恐怖を飼いならす

映画「NOPE ノープ(原題:Nope)」を観た。

この映画は2022年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSFコメディだ。

この映画の主人公の1人は、ヘイウッド・ハリウッド牧場というハリウッドの近くにある、馬を調教する牧場の跡継ぎであるOJ(オースティン・ジュニア)だ。OJは黒人だ、OJには妹がいて名前をエメラルドという。2人の苗字は、ヘイウッドという。つまり牧場の名前と同じだ。

ある時、ヘイウッド・ハリウッド牧場で悲劇が起こる。それは、2人の兄弟の父親の死だ。ヘイウッド・ハリウッド牧場で、馬の調教をしている最中に、OJの父親が、空から降ってきたコインや鍵などの落下物が体に刺さったことで、父親はその後亡くなる。その父親の死によって、OJは寡黙な人物になってしまう。

さて、なぜOJの父親が死んだのか? それがこの映画のポイントで、この映画の見どころでもある。簡単に言ってしまうと、OJの父親は、UFOのような形状をすることもある地球外生命体の吐き出した、その地球外生命体に食べられた人間の持ち物が体に刺さって死んだ。

この空を飛ぶ地球外生命体の名前は、OJたちによりG・ジャンと名付けられる。そして、OJはこの地球外生命体のG・ジャンを、自分の飼育している馬と同じように調教しようとする。そして、その過程が、OJの大人としての独り立ちの過程を描くことになる。

この映画で成長するのは、OJだけではない。OJの妹のエメラルド、通称エムもこの映画の中で、フラフラチャラチャラした状態から、一人の闘う大人へと成長する。その大人への過程は、冷静な判断、自己犠牲、勇気、決断などの獲得の過程として描かれる。

その成長の過程は、OJでも同じようなものだ。OJたちは、G・ジャンという地球外生命体との対立によって、成長をする。G・ジャンは一体何かといえば、それは恐怖そのものだと言うことができる。つまり、恐怖に立ち向かい、恐怖を克服するのが、この映画の大きなテーマだ。

OJとエムの他に、この映画で、G・ジャンという地球外生命体という形をとった恐怖と立ち向かう人物がいる。それは、家電の販売員で4年間の恋愛が破局した直後のエンジェル・トーマスというヘテロの若い男性。

そして、映像作品を撮ることを生業としているアントレス・ホルストという中年男性。そして、ヘイウッド・ハリウッド牧場の近くで、ジュピター・パークという遊園地を経営しているリッキー・“ジュープ”・パリだ。

このうちのリッキーには、悲劇的な過去がある。リッキーは、子役で、ゴーディという猿と、公開収録のドラマの家族番組に出演していた。それは、1990年代後半頃の話だ。このゴーディという猿を演じるのは、映画「ザ・スクエア 思いやりの聖域」の中で、人間による猿の演技という芸術作品というものを演じていた、テリー・ナタリーという俳優だ。

テリー・ナタリーは、猿やゴリラなどを演じるのを得意とする俳優だ。テリー・ナタリーの出演した映画には、「アバター」「ホビット三部作」「インクレジブル・ハルク」「キング・コング:髑髏島の巨神」「猿の惑星シリーズ(2010年代のもの)」がある。

そのテリーが、この映画「ノープ」でも、チンパンジーの役を演じている。この家族番組に出演していた、ゴーディというチンパンジーが、ストレスにより家族役の俳優を殺すという事件が1998年に映画「ノープ」では起きたことになっている。

その事件現場を目撃していたのが、リッキーだ。そして、その殺人は恐ろしいものであると同時に、なぜか救いのようなものとして描かれている。つまり、チンパンジーのゴーディは、リッキーが感じている両親(俳優だが)のプレッシャーから、リッキーを救ったようにこの映画「ノープ」では描かれている。

それは、リッキーに対して、ゴーディが、拳と拳を合わせるポーズをとろうと促し、それにリッキーが応じるということからわかる。リッキーは、自分にプレッシャーを与える俳優たちを、ゴーディというチンパンジーを調教することによって殺させたということができる。そして、ゴーディは、リッキーの目の前で射殺される。

それは、リッキーが映画中で、遊園地で行っていることと同じだ。リッキーはG・ジャンを調教して、観客を食わせる。リッキーにとっては、社会の人間はどうやら、子供時代の子役の時と変わらず、自分をさいなめるものだ。なぜなら、自分の愛するゴーディを殺したのが、人間(社会)だからだ。

リッキーは、G・ジャンを調教して、人間たちに復讐をしているのかもしれない。ただ、G・ジャンは、ゴーディとは違って、リッキーの調教の腕では制御しきれるものではなかったが。

この映画で、G・ジャンを調教するのに成功するのは、OJとエルだ。G・ジャンという、恐怖の象徴に対して、2人は向き合う。それは、自分の中にある恐怖と対峙することだ。そして、G・ジャンは、2人にも容赦なく向かってくる。

この映画で、G・ジャンを調教する際に、OJが用いるテクニックがある。それは、馬の調教の際に学んだことだ。馬は、外部の反応に敏感で、自分の目が映ったものを見ても、激しく反応して、周囲のものに危害を与える。

そのことをOJはG・ジャンの調教に使おう。G・ジャンが腹をすかして人間を食べようと襲ってきたときも、OJはG・ジャンを見ずに、G・ジャンに捕食されるのを免れる。OJはそれにより、G・ジャンを調教する機会を手に入れる。

ヘイウッド・ハリウッド牧場は、経営の危機にある。その難局を越えようとして思いつくエルのアイディアは、G・ジャンの写真を撮って、写真を欲しがる人に高値で売りつけることだ。そうすれば、兄のOJが馬を、リッキーに売って生活をするということもなくなる。

調教師であるOJにとって馬たちは、宝だ。自分の愛する対象であるし、自分の生活を成り立たせてくれるものでもある。その馬を調教する牧場を維持するために、G・ジャンを調教することにより、大金を手に入れる。

