家父長制という檻の中の小鳥

映画「少女バーディ 大人への階段(原題:Catherine Called Birdy)」を観た。

この映画は2022年のイギリス映画で、映画のジャンルはイギリス時代劇だ。

この映画の舞台は、13世紀イギリスのリンカン ストーンブリッジ村だ。その村の領主の家族が、この映画の中心となる。

この映画の主人公は、ストーンブリッジ村の、経済難に陥っている領主の娘であるキャサリンだ。キャサリンは、自分のことを皆に“バーディ”と呼ばせている。この映画の原題の“キャサリンはバーディと呼ばれた(Catherine Called Birdy)”は、このことを指しているのだろう(映画「レディ・バード」の主人公みたいに、自分を自分のつけた名前で呼ばせている)。

14歳のキャサリンの父ロロ卿41歳は、利益をよく考えない無謀な浪費で、経済難に陥っている。お金が無くなっても、ロロ卿は言う。「私は農民のように、パンと水だけで暮らすのは嫌だ」と。

つまり、ロロ卿は、領主の名に恥じない浪費をしている。豪勢な暮らしをして、農民と差をつけて、我儘に生きていく、それが、ロロ卿の生き方だ。

しかし、浪費というのは、経済的に良くないことなので、ロロ卿の財産はどんどん少なくなり、娘のバーディをお金持ちの男に嫁がせて、お金を貰おうと考えるようになる。酒を飲みながら、ロロ卿は娘のバーディを金持ちに嫁がせる判断をする。

ただ、結婚をするなら子供を産まなければならない、というのがこの時代の社会通念だった。子供を作るのが結婚であり、結婚するならば子宝に恵まれるのが当然、という考え方だ。つまり、非常に、女性にとっては狭苦しい社会だ。

当時の、女性の職業の選択の自由はほぼなかった。女性は、結婚して子供を産むのが唯一の道というくらいに、女性に生き方の、職業選択の自由はなかった。バーディを、金持ちの男の所に嫁にやるというのは、当時としては当たり前の考え方だった。

そして、13世紀の、女性の運動なんてない時代のバーディは、この時代の通念に馴染むことができなかった。バーディは、職業選択の自由を望んでいた。バーティは、かっこいい母親の弟のジョージ叔父さんのように、戦士として十字軍の遠征に出ることを夢見ている。

バーディは、十字軍に遠征するジョージ叔父さんに憧れているが、ジョージ叔父さんの方は、遠征に疲れ果てているようだ。遠征によって出る、死傷者のことがジョージ叔父さんの心を蝕んでいく。

結果的に、ジョージ叔父さん28歳は、20年も歳の離れた金持ちの未亡人の所に、婿に行く。そのジョージ叔父さんの姿は、結婚しか選択肢がないような、バーディのような女の子と変わらなく悲惨な感じが出ている。

バーディは、ジョージ叔父さんに尋ねる。「叔父さんは、妻が好きなの」と。するとジョージ叔父さんは答える。「好きになれるように、努力はしている」と。つまり、ジョージ叔父さんは、十字軍の遠征でPTSDになって、仕方なく金持ちの所に婿に行ったということだ。

中世の貧乏人に、選択肢はないということだ。領主でも男でも金がなければ、自分の意思とは違うことをしなくてはならない。それは、現代の労働者の子供が、両親同様に安月給の仕事に就かなければならないのと似ている。貧乏人に自由はない。

男でも自由はなかった時代、当然のように女性にも自由はない。もしかしたら、これは実は、今の時代も同じことなのかもしれない。お金持ちが、世界を支配している。そのような図式は、中世も現在も同じなのではないか?

バーディは14歳になり、子供が産める体になる。つまり、月経がバーディにもおとずれる。バーディは、自分の知らない、しかも歳の離れた、男と結婚するのが、当然のように嫌なので、月経が来たことを隠そうとする。

それを見つけた母親は、激怒する。「あなたも社会が敷いた生き方に乗りなさい」と母は言う。バーディの母親レディ・アシュリン36歳は、何度も子供を身ごもっては流産している。「この疲れをとって」とアシュリンは、バーディにぼやく。

バーディの父親のロロ卿は、妻であるアシュリンに、何度も子供を身ごもらせている。そして、流産するたびに、アシュリンは疲れ果てていく。精神的にも、肉体的にも。そして、その様子を、バーディは観ている。“自分もいつかこうなる”と。

この映画はコメディだ。流産のために死んだ赤ちゃんの話が、暗く語られることはない。死んだ赤ちゃんたちのことを、バーディは恐れていない。バーディは、赤ちゃんのことを、自分の血を分けた兄妹だと考えているようだ。

何度、妻のアシュリンが流産をしても、ロロ卿は子作りをやめない。まるで、何かに憑りつかれているみたいに。おそらく、当時の社会通念が、ロロ卿を駆り立てているのだろう。”領主は子供を多く作れ”、のような。

バーディの母アシュリンを観て、バーディはどう思っているか? 母親は、父親といつもセックスをして、なんだか幸せそうだ、と思っているのか? それとも、母親はなぜあんなに子供を作り続けるのだろうか? だろうか?

