ヨーロッパの問題、アフリカの悲劇

映画「アテナ(原題:Athena)」を観た。

この映画は2022年のフランス映画で、フランスの暴動を描いた映画だ。

この映画の中心となるのは4人の兄弟だ。長兄からモクタール、次男アブデル、三男カリム、四男イディールだ。この映画は、四男のイディールが、警官らしき人物に殺されて、そのために軍人である次男のアブデルが、暴動にならないように会見で発言するシーンから始まる。

そして、その警察署での会見の最中に、火炎瓶が三男カリムの手で投げ込まれる。するとそこから冒頭10分は、警察署から銃などを略奪して、パリの郊外にあるバンリューと呼ばれる低所得者と移民が暮らす場所へ、ワンカットで移動する。

そのバンリューの架空の区域の名前が、この映画のタイトルであるアテナだ。この映画は、古代ギリシア悲劇の題材となった、トロイ戦争を元にしている。アテナは、ギリシア悲劇にも登場する戦いの神の名前だ。

フランスのバンリューでは、暴動がたびたび起こっている。1981年の暴動、2005年の暴動、2020年の暴動だ。1981年の暴動では、バンリューで暮らす低所得者や移民の人たちが、政府に対する不満から暴動を起こし、車に火を点けた。

2005年のパリの郊外の暴動は、ティーンエージャーが死んだことがきっかけとなって起こった。黒人と、アラブの西部に住む人という意味があるマグレブの子孫の、計2人が、その時死んだティーンエージャーだった。

2020年の暴動は、バンリューでの民族少数者への警察の待遇により、衝突が起こった。それはちょうど、コビット‐19のロックダウンの最中で、幾夜に渡って起こった。パリ郊外のバンリューではこのようにたびたび暴動が起こっている。

2019年の「レ・ミゼラブル」というフランス映画でも、暴動の引き金となっている、警察のバンリューでの、バンリューで暮らす人々に対する、警察の態度の悪さが描かれていた。この映画「アテナ」は、映画「レ・ミゼラブル」の続編として観てもよい。

フランスの郊外に住む低所得者の中には、移民や移民の子供たちがいる。その移民はどこからやって来るかというと、それはアフリカだ。アフリカでは内政が不安定で、住民の身がいつも危険と隣り合わせだ。

代替メディアのThe Interceptの記事によると、アメリカが、アフリカ大陸で兵士を育てて、アフリカで民主的な体制が出来上がると、そのアメリカにより軍事訓練を受けた兵士がクーデターを起こして、民主的な政府を崩壊させてしまう、といったことが起こっているとある。

民主的でない軍事的な政権は、恣意的に行動し、その際に、軍事政権によって抑圧される人たちが、アフリカの難民となり、ヨーロッパに結果的に渡ってくる。

アフリカ大陸の北の部分の人たちの住む国で、クーデターなどにより内政が不安定化すると、多くの難民が生まれて、その難民がナイジェリアやスーダンなどを経て、リビアに集まり、海を越えてヨーロッパに渡って来るのだ。

つまり、アフリカの内政が不安定な結果、難民が生まれて、フランスのバンリューと呼ばれるようなところに難民が行きつく。映画「イゴールの約束」(1996年)も、そのような難民問題の結果を描いた映画の1つだった。

もともと、アフリカ大陸は西洋によって植民地化された地域だった。そこでは、アフリカの人たちは、植民地の住民として貧しい生活を強いられた。そして、今アフリカの国々は、西洋の支配から独立したことに、形式的には、なっている。

しかし、未だにアフリカの人々は貧しい状況に置かれている。それは、例えば、アフリカのエチオピアのコーヒーについて描いた映画「おいしいコーヒーの真実」(2006年)だ。アフリカでいくらコーヒーで世界最上級のものができても、それはニューヨークの市場で決まった価格の下で、最終的に安値で買い取られてしまう。

これは、欧米諸国によるアフリカの搾取だ。エチオピアは世界でも貧しい国の中に入る。今は変わったが、2019年当時世界で最もリッチな、アマゾンのオーナーだったジェフ・ベゾスの財産の1%は、エチオピアの保健予算と等しい。

搾取する欧米のスーパーリッチと、搾取されるアフリカ大陸のような第三世界との格差と、スーパーリッチたちの強欲さがここに見て取れる。例えば、ジェフ・ベソスが自分の財産の1%を寄付すればエチオピアの保健予算は、倍になる。そうすれば、エチオピアの人たちの衛生状況が改善されるのだ。また、ジェフ・ベゾスの財産の1%を、保健予算に当てて、余剰を他の予算に遣うという方法もある。