つまりOJとエルにとって、G・ジャンは馬と同じで、調教してお金を稼ぐものだ。自分たちの成長と、仕事。それを、成し遂げるためには、G・ジャンの調教が必要になってくる。そして、それを成し遂げる過程が、この映画「ノープ」だ。

人は、誰しも、自分の生活のために、賃金を稼ぐ必要がある。そのためには、仕事の技術を身につける必要がある。それは、時として命懸けで行うものであったりする。そして、その試練には、決意、知恵、判断、挑戦などが必要になってくる。

自分にとって未知の領域に踏み込むのが、仕事というものであったりもする。OJとエルたちが、G・ジャンに挑んだように、すべての人は、自分の恐怖に立ち向かって、冒険や挑戦をする時が来る。

狂った世界に、時折、さす光

映画「オフィサー・アンド・スパイ(原題:J’accuse)」を観た。

この映画は2019年のフランス・イタリア合作映画で、映画のジャンルは歴史サスペンスだ。

この映画の舞台は、19世紀後半から20世紀前半にかけてのフランスだ。原題のJ’accuseとは、フランス語で“私は告発する”という意味だ。この原題の意味は、映画を観ているとわかる。主人公が手にした新聞の見出しが、この原題と同じになっているシーンがあるからだ。

この映画の主人公は、マリ-ジョルジュ・ピカールという軍人だ。このピカールが、フランスの諜報機関に入ることにより、フランス軍ユダヤ人、アルフレッド・ドレフェスが、間違った逮捕をされたことが明らかになり、ピカールは事件に巻き込まれていく。

なぜ、ドレフェスが間違った逮捕をされたかというと、簡単に言ってしまえば、それはドレフェスがユダヤ人だからだ。当時のフランスではユダヤ人差別が色濃く、民衆だけでなく国の上部もユダヤ人差別をしていた。

この、ドレフェスの間違った逮捕の理由は、ドレフェスが、軍の機密情報を外部に漏らしたからというものだ。ドレフェスが機密情報を書いた手紙を、軍の外部の人間に送っていたというのが、ドレフェスの罪状だ。

しかし、この手紙というものは、諜報機関の長であるピカールが読んでみると、筆跡はドレフェスのものではなく、しかも手紙の内容というのは機密情報というものの程ではないただの手紙に過ぎないことが明らかになる。

つまり、ドレフェスに対する罪状は、ドレフェスがユダヤ人であるために勝手に、ドレフェスの前任者の諜報機関の長が捏造したものであることが、ピカールによって明らかになる。ドレフェスはユダヤ人差別のために罪を勝手に作り上げられ、捕らえられた。

そのドレフェスの差別的な逮捕の不当さを“告発して”、ドレフェスの無実を証明して、堕落した軍を正すのが、ピカールだ。

ピカールの見方は多くはない。諜報機関の部下たちは、全員ピカールの敵だ。ピカール諜報機関の長として就任した時から、諜報機関の部下たちの態度は、ピカールに対して非服従的だ。それは、きっと諜報機関の軍人たちは、すべての軍人の内情を知っているからだろう。

諜報機関は、同じ軍人が、軍の情報を漏らしていないか調べている、そしてその過程で、同性愛のセックスの現場を盗み聞きして、「ハンサムな軍人とあの上司は恋人同士だ」とか言っている。つまり、諜報機関の仕事は、非常に疑り深い仕事で、その過程で個人のプライバシーは関係がなくなる。

そもそも、なぜただの手紙が、密書とされたのか? それは諜報機関のこういった特徴と深く関係している。つまり、諜報機関の人間は仕事に客観性がないのだ。疑いだすと、その疑いはどこまでも疑うことができて、何もないところから偽の事実が発生することなる。

機密情報を、上司が恋人の部下に話すのではないかと、その2人のセックスを盗み聞きする。ただの手紙を、密書であると判断する。諜報機関は、疑いの目をすべてのものに向けるために、真実の判断が難しくなる。

そのような諜報機関の在り方を、明確に表しているのが、ピカールの前任者の諜報機関の長が、梅毒にかかって脳を犯されていたという映画の中の描写からだ。つまり、諜報機関は、梅毒のような病にかかっている。

病にかかっておかしくなっているのは、諜報機関だけではない。フランス国民も、軍部も、政府もおかしくなっている。そう言っているのかのようなのがこの映画だ。ドレフェスを差別して濡れ衣を着せて逮捕する、軍部のおかしさ。

ドレフェスがユダヤ人だからと、ドレフェスの見方をした新聞を焼き捨てるフランス国民。ドレフェスの見方をするピカールを襲う人。ドレフェスの弁護をする弁護士を銃撃する人。アフリカの地を植民地化するフランス。ピカールの不倫相手を、機密を知っていたと責める軍と、その不倫相手の夫の妻への仕打ち。どれもが、何かおかしい。

そのおかしさを、無言に、時として盛大に告発するのが、この映画「オフィサー・アンド・スパイ」だ。

フランスによるアフリカの植民地支配について、明らかになるシーンがこの映画にはある。それは、ピカールがドレフェスの無実を訴えて、軍からにらまれ左遷された先の赴任地を語ったセリフを聴けばわかる。

ピカールは、ソム県→ニース→マルセイユ→アルジェ→チュニジア→アフリカ分遣隊の順に左遷されて、移動している。「服を着替える暇もなかった」とピカールは弁護士のルブロワに言う。

映画「アルジェの戦い」は、フランスの植民地であった、アルジェリアの過激な抵抗者を描いた映画だった。この映画「アルジェの戦い」を観てわかるように、フランスはアルジェリアの人たちを抑圧、弾圧していた。

それが、フランスのアフリカの国々に対する態度だったと考えられる。ヨーロッパの植民地主義は、現在の世界でも行われている。アフリカは工業化のための資源が豊富な土地だ。また、食品の材料もとれる。

工業化の成果の最も悲惨な産物である原爆は、日本の広島に落とされた。その原爆に使われているウラニウムはアフリカのコンゴから採られたものだ。そして、コカ・コーラの材料になるコカの木も、アフリカ大陸から採られたものだ。