おそらくバーディは、その両面をとらえている。物事は、簡単に白黒分けられるようなものではない。バーディはそう思っている。そう、女性は子供を産んで育てるのが、生きている意味、みたいに、明白に言い切れるものではないのだ。

バーディは、羊飼いのパーキンという男の子も好きだ。ジョージ叔父さんも、好きなのだが。つまり、この点でもこの映画は良くできている。そう、女性の好き嫌いは家父長制におさまりきるものではない。

家父長制は、近親婚を禁じて、女性の役割を再生産(つまり子供を身ごもって、子供を産み、子供を育てること)に限定して、財産の相続を子供にだけする、というようなルールを持っている。

その家父長制は、人間の趣向というよりは、支配力を持つ男が後付けで作り出した、人工の制度だ。よって、家父長は、多くの人にはなじまないものだ。それは、バーディにとってもそうである。

家父長制は、バーディに結婚するように迫る。そのために、職業選択の自由は、バーディにはない。バーディは、家父長制という檻の中に囚われた、まさしく“鳥”だ。バーディは籠の中の鳥だ。

バーディの人生を決定するのは、暴力的な力を持っている父親だ。つまり、家父長制は男の肉体的強さによって成り立っている。それを、示すのが、この映画でも見られる、決闘だ。つまり、力と技量があるものが、世の中を支配しているのだ。

バーディはまだ14歳だ。親の保護のもとで生きている。ただ、その親の信じる世界が、作っている世界が、間違ったものだとしたら…。その世界は、その世界観は、バーディを縛り続けるだろう。バーディの内から。そして外から。

馬鹿で、頓馬な、大企業

映画「フロウ ~水が大企業に独占される!~(原題:Flow  For Love Of Water)」を観た。

この映画は2008年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。なお、この映画についての文章を書くのは今回で2回目だ。

この映画は、世界各地、特に第三世界で、水が大企業に独占されて、水不足や水の汚染で、世界各地で死者が出ている状況を描いたものだ。

まず映画の冒頭の後でおさらいされるのは、水の循環だ。大陸には血管のように河川がはりめぐらされていて、水がそこを通って地球の心臓である海に流れていく。海から蒸発した水は、雨となって大陸にも降り注ぐ。

しかし、そこで問題がある。この水循環の間に、人間が作り出した化学物質が入り込んで、私たちの飲み水を汚染している。工業薬品、ロケット燃料、農薬、牧場や下水処理場で使われる薬品、等の化学物質が、水循環に入り込んでいる。

これらの化学物質は、風や腹痛の原因となる。これらの物質は、水道水にも含まれている。

人間の肝臓で除去された化学物質は、トイレにから下水処理場へ行き、河川を流れ、また水道としてくみ上げられる。先ほど、示した水循環の途中にこの工程は含まれる。つまり、一度、化学物質が入り込むと、水循環から除去されないのだ。

化学物質の数は11万6千種類ある。これらの、化学物質が、水循環のうちに取り込まれている。

だから、ボトルの水を飲んでも同じことだ。ボトルの水も、水循環している水のうちの一つだ。その水循環には、化学物質が入り込んでいる。

 その影響として、メキシコの農業地帯で先天性異常の子供が増加、ヨーロッパの農業使用地域で不妊が増加、農薬の使用でタスマニアのガン発生率が倍増、セーヌ川の魚のメス化、テキサスで魚の細胞から高濃度の抗うつ剤検出、北極圏では動物だけでなく、イヌイット族の母乳からも汚染物質が検出。世界中の水に化学物質が入り込んでいる証拠だ。

例えば、ベトナム戦争で使われた枯葉剤も、水の循環に入り込んでいる。地球上で使われて、廃棄された化学物質が、世界中の水循環に入り込んでいるのだ。つまり、世界中の水は汚染されていて、その影響を地球上の生物が受けている。

化学物質を作り出したのは大企業だから、つまり水を汚染しているのも大企業だ。その大企業が、汚染されている水から人々を守るために、水道事業をしますと言ってきた。そして、その水事業は偽善的なものだった。

第三世界には、下水処理のシステムが整っていない。そこに大企業が工場を建てて、廃棄物を流せば、河川の汚染が起こる。この映画でも、魚の加工工場らしきところから、魚の血や内臓が河川に流されている映像がある。

だから、そこで西洋の大企業が、水道事業をして、下水処理設備などを整理します、と言ってきたのだ。もちろん、その水道事業では、企業はお金のことしか考えておらず、多くの人々がその水道事業とやらの犠牲になった。

まず、大企業は多額のお金を手に入れるために、高額の公共事業を行った。それがダム建設だ。世界銀行と大企業は手を組んで、世界中にダムを作った。高額の融資を、それらの国は受けて、その融資は国の借金となる。国はその融資の返済を、世界銀行や大企業に行うことになる。

ダムの大義名分は、貧しい人々に水を行き渡らせることにあった。しかし、そのダムから供給される水を利用できるお金を持っているのは、大農家だけで、一般の人々には、水の値段は高すぎるものだった。

水道水を飲めない人々はどうしたか? 人々は川の水を飲んだ。前述した、化学物質で汚染された水循環の中にある、川の水を貧しい人々は飲んだ。そして、汚染された水を飲んだ結果、多くの人が病気にかかり死んでいった。

こうした事態を解決するために、現地の人々が立ち上がって、それぞれに水を集めたり、集めた水を紫外線を使って除菌するシステムなどを、作り出した。それらの、取り組みのおかげで、安価でより良い水を手に入れることが、一部の人たちは手に入れることができるようになったとこの映画ではある。

高額な事業のためにダムを作ることは、人々に水を行き渡らせることを全く考えていない。水は雨から手に入る。だったら、雨を集める工夫を身近なところですればよい。わざわざダムを作る必要なんてなかったのだ。

大企業や世界銀行が考えることは、巨大な事業のことだ。つまり、どれだけお金が儲けれるか? だけが、そこでは問題にされるのだ。地球の環境や、水不足のことなど、世界銀行や大企業は考えていない。

一般的な人々のことを親身になって考えることができるのは、当事者である人々だけだ。大企業の思考に、一般の人々の生活のことは入っていない。彼らの思考は、金、金、金だ。金をより多く所有することだけが、彼らの目的だ。

欲張りな大企業は、アメリカでも水の所有権を手に入れようとした。水は太陽と同じだ。所有するものではない。この映画の中で登場する、活動家はそう主張する。それに対して企業は、水をボトルに詰めて売ることだけを考えている。だから企業は水を所有したがる。

