派がいて、その両者が競い合っていたという事実がある。

連合国側のアメリカが、ドイツを支援していた。戦争に、正義はない。あるのは憎しみが憎しみを呼ぶ連鎖と、国家の中枢の考えている利益の追求だけだ。いつになったら、戦争は終わるのか? この映画を観ると、改めてそう考えさせられる。

 

 

1.Heroes or cowards? Czechs in World War II | Radio Prague International

私は最高!!

映画「モハメド・アリ ザ・グレーテスト 1964-74(原題:Muhammad Ali, The Greatest)」を観た。

この映画は1969年のフランス映画で、映画のジャンルはドキュメンタリー伝記映画だ。

この映画の主人公は、映画のタイトルにある通りに、モハメド・アリという世界的に有名なボクシング選手だ。アリは、1960年のローマのオリンピックのボクシングのライト・ヘヴィ級でタイトルを取り、その後ヘヴィー級の世界王者に3回輝いている。

ニュー・ヨーク・タイムズの2016年の6月4日のアリの74歳での死亡を伝える記事では、アリのことを20世紀で最もカリスマがあり、論争を呼ぶスポーツ選手だったと言っている。

この映画は、そのモハメド・アリの1964年から1974年の10年間を追った映画だ。映画の製作年が、1969年となっているのは、1969年にいったんこの映画は完成していたからだろうか? その辺りは不明だ。

この映画は、2つの部分に分けることができる。前半(1964年)は、アリが世界ヘヴィ級のチャンピオンに初めて輝くとき。後半(1974年)は、ベトナム戦争の兵役拒否でタイトルを失い、ヘルニアの手術、ネイション・オブ・イスラムへの加入を経て、再び世界チャンピオンに輝くときだ。

この映画には、映画の前半と後半でキャッチフレーズがある。前半では「蝶のように舞い、蜂のように刺す」がキャッチフレーズで、後半では「アリ、ボンバイエ(やっちまえ)」がキャッチフレーズになっている。

前半と後半でアリの敵役は、別れている。前半の敵役は、ヘヴィ級のタイトルをその当時持っていたチャールズ・ソニー・リストンで、後半の敵役は、その当時ヘヴィ級のタイトルを持っていたフォアマンだ。

リストンと闘うときには、キャッチフレーズは「蝶のように舞い、蜂のように刺す」で、フォアマンと闘うときのキャッチフレーズは、「ボンバイエ(やっちまえ)」だ。

また前半と後半では、アリの名前が違う。というのも、モハメド・アリというのはカシアス・クレイという名前から改名した名前だからだ。カシアス・クレイ→カシアスX→モハメド・アリというのがアリの名前の変遷だ。

黒人の名前は、奴隷主であった白人の名前から来ている場合もある。白人のアリのカシアス・クレイのスポンサーが、「クレイ(祖先)は昔は私の家族の奴隷だったに違いない」というシーンが映画にはあるが、その奴隷名からの脱却を示して知るのがモハメド・アリという名前だ。

この映画には、マルコムXが登場する。マルコムは言う。「黒人が自信を持つことを、白人は恐れている。だから自信のある黒人は、白人にとっては脅威だ」と。

この映画の前半で、カシアス・クレイは「俺は最高だ!!」「俺は美しい!!」と叫ぶ。黒人が、黒人自身のことを肯定する。その姿は最高に肯定感に満ち溢れていて、心地よいものだ。映画の前半で、何度もカシアス・クレイは叫ぶ。

カシアス・クレイは、黒人のアメリカにおける人種差別に関しても堂々と発言する。その当時といったら、黒人の活動家のマーティン・ルーサー・キング牧師やマルコムXが暗殺されていた時代だ。その時代に、黒人の人種差別について堂々と発言するというのは凄いことだし、また、しかしそれは時代の必然でもあった。

「黒人の子供が学校に行くだけでも、白人は大騒ぎして、次の日には市長まで出てくる」とカシアス・クレイは言う。当時のアメリカの緊張感が、ここから伝わってっ来る。

ちなみに、カシアス・クレイが泊っているのはモーテルだ。なぜモーテルか? それは黒人の客を歓迎しないのが、当時のホテルだったからだ。人種隔離政策は、1964年の公民権法によって法的には人種隔離は禁止された。だがしかし、カシアス・クレイはモーテルに泊まっている。