植民地支配というのは、ヨーロッパがヨーロッパ以外の土地に、武力と企業で侵略をして、現地の資源や土地を奪うものだ。そこでは、フェアトレードは行われない。そこで行われる取り引きは、差別的で不平等なものだ。つまり、ヨーロッパは、外地を搾取する。

そうした植民地の現地民は非常に安い賃金で雇われて、土地はヨーロッパの上流階級とつながった現地の有力者に奪われる。もちろん、資源はタダ同然の値段だし、労働の条件も悪い。児童労働も行われる。

そのように支配された植民地では、民主化の運動が徐々に起こる。現地の人たちは自分たちが置かれた状況に気付いている。だからそこからの脱却をはかるために、映画「アルジェの戦い」で描かれたような抵抗運動が起こる。

たとえ植民地が独立したとしても、宗主国のヨーロッパの国々は、企業やIMF世界銀行を使って、植民地支配の形態を続けようとする。それは、現地の民主的な政権を、ヨーロッパに飼いならされた軍事的な政権にすることによって行われる。

軍部が政権を握ると、国民は尋問や拷問にかけられて、弾圧される。つまり、言論の自由も、集会の自由も、思想の自由もなくなる。つまり、人々は抑圧される。このような状況にあるのが植民地の状態だ。

つまり、この映画で正義に見えるピカールも、軍人で植民地を支配しているフランスの一部だ。そして、ドレフェスもその軍人で、立身出世を願っている。

おかしいのはピカールに敵対する諜報機関を含む軍と、一部の差別的なフランス国民だと映画を観ていると思えてくるが、実は、この映画の描き出している世界のすべてが狂っているのかもしれない。

多国籍企業の歪み

映画「ハムレット・ゴーズ・ビジネス(原題:Hamlet liikemaailmassa)」を観た。

この映画は2002年のフィンランド映画で、映画のジャンルはシェイクスピア現代リメイクものだ。

この映画のフィンランド語の原題:Hamlet liikemaailmassaをDeepl翻訳で直訳すると、「ビジネス界のハムレット」となる。「ハムレット」とはシェイクスピアの有名な悲劇の戯曲で、“デンマークの王子ハムレットが、父王を毒殺して王位に就き母を妃とした叔父に復讐する物語”だ(ハムレット Wikipedia 2024.5.4閲覧)。

ハムレット」は、もともとは北欧の伝説が元になっている(ハムレット Wikipedia 2024.5.4閲覧)。北欧のフィンランドの映画監督のアキ・カウリスマキが、この映画「ハムレット・ゴーズ・ビジネス」/「ビジネス界のハムレット」の監督であることは、単なる偶然ではないのかもしれない。

この映画「ハムレット・ゴーズ・ビジネス」の映画の舞台は、ビジネスを営むおそらくフィンランドの上流階級/支配者階級だ。ハムレットの父親を毒殺しハムレットの父の事業を乗っ取った、叔父クラウスは、自分の経営する事業をノルウェーオスロの実業家のワレンベルグに売ろうとしている。

クラウスは、製材業・北部の炭鉱・造船業を経営している。その3つの事業、製材業・北部の炭鉱・造船業をワレンベルグは欲しがっている。クラウスが、そのうちの、自ら経営する造船業を潰して、ワレンベルグカリブ海の観光船業を独占し、残りの製材所、北部の炭鉱をワレンベルグに売る。

ワレンベルグノルウェーの実業家だ。フィンランドの国民がどうなろうと知ったことではない。クラウスはこう言う。「(ワレンベルグは)製材所に保険をかけて、保険料を増額させて、そのうち製材所を潰すだろう。製材所が潰れれば、保険が効く。それで、ワレンベルグは儲かる。私たちは、その見返りを貰おう」と。

つまり、クラウスは企業を発展させることではなくて、企業自体の売買で儲けを出している、つまり現代的な実業家だ。クラウスは、おそらく大実業家で、多国籍な企業の経営者であるかもしれない。

クラウスに毒殺された、ハムレットの父も、暴君的な経営で企業を発展させてきた。多分、クラウスとあまり変わらない実業家だったのだろう。ハムレットは、そんな汚い一族の跡継ぎだ。クラウスは、ハムレットのことを邪魔者だと思っている。

クラウスは、多国籍企業の経営をしていると書いた。多国籍企業とは一体どんな企業であるのか? この映画「ハムレット・ゴーズ・ビジネス」の中では、ほとんど多国籍企業らしき会社の実態について触れられずに、その関係者の家族の内輪の卑劣さが描かれる。

多国籍企業とは、世界の各国に事業所を持つ会社だ。例えば、アメリカや北欧や中国の採鉱業を営む会社も多国籍企業だ。採鉱業を営む多国籍企業は、世界銀行や世界通貨基金(IMF)に頼まれて、例えば資源の豊富なラテン・アメリカに、採鉱場を作ろうとする。採鉱場の誘致に、多国籍企業は現地の人たちに、贈り物をして、見せかけだけの説明会を開く。そこでは、多国籍企業が誘致している採鉱業の負の側面である、採鉱業による環境の汚染による健康被害については触れられない。多国籍企業は採鉱業の誘致に成功する。多国籍企業は、現地に軍隊を作る。軍隊は、採鉱場や、その周辺で健康被害が出て抗議運動が起こった時の、抗議運動の排除に利用する。軍隊や警察によって、現地民の抗議運動者はレイプされたり殺されたりする。現地民が、その軍隊や採鉱場で働くこともある。また、採鉱場のエンジニアは、違う地域の人たちがやっていたりする。採鉱場があることで、現地民は深刻な健康被害を受けて、牧畜や農業を営んでいる現地民は、生活の糧を奪われる。採鉱業に関わる人は利益を得るが、採鉱業に関わらない現地民は貧困のままで、健康被害にも犯される。多国籍企業に現地の国からの税金はかからず、多国籍企業は税金逃れのためにタックス・ヘイブンを利用する。現地の国には利益があまり落ちず、現地の国民が技術を身につけるわけではない。多国籍企業は、この場合ラテン・アメリカの現地民を迫害して、莫大な利益を上げる。このような多国籍企業は例えば、銅採鉱をペルーで行っている。そして、その銅は、再生可能エネルギーを利用する電気自動車や、ソーラーパネル風力発電に利用される。つまり、私たちの社会は多国籍企業の現地民迫害に加担していることになる。それが、多国籍企業であり、私たちの暮らす社会の正体だ。