水にブランドのラベルを張って売り出す。すると、タダで手に入れられるものであるはずの水に、お金が払われる。ただのものから、高額の儲けを引き出す。大企業が好きそうなアイデアだ。元値はかからず、利益を大きくする。

大企業はお金のことしか考えることのできない、ただの頓馬か馬鹿の集団だ。大企業の思考は、半歩どころか、何万歩も、人々の思考から遅れている。有名な大学を出て、何か国語も操れるようなエリートの、教養の生かし方は実に浅はかだ。

大企業には当然、有名な大学を出たエリートが入る。しかし、そのエリートの目的は、公共性にはない。エリートの目的は、お金を、儲けることだけだ。美人の妻に、愛人に、高級車に、豪華な邸宅に、かわいい子供に、将来の余剰な安定。それが、エリートの目的だ。

エリートと水を買うことができない人々とのずれが、ここでは見て取ることができる。お金を儲ければいい、という短絡的な思考が、ここまで権力を握ってしまったのはなぜか? なぜものを持たない美徳が、ここまでないがしろにされるのか? なぜ所有しようとするのか? なぜ公共的な思考ができないのか? エリート教育とは一体何か? この映画を観ると、様々な疑問が浮かんでくる。

服の持つセクシャリティ

映画「ラストナイト・イン・ソーホー(原題:Last Night in Soho)」を観た。

この映画は2021年のイギリス映画で、映画のジャンルはタイムリープ・ホラーだ。

この映画の主人公は、エロイーズ・ターナーという18歳の女の子だ。エロイーズ、通称エリーは、コーンウォールのレッドルースに住んでいたが、ロンドンでファッションを学ぶために上京する。

エリーは、ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションという、ロンドンの国立のロンドン芸術大学に合格した。それで、上京をすることになる。

エリーは、寮の相部屋で暮らすことになるのだが、そのルームメイトのジョカスタという、ロンドンにマンチェスターから来ている、ロンドン暮らしが1年先輩の女の子とそりが合わない。エリーの母親は、エリーが幼いころに死んでいるのだが、その事実を伝えると、「いきなり、母親が死んだことを言うなんておかしい」と間接的に言われてしまう。

エリーは、新しい学生生活の出だしを挫かれてしまう。寮ではルームメイトと上手くいかないし、パーティが開かれて夜も寝られない。ルームメイトは、狭い相部屋に男を連れ込んで、エリーの前でセックスを始める。

そこで、エリーはグージ通りにあるグージ・プレイス8番の部屋に引っ越す。そこは、ソーホーと呼ばれる地区だ。ソーホーは、1980年代以降にファッション街になったが、それ以前のソーホーは、性風俗店や映画産業施設が並ぶ歓楽街だった。

女優や歌手志望の女の子が、性風俗店で働き、映画産業の重役に性的に有償で奉仕して、気に入られたら、舞台などに出演できるという道筋があったようなことが、この映画の中では匂わされる。

なぜ2021年の18歳のソーホーに住む女の子が、1980年以前のソーホーのことと関係を持つようになるか? それは、この映画がタイムループするからだ。そしてそのタイムループは、エリーの病的な状態と解釈される。その解釈とは、統合失調症だ。

統合失調症とは、一般的に幻覚や幻聴を聴いたりする精神的な病気として知られている。つまり、エリーのタイムループは、統合失調症の症状である解釈することで、この映画は、現実的であるという体裁を保つことが可能になっている。

さて、エリーはどの時代とタイムループするのか? 別の言い方をすれば、どの時代の幻覚を見るのか? それはエリーが憧れる1960年代のソーホーの幻覚だ。言い方を変えれば、エリーは1960年代のソーホーにタイムループする。

エリーは1960年代にタイムループすると、アレクサンドラ通称サンディという、歌手志望の女の子になる。サンディは歌手志望で、映画産業の関係者が来る性風俗店のステージで歌うことを希望している。夢見る女の子だ。

カフェ・ド・パリという店の、女の子の世話役のハンサムな男と仲良くなり、ステージに立つ約束を取り付ける。しかし、実際は、ステージというのは、猥褻なダンスを踊るステージで、サンディの思い描いている歌手のステージとは程遠く、ステージの女の子たちは、客を相手に性的なサービスをしているという状況だった。

つまり、性風俗店は、映画産業を目当てに集まってくる女の子たちの夢に付け込んで、風俗嬢として働かせて、儲けていたのだ。そこで、女の子たちの世話役のジャックの言う言葉はこうだ。「歌手になりたかったら、客にサービスしろ」。

エリーは、60年代のファッションに憧れる女の子だ。エリーは60年代のサンディの着ている服に憧れ、自分でそれを作ろうとする。そのファッションは、人目をひくファッションだ。つまり女性や男性を誘うのがファッションである、ということができる。

ファッションは女性の視線だけでなく、男性の視線を引く。その男性の視線とは、性的なものでもある。つまり、ファッションを作るということは、性的な視線をコントロールすることでもある。この映画を通じて、エリーはその事実に自覚的になる。

60年代のアレクサンドラ、通称サンディは、ソーホーにある自分の部屋に客を連れ込んで、金をもらってセックスをしていた。自分の夢が、ソーホーで叶えられると信じて。だから、サンディは徐々におかしくなっていく。

自分の夢に向かっているはずが、実際は男たちにしたくもない性的なサービスをさせられている。アンディにとって、性産業は望んでいた仕事ではなかった。しかし、世話役のジャックが、夢のためだと、性サービスの客をとるようにしつこくせまってくる。逃げ出しても捕まる。

おかしくなっていくサンディと、エリーの精神状態がリンクする。エリーは眠れなくなり、周囲の人間が、自分を性的に欲しがる男たちの亡霊に見えるようになる。現実と夢の区別がつかなくなり、エリーは夜眠ってからタイムリープするのが恐くて、眠れなくなる。