ただ、そのようなことができる民主的な政府が、エチオピアにあればの話だが。先に、示したように、クーデターをアメリカが訓練した兵士が起こしてしまえば、いくら寄付したところで、その寄付は、軍事政権の懐に入って、浪費されて終わってしまうだろう。

このような状況の中にある難民、移民の問題だが、難民の行きつく先としてあるのが、例えばフランスのバンリューのような公共住宅団地だ。そして、そこでも差別されてきたアフリカの人たちは、差別を受けて苦しい生活を余儀なくされている。

この映画「アテナ」では兄弟に焦点が絞られるが、このような兄弟のような不満を持つ人びとは、バンリューに住むすべての人たちだということができる。映画の中では、従順そうに描かれているバンリューの大人たちも、不満をもつ人々のうちの1人だ。

この映画「アテナ」では、四男イディールが警官によって殺されたと思った、バンリューの住民の人たちの一員である三男のカリムが、弟の復讐のために、弟を殺したとされる警官の名を警察に公表させようとする。

しかし、この映画「アテナ」により描かれるのは、復讐で人を殺しても、復讐者は救われないということだ。それを、よくあらわしているのが、次男アブデルのこの映画での描かれ方だ。

映画の中で、次男アブデルは、三男カリムの死の直接の原因となった、長男モクタールの行動により、モクタールを恨み、絶望し、発狂して、怒り狂い、モクタールを殴り殺す。そして、アブデルは自己を喪失し、無気力に陥ってしまう。

昔、社会学者の宮台真司は、「絶望から出発しよう」という本を書いた。アブデルは、絶望から救われなかった。そのアブデルの絶望を、味わうのは、この映画を観た人たちだ。絶望から出発するのは、この映画を観た人たちだ。

アフリカ大陸の内政不安定、それによる難民の発生、ヨーロッパへの移民。今ある問題の原因を作り出したのは、移民問題に頭を抱えるヨーロッパの国々だ。ヨーロッパ政府は、アブデルの絶望に共鳴して、絶望から出発して、利他的な政策を打ち出す時だ。

 

 

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新聞社は反権力

映画「女ざかり」を観た。

この映画は1994年の日本映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の主人公は、南弓子という女性新聞記者であり母である女性だ。弓子には別れた夫との間に2人の娘がいて、そのうちの1人の娘と同居している。また弓子は、大学の教授と不倫関係にある。

この映画は、弓子が新日報という新聞社の家庭部から論説委員に転属になったところから始まる。弓子と同時に、浦野という社会部に所属していた男も論説委員になる。この浦野という男は、現場で記事を書くのが得意だが、デスクで記事を書くのがとても苦手な男だ。

浦野は、弓子に記事を書くのを手伝ってもらう。記事の雑な下書きを、浦野は弓子に記事にしてもらう。結果、浦野の記事は掲載されることになる。

手書きで記事を書く浦野と対照的に、弓子はワープロで文書を書く。論説の記事を書くことをすすめられて、弓子は家庭部にいた頃の記憶を踏まえながら記事を書く。その記事は、他の新聞社内の人間に言わせるとフェミニズムだと言われ、否定的なニュアンスでとらえられる。なんせ新聞社は、男ばかりの世界だったからだ。

この映画は、この弓子が書いた論説が問題を起こし、その問題を追うことで、映画は進んで行く。弓子の書いた記事が原因で、新日報社の新社屋の建築の話が飛んでしまう。それはなぜなのか? それが、この映画の表面上の中心だ。

では、この映画の裏の中心は何か?それは裏というよりは表に出てきているが、ここでは裏の中心とする。その裏の中心とは、性欲だ。フロイトの言葉を使えば、リビドー。他人と触れ合いたい欲求、またはセックスしたい欲求だ。

弓子の不倫相手の大学教授は、弓子とセックスするためにホテルに、妻に内緒でしけこむ。浦野は弓子に優しくされて、弓子のことが好きになり、その気持ちが忘れられず、海岸に「きみとやりたい」と書き記す。

その他にも、政界の重要人物が登場するが、その人物たちももちろんリビドーに関する登場をする。この映画に登場する人物は、映画の外の世界のように、誰もかれもが体の中に抑えようのないリビドーを抱えている。

そして、そのリビドーの衝動を解放することで、新日報に起こった新社屋建築の無効の出来事は解決され、新日報への政治的圧力は消える。

弓子は言う。「日本の新聞社は西欧の新聞社と同じように権力と闘うのが重要であるのだと思っていて、日本にもそれが当てはまると思っていました。でも現実は違うみたいです」と。