この映画「ハムレット・ゴーズ・ビジネス」で、描かれるのは、このような多国籍企業の内輪もめだ。その内輪もめが、見苦しければ見苦しいほど、この映画「ハムレット・ゴーズ・ビジネス」は成功した映画ということができる。

例えば、この映画「ハムレット・ゴーズ・ビジネス」に描かれるクラウスの経営する多国籍企業は、手りゅう弾を商品として扱っていたこともある。つまりは、死の商人軍産複合体だ。

イスラエルのガザ侵攻にも、アメリカが融資している。アメリカのイスラエルへの融資は、武器弾薬を買うお金になる。そのお金は、軍産複合体・武器商人・死の商人のもとへ流れる。つまり、アメリカは、イスラエルにお金を渡し、そのお金でイスラエルは武器を買い、そのお金は、おそらく多国籍企業軍産複合体の利益となる。イスラエルはその武器弾薬で、ガザの市民を殺している。ガザの犠牲者は、3万人をとうに超えている(2024.5.4現在)。

映画中ハムレットは言う。「昔はちゃらちゃらして楽しかったが、今は何をしていても虚しい」と。それは、父親や叔父が、多国籍企業を営んでいることと関係がある。ハムレットは、多国籍業の非道さを知っているのだろう。

ただ、多国籍企業の非道さを知りながら、ハムレットは家を捨てることをしない。ハムレットがするのは、多国籍企業の横暴を妨害することだ。個人的な、社会的な憎しみを込めて。ただ、ハムレットは上流階級の男だ。

この映画「ハムレット・ゴーズ・ビジネス」で、多国籍企業の役員たちが新商品について会議をしているシーンがある。アキ・カウリスマキ監督の映画はいつもドライなユーモアが溢れているが、このシーンもユーモアが溢れている。

死の商人として武器弾薬を売っていた怖―い多国籍企業が、今度はアヒルのおもちゃを売り出そうとしているのが、このシーンだ。利益のためなら、多国籍企業はなんでもする。しかし、多国籍企業に、プライドがあっても困る。なぜなら多国籍企業は利益のためなら何でもするところが、解決策になるかもしれないと、この映画「ハムレット・ゴーズ・ビジネス」は示している。つまり、消費者の価値観とそれに基づく行動は重要だ。

ハムレット・ゴーズ・ビジネス 33m43s アヒルの新商品について会議する多国籍企業の重役たち1 ユーロスペース

ハムレット・ゴーズ・ビジネス 33m47s アヒルの新商品について会議する多国籍企業の重役たち2 ユーロスペース

ハムレット・ゴーズ・ビジネス 33m59s アヒルの新商品について会議する多国籍企業の重役たち3 ユーロスペース

 

未解の文明に魅せられて

映画「ロスト・シティZ 失われた黄金都市(原題:The Lost City of Z)」を観た。

この映画は2016年のアメリカ映画で、映画のジャンルはアドベンチャーだ。

この映画の舞台は、アイルランドイングランドボリビアとブラジルの国境辺り、そして、フランスだ。この映画の登場人物は、パーシー・フォーセットという軍人と、その妻ニーナ。パーシーの子供のジャックとブライアンとジョアン。そしてパーシーの部下のヘンリー・コスティン。そしてたかり屋の貴族ジェームス・マリーなどだ。

パーシー・フォーセットは、イングランドの軍人だ。軍務で功績を立てて、昇進を狙っている男だ。パーシーは父親の過去の行いが悪く、なかなか思うように出世できない。そのパーシーのもとにやってきた任務が、王立地理学協会からの地図を作製する仕事だ。

ボリビアとブラジルの境の辺りの地図はまだできておらず、そのあたりの地図を作成するために、パーシーは派遣される。時代は、1906年ごろだ。パーシーはイングランドの国のために地図製作のための探検に出発する。

パーシーはボリビア東部の未開地に到着する。するとそこには既に、ゴム農園を経営する資本家が存在する。その資本家の名前は、ゴリンドス男爵という。ゴリンドス男爵は、現地民を奴隷として使って、ゴムの木からゴムを休むことなく採取している。

ゴムは当時の宗主国帝国主義の国、先進国では、貴重な資源だった。そのゴムの生産の末端は、ゴリンドス男爵という無法者の資本家による奴隷労働によって成り立っているものだったことが、この映画を観ているとわかる。

この先進国による、現地民の奴隷労働者を使った資源の採取は、現代の世界でも行われていることだ。この映画ではボリビアがゴム農園のある場所だが、そのような先進国の資本家による現地民の搾取の場所は、アフリカ大陸や、南米や、中東などに現在でも存在する。

イングランドが、ボリビアとブラジルの国境の辺りの地図を製作するということは、その地域を支配する礎に地図を使うということだ。つまり、地図作製は、イングランドという帝国主義の国の支配の方法の一部になっている。だから、地図製作に軍事あるパーシーが任命された。地図製作の前線では、未開の地の住人に攻撃されることもあるからだ。

パーシーはイングランドの軍人だ。まさにパーシーはイングランド帝国主義に便乗して、自らの地位を昇進させようとする男だ。それは家族のためでもある。家族を養うには身分と収入が必要と、パーシーは考えている。要するにパーシーは、自らの立身出世のことばかりを考えている軍人で、その野望のためなら軍国主義にも加担する男だ。

パーシーが探検家として活躍した時代は、第1次世界大戦がはじまった時とも重なる。パーシーは、軍人としてフランスで第1次世界大戦に参加する。ただ、その表情は暗い。なぜなら、パーシーは戦争以外の目的を見つけた軍人だからだ。