女の子たちの夢を利用して、性産業店で女の子たちを働かせる性風俗店。60年代女性の就職口があまりなかった時代に、女性が簡単にお金を稼ぐ方法だった売春。世界最古の仕事である売春は、1960年代でも、お金を稼ぐのに簡単という性質を変えてはいなかった。

エリーは、寮を出て、服を買うお金が無くなったために、近くのパブで働くことにする。それがもし60年代であったら、お金を簡単に稼ぐ方法として、性風俗店があった。学費を稼ぐために性風俗で働くという話は、なんだか最近でも聞いたことのあるような話だ。

女性の職業選択の幅が狭い時代というのが、数十年前には存在した。ヴィクトリアン・モラルに従って、女性は結婚のために生きるのだと。選択肢は結婚のほぼ一つだった。それしか、安定した暮らしをしてく方法がなかった時代だ。

結婚以外で高額な収入を得る職業として、性風俗店は存在した。しかし、性風俗店で多く客がとれるのは、若い年齢の時だけだ。性風俗店は、長期的な就職には向かない。もし、性風俗店で働くのが自分の天職だと感じている女性がいたとしても。

服は、人の目を引き付けるものだ。そこでは、服を着る人が、服を選んで、服を着た本人は、自分に対する周囲からの視線を、自分の望む自分の姿と合うように、コントロールする必要がある。

服は、セクシャリティの点でも重要だ。女性が、男を誘う服を着るとする。それは、特定の男を誘う服装ではないかもしれない。そこで、問題が生じる。服が多くの男たちをひきつけすぎる可能性があるからだ。

この映画「ラストナイト・イン・ソーホー」は服の持つ、性的な力を感じさせる映画だ。人目を引きつけるとは、どういうことなのかを、この映画を観る人は考えずにはいられない。

反撃の物語

映画「ウエスタン/ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト(原題:C’era una volta il west)」を観た。

この映画は1968年のイタリア・アメリカ合作映画で、映画のジャンルはマカロニ・ウエスタンだ。

この映画の監督は、イタリア人のマカロニ・ウエスタンの巨匠セルジオ・レオーネだ。また、この映画の音楽は、エンニオ・モリコーネが担当している。

セルジオ・レオーネエンニオ・モリコーネがタッグを組んだ映画は、「ワンス・アポン・ア・タイム三部作」と呼ばれている。「ワンス・アポン・ア・タイム三部作」には、この映画「ワンス…ウエスト」と、「夕陽のギャングたち」(1971年)「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984年)がある。

セルジオ・レオーネ監督には、この他にも「ドル箱三部作」がある。それは、セルジオ・レオーネ監督で、クリント・イーストウッドが主演したもので、「荒野の用心棒」(1964年)、「夕陽のガンマン」(1965年)「続・夕陽のガンマン」(1966年)だ。

ちなみにマカロニ・ウエスタンとは、イタリアの映画製作者が、スペイン、アメリカ、メキシコ、イタリアなどの荒野で撮影した、西部劇のことを指す。時代的には1960年代の前半から始まる。

この映画「ワンス…ウエスト」は、アメリカ大陸を横断する鉄道の建設と、それに関係する人間たちの様子を、ドラマとガン・アクションで描いた映画だ。

アメリカが独立したのが、1776年。アメリカのゴールドラッシュが、1848年。アメリカの南北戦争終結が、1865年。アメリカの西部開拓が、1860年後頃~1890年ごろ。最初のアメリカ横断鉄道が開通したのが、1869年。アメリカ東部で起こった第二次産業革命が、1971年。

この映画「ワンス…ウエスト」の映画の設定時期は、アメリカの最初の横断鉄道の開通した1869年から、アメリカの西部開拓の終わる1890年頃の間の21年間の、どこかに当たる。

この映画に登場する鉄道会社は、「大陸横断モートン鉄道」という名だ。映画のセリフには「大西洋が見えるところから出発したが、太平洋はまだ見えない」とあるので、この鉄道会社は、アメリカの東海岸から、アメリカの西海岸を目指していることがわかる。

映画に登場する地名から、この映画のアメリカ大陸横断鉄道は、アメリカの南側を通る横断鉄道であると推測できる。映画には、「ニューオリンズ」や、「ナバホ・クリフ」という言葉が登場する。

実際に現在でもアメリカで使われている鉄道会社に、ユニオン・パシフィック鉄道がある。この大陸横断鉄道は、アメリカ南西部にある鉄道で、アメリカ東部から乗ったとすると、途中でユニオン・パシフィック鉄道に乗り換えることになる。

ユニオン・パシフィック鉄道の経由地には、ニューオリンズや、ネイティブ・アメリカンナバホ族が住んでいるアリゾナ州トゥーソンがある。映画の登場人物のセリフから推測すると、この大陸横断モートン鉄道は、アメリカの東部から開発を始めて、アリゾナ州まで線路を伸ばしていることになる。

モートン鉄道の、線路や駅の敷設には、もちろん土地が必要だ。モートン鉄道は線路を作りつつ、駅を作り、その度に、線路や駅を作る土地を獲得している。当然、住んでいる土地から離れたくない人も存在する。

そんな時に、モートン鉄道のモートンの指示で、強制的に住んでいる土地から立ち退かせて、安値で土地を買い取る手はずを整えるのが、フランクというガンマンだ。日本で言うなら、地上げをするヤクザといったところだろう。

フランクは手下を従えて、モートンの指示で、鉄道の敷設を安くスムーズに行うために、恐喝、殺人などを行っている。モートン鉄道の指示に従わない者は、殺すというのがフランクのやり方だ。