後半のアフリカのザイールのキンシャサの様子を見ると、アメリカの様子とは全く違う。アメリカのような巨大なビルが建つ都市ではないが、人々はアメリカの黒人と比べて明らかに違う。ちなみにザイールは、現在はコンゴ民主共和国なっている。

ザイールの人々は、人目を過剰に気にしない。そこには白人の姿はなく、黒人の活気に満ちた姿が映像として映し出される。そこにあるのは、アメリカにはない解放感だ。それは、アリに歓喜する人々の様子からも伝わってくる。

アメリカ人は、控えめにカシアスの勝敗ついて予想する。そこには、ザイールのような熱狂はない。アメリカの場合には、どこか控えめなのだ。まだ、カシアスが世界チャンピオンになっていない時の映像だからかもしれないが。

ベルギーから1960年に独立したコンゴ共和国は、1964年にコンゴ民主共和国となった。その後1971年に国名をザイール共和国に変更、その後1997年に国名をコンゴ共和国に戻している。当時ザイールと呼ばれた土地は、実はヨーロッパの植民地支配の下にあった。

ザイールの人たちの持つ解放感は、植民地から解放されて獲得した解放感だったのかもしれない。素晴らしい黒人のアイコンであるアリは、ザイールの人々にとっても黒人の独立の象徴だったのだろう。

アリはその発言やその実績で、世界的なスターになった。そのスターも後年、パーキンソン病にかかる。その病気の原因は、殺虫剤や化学毒物であったというアリの妻のロニーンの証言もある。

ここから連想されるのは、モンサントのような会社による環境レイシズムだ。アリの存在はいたるところで黒人の実存とつながっている。

家父長制を内面化する悲劇

映画「はるか、ノスタルジィ」を観た。

この映画は1992年の日本映画で、映画のジャンルはファンタジーだ。

この映画の主人公は、綾瀬慎介というペンネームを持つ小説家で中年くらいの年齢である男性と、その慎介の小説のファンである、はるかという女の子だ。綾瀬慎介の本名は、佐藤弘という。

慎介はリトル文庫という小さな出版社から小説を出している小説家で、その慎介の小説の挿絵を描いているのが、紀宮あきらという男だ。リトル文庫の編集長岡崎と慎介、そして紀宮は学生時代の同級生だ。

紀宮が、過労死で死んでしまったところからこの映画は始まる。紀宮は、岡崎と慎介に殺されたようなものだ。映画中ではそのように語られない。この時代は今のブラック企業と変わらず、体に鞭を打っても働かなければならいという価値観が一般的だったのだろう。

そして、その紀宮の死に後ろめたさを感じているのが慎介だ。慎介の小説は、北海道の小樽を舞台としたシリーズものだ。この小説の人気は紀宮の挿絵の人気が支えているようなものだと、岡崎も慎介も認めている。2人は、紀宮に負担をかけすぎていた。

そして慎介にはまだ、紀宮に対する後ろめたさがある。それは紀宮にとっては小樽は肯定されるべき故郷であるのに対して、慎介にとっては小樽は思い出したくない、忘れたい過去だということだ。

慎介=佐藤弘の父親は、アマチュアの小説家だった。父の名は、佐藤統策という。なぜ父が子供が生まれてからも、アマチュアの小説家であることを選んだのか?それは、統策がびっこだからだ。統策は、身体障碍者なのだ。

父親がお金を稼げないなら、誰がお金を稼ぐのか? そうそれは、母親の役目になる。統策の妻は、売春をしてお金を稼いでいた。そうつまり、弘の母親は売春婦だった。弘は母親のような女性を淫売として表現するが、それは弘の中に家父長制が内面化されているからだろう。

つまり、婚外子を持つ可能性のある子を産む可能性が高い女性は、遺産の相続人を増やし、家系の財産を分散させてしまう恐れがある。そこでその婚外子を身ごもる可能性の高い女性である売春婦は、家父長制価値観を内面化している者から、邪険にあつかわれる。それが、弘の母だ。

慎介の小樽を愛することのできない思いは、このような過去から来ている。しかしまた、慎介=弘の父親も、家父長制からの脱落者だ。なぜなら統策は身体障碍者であるために、家計にお金を入れることができないからだ。お金を稼げない男は、家父長制では役立たずだ。しかし、統策もまた弘と同じように家父長制を内面化している。