そのパーシーの戦争以外の目的とは、南米のボリビアとブラジルの国境辺りの探検だ。パーシーは第1次大戦前に、ボリビアとブラジルの間の地図を作るために、川の源流に行きつく。そこで、パーシーは、アマゾンの奥地に土器を見つける。

パーシーは、それは考古学的に価値のあるものだと確信する。そしてそれ以来、パーシーは軍務ではなくて、探検に、自分の夢を託すようになる。それは家名の復興や、恵まれた身分、家族のためだ。だがそれと同時に、パーシーはアマゾンの奥地に文明の痕跡を認めたことにより、西洋社会ではない、先住民の文明に魅せられるようになる。

そして、その未開地の文明を探す探求への欲求は、先住民には文明があるという発想に繋がり、パーシーの中の先住民観が変わっていく。パーシーは、未開の地に住む先住民に敬意をはらうようになっていく。

先住民に敬意をはらっている珍しいイングランド人であるパーシーだが、女性の妻の社会進出には抵抗がある様子だ。パーシーが、アマゾンの奥地で文明の痕跡を見つけた時に、その裏付けとなる1753年のポルトガルの兵士による手紙を発見したのは、妻のニーナだった。

それを根拠として、女性にも社会進出の実力があり、夫パーシーの探検についていこうとする妻ニーナのことを、夫パーシーは認めようとしない。ニーナは言う。「夫婦平等は嘘なの!?」と。

先住民のことは一人前の人間として認めるが、女性のことは一人前の人間として認めない。それがパーシーの在り方だ。しかし、やがてその態度も映画が進むにつれて軟化していくが。パーシーも、時代の流れの中にいる一人の男に過ぎない。

妻ニーナが、安全に社会進出を図れるのは、夫の保護があるからか? それともニーナは夫と離れたくなかったのか? ニーナの、パーシーへの執着は、家父長制が女性に強いたものだと考えることができる。

夫がいなければ、女性には何の力もない。女性に与えられる仕事は、家事労働と売春などだった時代に、女性が社会進出を図れば、それは夫と共に働くぐらいのものだったと、この映画は語っている。

パーシーは息子ジャックと、映画の最後アマゾンの奥地に旅に出る。そこで、2人は先住民の土地で生きたにせよ、死んだにせよ、アマゾンの土地と一体化することになる。つまり、パーシーとジャックは、先進国とは別の、違った形を持った社会に入ったことになる。

それはつまり、パーシーとジャックの奴隷労働を支持するような先進国への別離の態度であり、先進国の住民ではなくなり、はたまた、アマゾンの住民でももともとない人間としての、パーシーとジャックの在り方の存在形態だ。

ニーナは、パーシーとジャックが失踪して、心が苦しいというが、その苦しみは2人に会えない苦しみであると同時に、社会進出から取り残されて、しかも奴隷制を支持するようなイングランドのような国の支配から解放されない女性の苦しみを現わしているかのようだ。

この映画の悲劇は、ニーナの人生かもしれない。自ら社会進出を望み、その社会進出の数少ないチャンスも逃し。愛する人が、自分から離れて行った辛さ。もし、自らの道がニーナに切り開かれていれば、2人の失踪も、ニーナは乗り越えられたかもしれない。

先住民への尊敬。女性への尊敬。帝国主義国家の横暴。資本家の傲慢。子と父の関係。様々なものがこの映画では描かれているように見えて、実はその要素は一本の線で繋がっている。その一本の線を見つけるのに役立つのが、社会の不正を見破る視点であることは、この映画が明確に物語っている。

男性による支配

映画「The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ(原題:The Beguiled)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の舞台は、アメリカのシビル・ウォー=南北戦争時代の、1864年バージニア州のマーサ・ファーンズワース女子学園だ。アメリカのシビル・ウォー=南北戦争とは、アメリカが北と南に分かれて戦った、アメリカの内戦のことだ。

アメリカの北の軍隊のことを北軍・Unionと呼び、南の軍隊のことを南軍・Confederacyと呼ぶ。UnionもConfederacyもともに連邦という意味がある。この戦争の争点は、奴隷制の廃止が維持かだ。

北軍奴隷制の廃止を目指す工業地帯の軍隊で、南軍は奴隷制を利用したプランテーション農園を経営する白人たちの支持する奴隷制を維持しようとする軍隊だ。南部には、KKK(クー・クラックス・クラン)と呼ばれる組織があった。

その様子は、映画「國民の創生」という黒人蔑視の差別的な映画でも描かれているし、映画「風と共に去りぬ」の中でも暗にその存在が示されている。KKKは、いわゆる白人が白い頭巾を被って正体を隠し、黒人を捕まえてリンチして、時には黒人の性器を切り取ったりして殺す、というようなことをしていた白人至上主義の団体だ。

映画「ブラック・クランズマン」では、そのKKKに潜入捜査をする黒人の警官と、白人の警官の、潜入捜査の様子をコメディタッチで撮っていた。KKKができたのは、1865年12月24日とされている。

この映画「ビガイルド」の時代は、シビル・ウォーが3年目に入った1864年だ。シビル・ウォーは、1865年5月26日に終わっているので、KKKはシビル・ウォーが終わった後に誕生していることになる。

ならばKKKは、シビル・ウォーが終わって、黒人人種差別がアメリカの憲法の修正第13条で禁止された頃に誕生したといえる。つまり、KKKのしていることは憲法違反であり、KKK憲法違反をするために作られた集団だ。

KKKは非合法だから覆面をして行動する。がしかし、南部ではKKKのような態度をとる白人が多かった。KKKの非合法さを黙認していたのが、アメリカ南部という土地だ。憲法で黒人の権利が保障された後も、黒人に対する差別は根強く残っていた。

この映画の舞台のバージニア州は、南部で北軍を敵とする州だ。この映画には、黒人が登場しない。この映画の舞台になる学園の屋敷には、黒人の奴隷労働者がいない。学園にいるのは7人の白人女性だ。だから、敷地は荒れ果てている。