この映画「ワンス…ウエスト」は、モートンと、モートンの手下のフランクたち強奪者と、モートン鉄道に土地を奪われた人たちや、土地を奪われそうになっている人たちの対立の物語だ。

この映画の、主な登場人物には、モートンモートンの手下のフランク、フランクに兄を殺されたハーモニカ、フランクに夫を殺されたジル、モートン鉄道に縄張りを荒らされるシャイアンというならず者たちのリーダーがいる。

ジルは、ニューオリンズの高級娼婦であった女性で、トム・マクベインのマクベイン農場に、お嫁に来る。しかし、ジルがマクベイン農場に着いた時には、トムもトムの子供のティミーも、モーリンも、パトリックも、フランクに殺されていた。

この映画の冒頭は、フランクに兄を殺されたハーモニカと、フランクの手下が出会うシーンが来る。そして、その冒頭の直後、マクベイン農場の、トムと、ティミーと、モーリンと、パトリックが殺される。

ジルは、トムが、大金を持っていると聞かされていた。当時の女性に、経済的に自立できる人は少なかった。大半の女性は、結婚して、自分の食いぶちを得ていた。女性の職業には、売春婦があった。売春婦は、女性が経済的に自立できる限られた手段の一つだった。

当時の女性の職業と言えば、お針子と家政婦と売春婦があった。売春婦は比較的高い給料が得られた。しかし、当時の西部の売春婦の年齢は30歳ぐらいがメインで、一生の生業にすることができない仕事だった。そして、お針子と家政婦の賃金は、女性一人が暮らしていくにも、少なすぎる額だった。

そんな女性の境遇の中で、ジルは売春婦になることを決意し、売春婦をやめた後は、トム・マクベインの妻となって、安定した暮らしをしようとしていた。そしてトムは大金を持っていると、ジルに言っていたのだ。

トムの大金は、鉄道の開発によって得られるものだった。トムは鉄道の駅になりそうな土地に、マクベイン農場を作っていた。そして実際に、モートン鉄道がマクベイン農場の土地を欲しがった。それで、一家は、ジルを残して死んだ。

アメリカの独立から93年からほど経った時点で、アメリカは、アメリカ大陸横断鉄道の開発に至っていた。アメリカ経済の発展が急ピッチで進んでいたことになる。そこでは、ネイティブ・アメリカンが住む土地を追われ、黒人が奴隷としてアフリカ大陸から連れてこられ、アメリカの巨大農場であるプランテーションで、強制労働をさせられていた。

アメリカの侵略により、メキシコ系の現地民がアメリカの白人によって殺された。また、アメリカの鉄道はメキシコに向かって開発を進めていた。メキシコには、アメリカの傀儡政権もできる。

モートンやフランクは、強いアメリカの、侵略者であるアメリカの、代名詞的な存在だ。いつの時代もアメリカは外国に侵略している。この映画「ワンス…ウエスト」は、アメリカの実態を描いた映画でもあり、土地を奪われた現地民たちの反撃の映画でもある。

正統も異端になる

映画「太平洋の地獄(原題:Hell in the Pacific)」を観た。

この映画は1968年のアメリカ映画で、ジャンルは戦争無人島置き去り映画だ。

この映画の登場人物は、2人だ。1人は日本人の海軍大佐のクロダツルヒコ、もう1人はアメリカ空軍のパイロットの白髭だ。クロダツルヒコを演じるのは、黒澤明監督の映画「七人の侍」で世界的に評価を得た三船敏郎だ。

それに対して、アメリカ軍のパイロットを演じるのは、サム・ペキンパー監督の映画「戦争のはらわた」、映画「七人の侍」のアメリカ版リメイクの「荒野の七人」にも出演したジェームス・コバーンだ。

この映画の舞台は、第2次世界大戦の末期のマリアナパラオ諸島の戦いで、戦場からは少し離れた無人島だ。映画の撮影場所は、現在のパラオ共和国バベルダオブ島のアイライ、同じくパラオ共和国のコロールなどだ。

パラオ共和国は現在では観光地になっている。パラオ諸島の歴史は長く、4000年前から人が住んでいたと言われている。その後、16世紀ごろからスペインの植民地となり、その後はドイツ、そしてその後は日本の植民地となっている。

現在のパラオ共和国は、人口は18000人ほどと少なく、その人口の中には、日本の植民地支配の名残りとして日系人パラオ人の人もいる。

パラオ島の第2次世界大戦の激戦は、要塞化した洞窟陣地などを利用したもので、この日本軍の戦い方は、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」や「父親たちの星条旗」で描かれている。

日本は、第2次世界大戦で劣勢に置かれ、その時マリアナパラオ諸島は、絶対国防圏に置かれた。絶対国防圏とは、これ以上負けて取られてはいけない領地ということだ。それだけ日本軍は迫りくるアメリカ軍と、必死に戦ったということだ。

そんな激戦の中で、主人公2人がいる島は、海の音と、動物の鳴き声、雨の音しかしない、静かな無人島だ。近くで行われている激戦が嘘のような静かな場所だ。

その無人島に初めに一人でいるのは、クロダだ。クロダは、島についてからしばらく経っているようで、雨水を集めるため手製の袋受けを作っている。そこに救命ボートでやって来るのは、日本の特攻のゼロ戦によって飛行機と相棒を奪われたパイロットの白髭だ。

2人は無人島でサバイバルしていくために、互いに自分の陣地を守ろうとする。2人が互いを発見した当初は、当然対戦国の兵隊なので、殺し合いをしようとするが、その後、陣地の奪い合いした後、そして無人島でサバイバルするといった共通目的を持った共同生活を始める。

その攻防の中で、クロダは白髭を捕虜にする。その時の白髭の姿は、磔刑にされたキリストのようだ。

キリストの磔刑とは、ユダヤ教を批判したキリストが、ユダヤ教の指導者たちの反感を買い、キリストを死刑にするようにユダヤの指導者たちが、死刑の執行権のあるローマ帝国にキリストを死刑にするように頼み、キリストを磔刑にして殺したことを指す。