ここから、慎介を悩ますのは、家父長制的価値観であるのがわかる。過去を肯定できない慎介は、家父長の厳しい掟からはじかれたために、過去を肯定できなくなっている。この映画は、女性を肯定することのできない弘という男性の物語だ。

はるかは、慎介が小樽での学生時代に好きだった三好遥子という女性にそっくりだ。そして慎介は母親と同じように、三好遥子のことも肯定することができない。ある事情から、慎介=弘は三好遥子のことも淫売だと思っているからだ。

この映画の中で、慎介を救うのは、はるかなのだが、その設定がロリコン少女愛であることは隠すことができない。そして少女は女性であり、その女性は性欲を持つことも否定できない事実だ。

映画は、主にはるか演じる石田ひかりにスポットライトが当てられている。そして問題の家父長制は、石田ひかりのルックスの良さに隠れてしまう。この映画は、ただのロリコン映画であることになってしまいかねない。

しかし、この映画は少女の性愛を描いた映画でもあるし、家父長制の映画でもある。田舎には家父長制が色濃く残っているというのが、この映画の監督大林宣彦監督の「ハウス」という映画でも描かれていた。

映画「ハウス」では、少女たちが家父長制に飲み込まれていく姿が描かれていた。では「はるか、ノスタルジィ」で描かれる少女とはどういったものか? それは、家父長制を肯定するしかない中年のなぐさめでしかないのだろうか?

家父長制しか選択できない男の情けなさのようなものが描かれているのが、この「はるか、ノスタルジィ」という映画のように感じられる。まるで、この映画は家父長制を肯定しなければ生きていけない男性の物語であるかのようだ。

家父長制の存在感が強くて、家父長制ですべて覆われてしまっているのがこの映画だ。そこには家父長制の外部はなく、男は女のために稼ぐことを生業としている。紀宮も家父長制の従属者だった。家族のために稼ぎ、紀宮は死んでいった。

ならば慎介が紀宮を認められないのは、慎介が家父長制と折り合いをつけていなかったからだ。そしてそのために慎介は、苦しんでいる。家父長制を認められない男は、苦しまなければならないのか? それは、この映画を観ていて思うことの一つでもある。

家父長制を内面化して、尚且つ家父長制を肯定することができない男性の苦しみがこの映画だということができる。慎介は家父長制を内面化することを避けられない世代に生まれた、不幸な家父長制脱落者だったということができる。

そしてその慎介を救い出したのは母子家庭である、家父長制から脱落しかけている家庭の子供だった。はるかの存在は犠牲者的であるとともに、救済者でもある。そして、脱落者同士の支え合いがこの映画では描かれているのだ。

母の喜びと悲しみ

映画「さびしんぼう(原題:Miss Lonely)」を観た。

この映画は1985年の日本映画で、映画のジャンルはファンタジー映画だ。

この映画の主人公は、井上ヒロキという高校2年生、16歳の少年だ。ヒロキの母親の名前は、タツ子という。ヒロキの実家は、寺だ。ヒロキの父親は、その寺のお坊さんだ。ヒロキには、好きな人がいる。それはヒロキとは別の、女子高に通うタチバナユリコという女の子だ。

この映画には、ファンタジーの要素がある。それは、映画中に登場する“さびしんぼう”と呼ばれる女の子の存在だ。そしてそのさびしんぼうの正体は、ヒロキと同じ高校2年生、16歳であるヒロキの母親のタツ子だ。

16歳のヒロキの前に、母親である16歳のタツ子が登場する。ヒロキの前には、41歳のヒロキの母親であるタツ子と、16歳のヒロキを産む前の、高校2年生のタツ子が存在する。そうこれが、この映画のファンタジーの要素だ。

41歳のタツ子はヒロキの子育てに必死で、ヒロキに勉強しなさいとしつこく迫る。また、女性の芸術的な(?)ヌード写真を見ているヒロキに対して「こんな写真ばかり見ていてどうしようもない子ねこの子」は、といった感じに言葉を吐き捨てる。

16歳のタツ子は、ヒロキに対して優しい。ヒロキの母親の子育ての厳しさに対して、「昔はあんな人じゃなかったのにね」と言ったりして、ヒロキのことを何かしら気にかけている様子だ。