ある時、学園に生徒として住んでいる一人の少女が、森で北軍の兵士を見つける。鬱蒼とした、黒人が鞭うたれて吊るされていたような木々が立つ森の中に、北軍の若い兵士が足を負傷して横たわっている。

この場合森とは、少女の精神の内部を表していると考えるとどうか? 森で見つけるのは、若い男。つまりは、この少女の性欲の目覚めを現わしているかのようなのが、この映画の冒頭のシーンだ。

その冒頭のシーンでは、その少女はキノコ狩りをしている。キノコは男性の性器の象徴と見ることができる。森でキノコ狩りをしていたら、そこで若く傷ついた男を発見する。これは、少女の性欲の目覚めを現わしているシーンだということができるだろう。

女性7人が住んでいる屋敷に、若くハンサムな傷ついた男性が入ってきたらどうなるか? ポイントは、南部では戦争で男手がなくなっていること。そして、もっと残酷な雰囲気を思わせるポイントは、男性は南軍ではなく、北軍の兵士であることだ。

アイルランド出身の白人移民で、200ドルぐらいの金額でシビル・ウォーの北軍の兵士となり、南部での戦いで傷ついた、ジョン・マクバーニー伍長が、その白人男性だ。南部の男性なら、7人の女性たちも簡単に気を許しただろう。

しかし、7人の女性の所にやってきたのは、傷ついた北軍の男性の美男子だ。北軍の兵士は、南部の軍隊に差し出して殺してしまうこともできる。つまり、この兵士の運命は、この7人の女性たちが握っている。

ということは、ジョンは7人の女性の奴隷同然の状態に置かれることになる。そして、南部には白人の男性がいない。つまり、女性たちは性欲のはけ口である、男性を求めている。だから、ジョンは7人の女性の都合の良いペットのような存在になる。

ジョンを見つけた少女は、亀を飼っている。これもキノコと同じ男性器の象徴のような動物だ。その亀に餌を与えながら、ジョンについて考えている。映画の終盤には、ジョンはこの亀を少女から奪って投げ飛ばす。

なぜなら、カメは7人の女性に飼われている自分の姿と同じだからだ。その亀のことを考えると、ジョンは自分の不遇な状況を思い起こし、そこに怒りを抑えずにはいられないのだろう。

この実社会では、女性の権利の拡充が望まれているが、それはなかなか達成には至っていない。日本でも女性差別は残っているし、特に中東やアフリカなどの地域では、女性が男性に支配されている形態が残っている。

アフリカでは飢餓に陥ると、男性に優先的に食料が配られる。それは、女性がダイエットのためと粗食をしているとある日本の、アメリカの、西欧の、北欧の国の女性よりももっと酷い状況だ。

ダイエットも華奢な女性は美しいという社会的通念が生み出した現象で、そこには女性が美しくて男性にもてる女性になりたいという願望がみえる。そしてそれは、女性が心から望んでいるものとは考えにくい。なぜなら、人間は食欲があるのだから。しかし、食欲が薄い女性もいるかもしれないが。

確かに肥満は、病気を伴いできれば避けたい状況だ。だが、過度なダイエットは、男性のもしくは女性の“美しい女性は細い”という規範を内面化した故の、過剰な反応であるとも考えることができる。パリのファッションショーの女性の細さは、男性うけする女性を好む女性の意思が生み出したものではないのか?

だから、先進国の女性は、体のラインまでも自分の思い通りにはできないとも言える。そしてそれは、情報が世界に溢れる社会では、発展途上国でも同じことになっているのかもしれない。体のラインの維持が、女性のコントロールの外部にある意志のようなものに従っている。

中東では、女性の生殺与奪権は、男性の支配の下にある。女性の子供を殺すのも、妻を殺すのも、家父長である父の夫の自由だ。最近(2022.12.27 Democracy Now!)でも、アフガニスタンタリバン政権が、大学出の女性の就職を禁止する、ということをした。

中東では、女性の権利が非常にないがしろにされている。女性は生理が始まると、自分の意思ではなくで、家父長である父親の意思で、自分よりはるかに年上の男の所に嫁がされる。これが、中東の日常だ。

この映画「ビガイルド」では、その男性と女性の立場がひっくり返る。そして、南部の男性社会の中で、南部の女性たちが、自分たちの思い通りになる、傷ついた美男子をどのように扱うのかが、この映画の見どころだ。

映画「日の名残り」のように、この映画「ビガイルド」では、女性の抑圧された性欲について触れられている。そして、その抑圧は、映画を観ている者にも押し迫ってくる。

ヒエラルヒー

映画「日の名残り(原題:The Remains of the Day)」を観た。

この映画は1993年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の舞台は、第2次世界大戦の前から、第2次世界大戦の後だ。つまり、この映画は第2次世界大戦を巡る映画であるとも言える。この映画の主人公は、ダーリントン卿というイングランドの貴族の屋敷に使えるスティーブンスという執事だ。

執事というのは、屋敷の主人の代わりに、屋敷のことについて管理する役割を負う。その身分は、いわば貴族の僕だ。言い換えれば、執事とは、多くの労働者と同じように、特権階級に仕える奴隷だとも言うことができる。

ダーリントン卿の屋敷に仕える執事スティーブンスは、ダーリントン卿に仕えることを誇りとしている。執事は、貴族の家来だ。貴族の屋敷とは、ヒエラルヒーの形をとっている「英国の秩序と伝統」の具体的な例であり、その象徴だ。

つまり、執事であるスティーブンスは、ダーリントン卿に仕えることで、イングランドヒエラルヒー構造をした社会に、自発的隷従をしているとも言える。ダーリントン卿の屋敷とは、王族と貴族が統治するイングランドの社会のミニチュア版だと言うことができる。

ダーリントン卿の屋敷の執事のスティーブンスは、屋敷の中の執事の中のトップだ。ヒエラルヒー構造でできているのが、この社会だ。奴隷の中にもランクというものが存在する。アメリカの黒人奴隷に、室内の仕事をする奴隷と、畑仕事の過酷な労働をする奴隷がいたように。