つまり捕虜になった白髭は、ナザレのイエスと同じだ。島の支配者であるクロダによって十字架にかけられたのが白髭だ。

その磔刑の様子も、映画の半分の時点で様変わりする。クロダが磔刑にされるからだ。つまり、白髭もクロダもイエスの立場に置かれることになる。この映画では、磔刑による死刑は実行されないが。

2人は日本人とアメリカ人だ。当然、使用する言葉が違う。日本語と英語だ。2人は言語によるコミュニケーションがとれない。2人は状況と相手の様子から、相手の言いたいことを推測しているようだ。

考えていることや、考えたこと、イメージなどを、お互いに表情や身振りなどで伝え合った共同を生活をしていく。最初はうまくコミュニケーションがとれずに、ケンカばかりをしているが、無人島で生き抜くために協力していくことになる。

その2人の協力の結晶が、2人が無人島を出るために作る、竹を材料とした船だ。協力して、筏を作り、その筏を協力して漕ぐ。特に海の航海では、2人の意見の不一致が死の危険性を招く。筏での航海は、2人の団結力の現れだ。戦争の対戦国の兵士同士の。

2人の筏は、無人島よりも多きな島に着く。そしてそこで、日本軍の要塞、病院に、2人は辿り着く。そこには誰もいない。病院には、1944年に出版されたコミックのキャプテン・マーベルの38号がある。他にも、アメリカのライフという雑誌の、1943年の8月16日号もある。

白髭は、最初ライフのエッチな写真を見て、「オー・イェー」などと言っているが、日本軍との戦争の写真を観て、表情が硬くなる。2人はその後、日本酒で盃をかわすが、その時、白髭はさっき観たライフ紙のことから戦争のことで頭がいっぱいになる。

クロダもライフ紙の、負傷したり、死んだ日本兵の写真を観て、だんだん深刻な気持ちになってくる。

その時に白髭が発する言葉は「日本人が神を信じないのは本当か?」というものだ。クロダはその質問に対して「うるさい!!」と答えるのみだ。クロダも白髭も、ライフ紙の写真に頭を占領されている。そして2人のコミュニケーションはかみ合っていない。言葉が通じないし、同じ神を信じていないからかもしれない。

日本には神がいた。それは天皇という現人神だ。もちろんアメリカ人である白髭にも神はいる。それはキリスト教の神だ。白髭の質問に答えるのならば、日本人は神を信じていたのだ。ただそれは、アメリカ人にとってはただの人間にしか見えないのだが。

白髭の質問には「日本人は神を信じていないから、戦争をするのだろう?」という内容が透けて見える。しかし、イエス・キリストを信仰する白髭達アメリカ人も人殺しをする。天皇を信じていても、キリストを信じていても同じだ。人は戦争で人を殺す。

クロダも白髭も、罪人だ。2人の姿は磔刑にかけられたキリストのようだと書いた。つまり、白髭にとってクロダは異端で、クロダにとって白髭は異端だ。だからお互いにお互いのことを殺そうとする。

違うものを信じる同士がいる。だがそこに共通点はある。それは同じ人間だということだ。同じ人間だから、似たような感情がある。特にケガによる痛みは、人類共通のものだ。いがみ合う対戦国の兵士同士に共通点はある。

ならば戦争は何がおこすのか? それはきっと、エリートたちと大衆の思い込みだ。戦争をエリートたちが仕切るのは、エリートたちの権益の拡大のためだ。そして、大衆の熱狂への恐れだ。熱狂した国民への恐れと、エリートたちの思惑。兵隊は、エリートたちの欲望のための駒でもある。大局観は、強欲によって作り出される。強欲は人を殺す。

 

タブーに触れる

映画「プロデューサーズ(原題:The Producers)」を観た。

この映画は1968年のアメリカ映画で、映画のジャンルはコメディだ。

この映画の主人公は、マックス・ビアリストックという演劇プロデューサーと、マックスの事務所にやって来るレオ・ブルームという会計事務所の会計士だ。

マックスは、昔は演劇作品を多く扱い、投資を多く集めていた、演劇プロデューサーだったが、年老いて落ちぶれている。今は、日銭を稼ぐために、年老いた複数の女性の投資家の恋人になっている。マックスは、体で金を稼いでいる。

そんなマックスの元に、会計士のレオがやって来る。レオは、会計士として帳簿をつけていて、マックスの不正を見つける。調達した資金は6万ドル、公演費用が5万8000ドル、この差額の2000ドルがどこかに消えている。

最初は、マックスの罪を責めるレオだったが、マックスの態度に考えをあらためて、嘘の帳簿をつけることを強制される。しかし、その時レオの頭の中に、この不正のやり方で大儲けすることができると気付く。

投資家から必要以上にお金を多く集めて、公演に失敗すれば、投資家に分配を支払う必要がない。よって、投資家の金が、必要経費に充てられるとして、その嘘の必要経費の申告により、実際の経費と投資との差額を盗むというようなことを。

投資のお金を、必要経費として、偽帳簿につけておいて、実際の経費と投資の差額を盗むというのが、レオの思いついたやり方だ。マックスと同様に、レオも日常の業務に嫌気がさしていて、大きな成功、つまり大金を望んでいる。

2人が、失敗するための演劇作りをするのが、この映画の中心となっている。脚本を選んで、脚本家に会い、脚本を手に入れて、投資家から集金をして、演出家を雇い、キャスティングをする。最低の演劇を作るために。

2人は、最低の演劇作りにわくわくしている。最低な演劇人を見つける度に、2人の興奮は高まる。その様子は、まさにコメディ映画といった感じだ。最低が見つかるたびに、わくわくする2人は、演劇の面白さを知っている。