映画の終盤で、こんなセリフがある。「母親は昔好きだった人のように、生まれてくる自分の子供を愛する」というような。それは、いつも何を考えているかわからない、ヒロキの父親の口からも確認することができる。

ヒロキは、ショパンの「別れの歌」をタツ子がなぜヒロキに練習させるのかと、父親に問う。すると父親は「それは昔母さんの好きだった人がその曲を弾いていたからだろう。お父さんはお母さんの、喜びも悲しみも含めてお母さんを好きなんだ」と言う。

ここでわかるのは、タツ子は好きな人と結婚せずに、お見合いをして結婚したという事実だ。映画のセリフの中にも、お見合いで結婚したことを示すセリフを父親が言う。そして、好きな人と結婚することと、お見合いをしてやむなく家父長制度のもとに継続的に組み込まれることの対比が、この映画の中でみることができる。

タツ子が結婚した1960年代当時、女性が自分から正社員として働いて、自立した生活をして、結婚をするかしないかを自分の意思で決めることは、ものすごくまれであった。女性は生まれて物心がつくと、家事の手伝いをさせられ、家長の機嫌をとり、自分はお嫁に行くものと教え込まれた。つまり当時の女性に、家父長の外はなかった。必然的に家父長制に取り込まれた。

この事実をふまえると、タツ子の抑圧された人生というものが見えてくる。自分で自分の仕事を選択することが、できない。自分の好きな男性と、結婚することができない。結婚は、両親の決定したお見合いでしなければならない。タツ子の人生に、選択の自由は少ない。

中東のイスラム圏の女性のように、生理が来たら嫁に行かされる。夫以外の人に、自分の肌を見せてはならない。妻の生殺与奪権は、夫が持っている。というようなことはないにしろ、1960年代当時の日本には家父長制の規律が色濃く残っていた。女性は、再生産に関わる仕事を生涯するものだという規範だ。

女性の再生産とは子供を産んで、子育てをして、年老いた親の介護をするということだ。女性の再生産という言葉を筆者が知ったのは、上野千鶴子の「家父長制と資本制」という本を読んだ時だ。

その本によると、女性は教育や家庭などによって、自らが再生産のために生まれてきたと思い込まされる。そして、女性は自らの心の悲鳴とは別の所で、再生産をする人間として日常の中に組み込まれる。

家父長制の中で、唯一女性が自由にできるもの。それは、自分の子供の再生産だ。それは、子供の子育てのことだ。タツ子も、自分の子供の再生産=子育てに自分の生きがいを見つけようと努力している。

さびしんぼうは、ヒロキに母親の子への愛情や、母親の子供の頃を思い起こさせる存在だ。そして、さびしんぼうと41歳のタツ子の現在とのギャップが、41歳のタツ子を発狂させ、16歳のタツ子であるさびしんぼうを悲しい気持ちにさせる。

この「さびしんぼう」という映画が描いているのは、家父長制の喜びと悲しみだ。それをひっくるめて、母親のことが好きだと言っている父親は、寛容に一見見えるが、実は寛容でもなんでもない家父長制の押し付けを無言で行う奴隷主だ。父親は、家父長制というシステムに抗うことはしない。

恋愛と結婚の両立という言葉が、この映画「さびしんぼう」を観ていると思い起こされる。しかし、この連想自体が馬鹿馬鹿しいものだとも思える。恋愛は恋愛で、結婚は結婚になってしまう現実。それこそが、真に重要なものだ。結婚のために、何かをしなければならない、そのパターンこそが問題だ。子供を持つために結婚? それはナンセンスだ。

恋愛と結婚の両立を馬鹿馬鹿しく感じるためには、女性の正規雇用という選択肢が全域に広がることが重要だ。そして女性が、建築物や社会構造などの構造的な女性排除の問題から解放され、女性に対する暴力からも解放されることも必要になってくる。

大林宣彦監督の映画を観ていると、女性の日本社会での立場といったものがありありと描かれている。大林監督は家父長制に飲み込まれてしまっている、男性、女性すべての人に対して家父長制を描くことにより、家父長制への違和感を抱かせる監督だと言っていい。

家父長制から解放された社会。女性のワーキングプアの危機的状況に聞き耳を立てているだけでも、それは今の日本(2022.1.15)でも可能になっているとは思えない。