ダーリントン卿が、執事であるスティーブンスを従えて、そのスティーブンスの下に下位の執事たち、庭師、メイド、などが存在する。ダーリントン卿の屋敷は、前述したように、古き良き「英国の秩序と伝統」を表している。

古き良き「英国の秩序と伝統」というと響きがいいが、要するにイングランドは、王族と貴族が支配する土地だということだ。その土地のダーリントン卿の屋敷では、キツネ狩りが行われる。

キツネ狩りとは、貴族が馬に乗って、犬を従えて、キツネを追いかけまわして殺す、というゲームだ。このキツネは、イングランドの庶民や貧民だととらえることが可能だ。そして、キツネを追い回す犬も、貴族に飼われた人間を表しているとも考えられる。

つまり、王族と貴族のもとで、被支配者が、被支配者を、狩っているとも言える。それは、実際のイングランドの社会と似ているのだろう。王族と貴族のコントロールが、被支配者を覆っている。

ティーブンスは執事の長で、独身で、仕事に生きがいを見出している。仕事とは、隷属する者がすることで、王族や貴族は、仕事をしているというのだろうか? 統治するのが王族と貴族で、戦争のための準備も貴族の仕事かもしれない。

ただ、王族と貴族の行為を“仕事”であるとは、一般的には言わない。執事は仕事をするが、ダーリントン卿は、国のために行為している。仕事とは、隷属者がすることのことだと言っていいと思われる。

ティーブンスは、女性のことを差別している。イングランドの秩序と伝統に従って。ある日、ダーリントンの屋敷に、ミス・ケントンという女性がやって来る。ミス・ケントンの採用の試験の際に、スティーブンスはこう言う。「職場内結婚は良いですが、駆け落ちはだめです。職場は、ロマンスを求めていい場所ではありません」と。

つまりスティーブンスは、結婚以外の男女間のロマンスを認めていない。結婚はイングランドの「秩序と伝統」のために必要だが、ロマンスは「秩序と伝統」の範囲の外にあるというのが、スティーブンスの言い分だ。

そのスティーブンスの発言を聴いて、ミス・ケントンは辛そうな表情をする。いくら仕事ができても、自分の内部から湧き上がる他者を求める気持ちに、ミス・ケントンは正直だからだ。スティーブンスとは違って。

この映画は、ダーリントン卿の屋敷という形で、イングランドの社会のヒエラルヒーを描いている。そして、そのヒエラルヒーの中の一つの人間関係として、スティーブンスとミス・ケントンの関係性というものがある。

ティーブンスとミス・ケントンは互いに好き会っている。しかし、スティーブンスは、女性を自分の気を散らす邪魔者だと思っている節もある。それは、きっとスティーブンスの中にある、自分の劣等感が基になっている、女性嫌悪からだろう。

この映画には、スティーブンスの父であるウィリアムズが登場する。この父と母との結婚生活はあまりうまくいっていなかった。スティーブンスの母親が浮気をして、スティーブンスの父の愛情は、スティーブンスのみに向かうことになった。

そしてそのスティーブンスの父の、スティーブンスへの愛情とは、仕事を息子に教え込むことだったのだろう。スティーブンスは、仕事を教わることとしての愛情しか受けることがなかった。そして、父と母の結婚の現実を見て、スティーブンスは、結婚に幻滅し、女性に愛情を注ぐことに恐怖を覚えるようになったのかもしれない。

ダーリントン卿の屋敷では、国の、ヨーロッパの、世界の運命を決めるような会議が、第2次世界大戦前に行われていた。その会議の内容とは、ドイツを再軍備化するかとか、ナチス・ドイツと協調するかとかいったものだった。

その会議のたびに登場するのが、スティーブンスが名付け親であるカーディナルという、ダーリントン卿の兄弟の残し形見だ。そして、カーディナルから話しかけられる時には、いつもスティーブンスは、プライベートな悩みの渦中にいる。

それは、父親の死であったり、ミス・ケントンがベンという男と結婚するという告白だったりする。つまり、イングランドヒエラルヒーの危機の時にスティーブンスもまた危機に陥る。

イングランドヒエラルヒーの危機には2つある。それは一つは、公共的な危機であるナチスの存在であり、もう一つはプライベートな危機である、父の死と好きな人の喪失だ。プライベートな危機も当然、イングランドヒエラルヒーの中にある。

結婚もロマンスも、当然イングランドヒエラルヒーの中に折り込み済みだからだ。結婚はもちろん、男女間のロマンスもいずれは結婚という形をとることが予想されるために、結婚もロマンスもヒエラルヒーに入っている。

映画のラストには、このヒエラルヒーの危機についての回答が与えられる。それは、平和だったり、和解だったりする。ヒエラルヒーを肯定する者が、実は、ヒエラルヒーをプライベートでは否定しているということもあるのかもしれない。

地位を利用しても、得られるものなどなにもない

映画「オール・ザット・ジャズ(原題:All That Jazz)」を観た。

この映画は1979年のアメリカ映画で、映画のジャンルはミュージカル・コメディだ。

この映画の主人公は、ジョー・ギデオン、通称ジョーイという50代後半くらいの男性だ。ジョーは、ブロードウェイの舞台の演出家と振付師そして映画監督の仕事をしている。

この映画の主人公ジョーには実在の人物のモデルがいる。その実在の人物のモデルとは、ボブ・フォッシー(Bob Fosse,1927-1987)という、アメリカ人俳優で、バレエの振付師で、ダンサーで、映画と舞台の監督として成功していた男性だ。

ボブは1973年に映画「キャバレー」の監督として最優秀監督賞を獲り、また同じ年に、監督と振り付けをした舞台「ピピン」でトニー賞を獲り、またまた同じ年に、振り付けと監督をしたリザ・ミネリのテレビ・スペシャル「リザと一つのZ」でエミー賞を獲っている。

ボブは同じ年に、オスカーと、エミー賞と、トニー賞を獲った唯一の人物(2024.2.18時点)だ。この映画「オール・ザット・ジャズ」はそのボブ・フォッシーの自伝的映画で、主人公ジョーはボブを映画中に登場させた人物で、この映画は、そのジョーの死を迎えるまでの時間をミュージカル・コメディタッチで描いた映画だ。