しかし、作るのは最低の演劇だ。だから、自分の持てるセンスを発揮して、最高の演劇とは全く真逆の最低の演劇を作る。最高の演劇を知っているという自負が、最低の演劇を作らせている。

最低の演劇を作る。最高の演劇の作り方の、真逆をする。それには、最高の演劇を知っていなければならない。演劇作りのセンスがなければ、最低の演劇を狙って作ることはできない。つまり、最低の演劇を作るために、自分の演劇作りのセンスを発揮する。

マックスとレオは、「君の演技は最高だ!!」と言いながら、内心では「この演劇は最低になる!!やった!!」と思っている。このねじれが、最高におかしい。中でも、キャスティングの際に、最低の演技をする主演俳優が、最高に最低な歌を歌うのを観ていると、こちらも爆笑してしまう。

相手が最高と思っていることを、実は最低だと知りながら、最高だと称賛する。この意地悪さ。ただ馬鹿にしているわけではない。称賛するのだから。しかし、本心では素晴らしいとは思っていない。

最高の演劇を知りながら、最低の演劇を作る滑稽さ。最低の演劇を作る人材を、褒める滑稽さ。このなんともねじれた関係が、この演劇を観る人に笑いをもたらす。このねじれをどう表現すればよいのかは、ちょっと見当がつかない。

人は自分より劣った者を、馬鹿にするのが好きなのだろう。マックスやレオのことを、「ここまでは俺は終わってない」と思いながら観ているのだ。しかし、現実の自分の人生が、マックスやレオの人生よりも報われているとは限らないのだが。

この演劇のキャスティングの際に登場する、ロレンゾ・セント・デュポワ、略してLSDという、失敗するための演劇のヒトラー役を演じることになる俳優の歌う歌の歌詞が、最高にふざけている。

まずLSDというのは、ドラッグのことも指す。ヒッピー・ムーブメントの時代の象徴でもあるし、人の名前としてはぶっ飛んでいる。LSDは手に花を持っている。そう、これも60年代の反戦運動の象徴だ。軍隊の銃口に花を挿す、ヒッピーというように。

「花を人に渡しても、人は花を捨てる、ごみ箱に、トイレに。トイレに捨てた花は、海に流れ着き、その水を私たちは飲む」というような歌詞の歌をLSDは歌う。はっきり言って、最低な歌詞だ。だが笑えるし、水が循環しているのは事実だ。ただ、水は濾過されるが。

ヒッピー・ムーブメントのもう一つの特徴というのが、フリー・セックスだ。この演劇にもフリー・セックスを現わす人物が登場する。マックスは、事務所に美人の秘書をおくことにする。最低の演劇を作るために集めた資金の一部を使って。

マックスは「図書館にいたんだ」と言って、片言の英語を話す、金髪のモデルのような美女を連れてくる。マックスのスケベ心の現れのような女性だ。ゴーゴーダンスを踊り、「メイクラブする?」と話す、その女性は快楽主義の象徴のような存在だ。

しかし、彼女は金に困っている。なぜなら、彼女は移民で、しかもヒッピーだからだ。ヒッピーと言えば金銭に基づかない、物々交換による、自給自足の生活をするコミューンを作ろうとしていたことで知られる。その計画は続かなかったが。

つまりヒッピーは俗にいう貧乏だった。

最低の演劇のタイトルは「ヒトラーの春 アドルフとエバ ベルヒテス ガーデンでの戯れ」だ。ユダヤ人を強制収容所に送り、大量にユダヤ人を殺した、ナチスヒトラーへの愛を現わしたのがこの演劇の脚本だ。

脚本家は元、ナチスのドイツ兵で、ヒトラー終戦から20年以上経った後でも、尊敬してやまない。この映画では、この脚本家は明らかに気がおかしい人として描かれている。

この脚本家の演劇を、ヒッピーが主演する。すると、映画は喜劇になる。脚本家のヒトラーへの愛は、ラブ・アンド・ピースの主演俳優によってズタボロの喜劇にされる。それが、観客に馬鹿受けする。

脚本家は傷つき、マックスとレオを殺そうとする。そして、マックスとレオは自分たちが、この演劇を成功させた、主演俳優たちを恨んでいると、脚本家に告げる。そして、脚本家に対して、一緒に劇場を爆破しようということになる。もう、3人は自暴自棄だ。

この映画は、タブーに触れる映画だ。ラブ・アンド・ピースや、プロデューサーや、ヒトラーを笑いものにして、タブーを公衆の前にさらす。それによって笑いをとる。タブーを、人の目にさらして、タブーをなくしていく。タブーにより、抑圧されている人を救うために。

土地を失うこと

映画「ローカル・ヒーロー 夢に生きた男(原題:Local Hero)」を観た。

この映画は、1983年のイギリス映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の主人公は、マッキンタイアというアメリカに住むハンガリー系の、大企業に勤める男性だ。マッキンタイアの勤める会社は、石油の事業を扱っており、メキシコでも石油関連の仕事をしていたらしい。

マッキンタイアの勤める会社、ノックス社は、今度は西大西洋地域の開発のために、スコットランドの海岸に、石油の製油所と石油の貯蔵施設を建築しようとしている。マッキンタイアの同僚は、マッキンタイアにこう言う。

「メキシコ人は野蛮人だが、スコットランド人は俺たちと同じ英語を話すぞ」と。明らかに、ノックス社の社員はメキシコ人などの現地民を、劣った人種として見ている。差別意識が、明確にある、レイシストたちの会社が、ノックス社だ。

マッキンタイアは、社長のハッパーに、「スコットランドに調査に行ってくれ」と言われる。明らかに石油のコンビナートの建設のための買収に、マッキンタイアは行かされるはずなのだが、ハッパーはこうも言う。