ジョーは酒と、ドラッグと、女性とのセックスに溺れている。映画中のセリフで「チャンスがあればセックスしていた」と出てくる。そのジョーのセックス好きは、舞台の振り付けにも出てきていて、振り付けの題材がセックスで、舞台俳優たちに、露骨に腰を振ったり、女性ダンサーが客にお尻を向けて顔を股の間からのぞかせるセックスを連想させるような振り付けをしたり、はたまたお尻を客に向けて突き出して性器のある辺りを手で隠してその手をひらひらさせるような振り付けもある。また、ゲイやレズビアンのセックスを連想させるような振り付けも出てくる。

これらの振り付けを観ていた舞台の関係者は「セックスばかりじゃないか」と苦悩の表情をする。また、この舞台の事前の関係者でのゴーサインを得るための発表を観ていた関係者は、「このセックス描写は露骨過ぎる」と口にする。ジョーは若いころに、裸の女性が踊るショーの舞台に出演しており、そのジョー自身のルーツも、そのジョーの舞台に色濃く反映されているとも言える。

この映画「オール・ザット・ジャズ」では、酒とドラッグとセックスが頻繁に登場する。酒とドラッグとセックスは、人を常軌から逸脱させるものだ。酒とドラッグとセックスは、人を混沌とした世界に誘う。

そのどれもが、人を急激に減退させる。酒とドラッグとセックスの先には、死が待っている。そして、この映画「オール・ザット・ジャズ」は酒とドラッグとセックスをやり過ぎたジョーという男が消耗して死んでいく物語だ。

ジョーの人生は、酒とドラックとセックスに関しては混沌としている。だがジョーは、仕事に関しては超一流だ。ジョーは仕事という合理性や秩序や規則性にも卓越しているが、同時に酒やドラッグやセックスといった混沌としたものにも深く溺れている。

そして、ジョーは自分の地位を利用してダンサーたちをセックスをしている、いわゆるパワハラ・セクハラ親父だ。この部分もボブの自伝的性格を映画はよく現わしていて、ボブは問題のある人物だったということができるし、当然映画でのジョーも問題のある人物として描かれている。

例えば、舞台という規律と、酒やドラッグやセックスという混沌。舞台で規律性を生み出して倦んできたところで、酒とドラッグとセックスをして憂さを晴らす。それがジョーの生活パターンだ。

ジョーは憂さ晴らしがないとやっていけない人物で、そのためには地位を利用する。周囲の女性は、「私はいつスターになれる?」と言ってジョーに近づいてきて、ジョーは成り行きに任せて地位を利用してセックスをする。

これはボブがやっていたことだろう。なぜなら、この映画の監督・脚本・振り付けはボブ自身がやっているのだから。地位のある男性に対するこの映画に登場する女性の行為は、ある特定のステレオタイプを現わしている。

それは、仕事をして生きていく機会が少ない女性に、仕事とお金を与えてくれる男性に、近づいていく女性という、社会的構造が強いる、特にこの映画が作られたころにはまだ根強かったと思われるステレオタイプだ。

これは、地位のある男性にとって非常に好都合で、地位のある男性の利己的なものだ。女性は従属する性であり、それは社会の通念がそれを強いていて、暗黙の了解で男性が直接命じることなく、女性の方からあたかも女性が好んでそれを行っているかのようにことが運んでいく。

20世紀フォックス・ホームエンターテイメント・ジャパン株式会社 All That Jazz オール・ザット・ジャズ 6:39 ジョーに自宅の電話番号を教えるビクトリア

20世紀フォックス・ホームエンターテイメント・ジャパン株式会社 All That Jazz オール・ザット・ジャズ 15:57 ジョーの自宅に呼び出されセックスと引き換えに将来の保証を求めるビクトリア

これはいわゆる現在の社会にも残る、社会的通念に利用されて搾取されていく、地位の低い女性たちの在り方だ。日本でも伊藤詩織さんが起こした訴訟のように、地位のある男性が、就職の機会を女性に与えるために、女性に性行為を強要するということが起こっている。

これは、ジョーのやっていることと全く同じだ。日本の関西のお笑いの世界でも男性が地位を利用して、女性をレイプしたり搾取したりすることが平然と行われてきていてそれが問題となっている。

社会的地位がある者が、経済的に力のない立場にある人を、地位のあるものの性欲のはけ口として利用する。そこにあるのは合意形成によりはぐくまれていく男女関係ではなくて、「俺は力がある。もしお前が俺に従えば、何かいいことがあるかもね」という、権力者の半ば詐欺行為だ。「俺にセックスを提供して、俺が気に入れば、お前は成功するかもね」、この「かもね」が、この権力者の行為を詐欺行為と呼ばせる。

時間をかけた合意形成のないセックスは、人間をすり減らす。時としてそれは、心的外傷後ストレスを、セックスさせられた人に残す。合意のある瞬間的な男女関係を否定するわけではないが、男女関係に時間は重要だ。男女関係に手続きは必要だ。

この場合手続きと言うのは、書類を書いてサインするということではなく、知り合って、会話して、デートして、手を繋いで、そのうち2人きりになって、軽いキスをして、そのうち軽いキスがディープなキスになり、会話の内容も親密になってきて、合意のあるセックスに至るというのが、ここでいう手続きだ。

この映画「オール・ザット・ジャズ」は、成功を利用してパワハラ・セクハラをする男性が、自分の死を迎えるまでだ。ラストの辺りの、ジョーの死の迎え方は、とても滑稽だ。ぬぐい切れない過去を正当化するわけでもなく、自分の無様な生を、ダンサーである元妻や、恋人や、ジョーの娘が、滑稽に歌って踊ってジョーの人生を笑いものにする。この映画は、ジョーを称えるのではなく、ジョーを笑いものにする。それが、この映画を作ったボブの罪滅ぼしのための苦しい言い逃れなのだろう。