スコットランドの夜空はきれいだ。星が良い。逐一、スコットランドの星について報告してくれ。乙女座の辺りを観るんだ」と。明らかにハッパーは、石油基地の開発とは、別の目的で、マッキンタイアを、スコットランドに行かせようとしている。

しかし、ノックス社の社長の意思と、ノックス社の社員の目指している目的は違う。ハッパーの言葉を、マッキンタイアは、社長の趣味の一環で、会社の命令とは別物で、適当に対応すればいいと考えている。

マッキンタイアは、スコットランドについてこう言う。「石油のない世界なんて想像できない。自動車、熱、インク、ナイロン、磨き粉、洗剤、人工ガラス、合成樹脂、ドライクリーニング液、防水コート、洗濯液、は石油でできている」と。

石油は、マッキンタイアの言うとおりに、今現在でも、あらゆる製品に使われている。プラスチックの原料は石油だ。石油から樹脂を作り、樹脂を型に入れて、型に熱をかけて、プラスチック製品を成型する。これは、石油製品の使われ方の一例に過ぎない。

石油は生活のあらゆる面に浸透している。ならば石油を掘り、その流通を管理すれば、莫大な利益が得られる。だからノックス社は大企業になっているのだ。ノックス社はいわゆる、多国籍大企業だ。

映画の中では、ノックス社のアバディーン支社に勤めるダニー・オルセンという人物が登場する。ダニーは何か国語も言葉をしゃべれる。交渉の際に必要な能力なのだろう。この映画に出てくるノックス社の社員は、当然のようにエリートばかりだ。

アメリカやヨーロッパの企業が、ヨーロッパ圏外の国に、資源を求めて、開発をする。その開発には、国の援助が企業にされる。現地の人は土地を奪われ、食べ物を作ることができなくなり、土地は汚染される。

このような構造を持つものを、エクストラクティブ・キャピタリズムExtractive Capitalismと総称することができる。いわゆる現在に続く、アメリカや西洋圏の国々による、植民地主義から続く、第3世界の搾取のことだ。

石油のパイプラインは、石油漏れの原因となる。石油が漏れれば、土地が汚染されて、飲み水は飲めなくなり、作物は育たなくなる。また、石油を探すために、森林の伐採が行われる。石油やその他の資源を探すために、木々を切り倒し、土地を探索する。

例えばこのような、資源を探すための森林伐採は、実際ブラジルのアマゾンで、現在も行われている。そして、森林伐採により土地に住むことができなくなった現地民が、森林伐採に反対する運動を展開している。

デモクラシー・ナウ! Democracy Now!の2022年の8月18日の記事”The Territory”:New Film Documents Indigenous Fight Against Illegal Deforestation in Brazil’s Amazonという記事では、ブラジルのアマゾンで、森林伐採が行われて現地民が土地を追われている状況を伝えている。

この記事事体は、その状況を伝える、ドキュメンタリー映画の紹介をしている。入植者や農場主が、森林伐採をして、土地を奪い、食料を奪い、生活を奪い、現地民の人たちの生きる権利を奪っている、状況が今現在(2022.8.20)ある。

また、そのような貧しい状況に追い込まれた人たちは、ブラジルの政治家ルーラの政権の元では、教育やヘルスケアが受けられたとある。ブラジルの森林伐採を促進する企業や政権とは逆の、正しいことをしている政権がブラジルにはあった。

しかし、その後のボルソナロ政権は企業と癒着した政権だった。そして今(2022.8.20)ブラジルでは、森林伐採をするような開発者や国と、現地の人たちの対立が起こっている。映画「ローカル・ヒーロー」では、現地民の人たちはブラジルの人たちとは違った反応をした。

スコットランドの現地民たちの海岸地域には、漁師たちが住むが、彼らは非常に貧しい。だからお金がもらえる土地の買収は彼らには、そんなに嫌なものではない。しかし、スコットランドの現地民の人たちは、土地が買収される結果というものがしっかりとわかっていない。

パイプラインが引かれて、土地が汚染される可能性があることは、スコットランドの現地民には説明されない。科学者は「土地は頑丈な土地を選んだ」と言っているが。その言葉は頼りなく、映画中では科学者のペテンぶりが滑稽に描かれている。

スコットランドの現地民たちは、土地から離れて、その先の土地にうまく適応できるのだろうか? 金がすべてを解決するのか? 新しい土地で彼らは職にありつけて、その職を続けることができるのか? 彼らの精神の安らぎは? 彼らの未来はどうなっているのか?

「そんなこと知ったこっちゃない」。それがマッキンタイアや、マッキンタイアの同僚たちの意見だろう。マッキンタイアたちは今の仕事で、十分な給料を得ている。「ポルシェ930ターボに乗れる。適当に女性もとっかえひっかえだ。この生活は、捨てたくない」。

エリートと現地民の人たちの、格差、温度差、がここでは見ることができる。エリートは想像力に欠ける。それとも現地民の人たちのことを、人とは思っていないのか? それとも、自ら望んで思考停止しているのか?

この映画「ローカル・ヒーロー」は、コメディだ。徹底的に、金にコントロールされる人たちや、金持ち、そして教育のない人たちまでも、ある意味残酷に滑稽に描く。映画の視点は、現地民の無教養さの欠点を暴く。

この映画「ローカル・ヒーロー」は、イノセントな現地民を描くというより、エクストラクティブ・キャピタリズムに無知な人たちすべてに挑戦状を叩きつける。その挑戦は、コメディによる諧謔だ。コメディは実は、残酷だ。だが、コメディは正しいのかもしれない。

この映画の救いは、現地民と巨大多国籍企業の人との交流、巨大多国籍企業の人の自然への感動だろう。この映画のクライマックスは、夢物語かもしれないが。