弓子は、崇高な理想を追う新聞記者であることは、この発言からもよく読み取ることができる。そしてこの精神こそ、新聞記者の持つ専門的な知識、政治や哲学や宗教やフェミニズムの知識を生かすのにとても重要なものなのだ。

政治的しがらみで、良い記事が書けなくなる。弓子の書いた記事は、水子供養について取り上げた記事で、それが宗教団体の逆鱗に触れて、新聞社に圧力がかかる。その中で、弓子は論説を書く立場を失ってしまう。

映画中、弓子はおっとりとした人物として描かれる。どんな説得力のあるセリフを言っても、弓子を演じる吉永小百合の大衆に流布したイメージが、弓子の信念のある人物という面を押し隠しているようでもある。

だがしかし、この映画を観れば、弓子の信念が、弓子を演じる吉永小百合の清楚で少しおっとりとしたセリフ回しの中から感じることができる。そしてその信念こそが、新聞社の男たちが失ってしまった、大切な新聞社の精神だ。

性の転向と共感力

映画「転校生 さよならあなた」を観た。

この映画は2007年の日本映画で、映画のジャンルは恋愛ドラマ・ファンタジーだ。

この映画の主人公は、2人いる。2人は、長野県の長野市で幼少期を共に過ごした仲の、男の子と女の子だ。男の子の名前を斎藤一夫、女の子の名前を一美という。

この映画がファンタジーである理由は、一夫と一美の精神が入れ替わるからだ。一夫の体に一美の心が入り、一美の体に一夫の心が入る。よって、一夫の口調は女性の口調であり、一美の口調は男のものとなる。

体は一夫でも、心は一美。体は一美でも心は一夫。一夫も一美も、異性が好き。よってこの場合、男の体をした一美は、彼氏である山本ひろしという男の子が好きになる。抱き合う姿を見れば、一夫と山本ひろしが抱き合うことになる。見た目はゲイだ。

見た目は男で、心は女。だけど、一美は女としての別の肉体を持っている。これは男の体を持ったゲイの少年が、手術をして肉体を女性にするのに似ている。ただ一美は最初は女の子で、その次に不思議な力で男の子の体を手に入れ、そのあと手術なしてまた不思議な力で女の子の体を手に入れる。

一夫と一美の心の入れ替わりは、性的な意味での、性転換ともとらえることができる。そしてそれは同時に、他者への共感の力としてとらえることもできる。一夫と一美は精神が入れ替わりそれぞれの体を持って、それぞれの環境を生きることでお互いの家族を心境を理解するようになる。

その例は、体の性的な身体的特徴である、男の子の勃起であったり、女の子の生理であったりするのだが、それは時に相手の病状を思いやる気持ち、病気の相手が何を望むのかという気持ちに共感する能力を持つということだ。

この性転換を経て、一夫と一美は精神的に成長をする。異性に対する共感力を高め、同性愛者の気持ちを少しはなぞり、病気になった人の気持ちを理解して、母親そして家族の愛情を理解する。

ゲイであることは、性的に敏感であることだ。ゲイの人は、ゲイの人の中にあるストレートな人格を強く意識する。ゲイの人の中にあるストレートさ。それは、生物的には男性である人が、精神的に持つストレートな女性性。そして、生物的には女性である人が持つストレートな男性性だ。

そして、それが自分の持つべき性だと自覚する。つまりストレート(異性愛者)の人から見れば、ゲイの人は異性に強く憧れて、異性と同一化する人に見える。

ここからわかるのは、人は人間の性的な部分を前面に押し出して生きないと苦しいということだ。ゲイの人は、自分の性を認知してもらうのに苦しむことがある。自分の性を認めてもらうのに、ゲイの人は命を懸けるし、そうせざるえない。

性的なものは、人間にとってそれだけ重要な意味を持つのだ。

性的なものと同様に人間が生きるのに必要なのは、他者への共感力だ。他者への共感力があれば、争いごとのもとになる妬みや嫉妬は生まれない。そのため共感力は、自分自身を救う助けになる。自分自身の中の、葛藤を和らげてくれるのが共感力だ。

人は性的であることと、人は共感力を持つこと。それがこの映画が教えてくれる、人が生きるために必要なものだ。ただ、性的であることが教育や家庭や広告によって押し付けられるものなら、そこから解放されるのも人の生き方ではないかという気もするのだが。

癒し

映画「精神」を観た。

この映画は2008年のアメリカ・日本合作映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画の舞台は、日本の岡山県にあるコラール岡山という精神病院だ。この映画には「精神0」(2020)という続編があって、その続編ではこの精神科の病院からこの映画で登場する主治医の山本先生が引退する様子が描かれる。

この映画「精神」では山本先生が登場するものの、中心は山本先生のところに集まる患者たちの語りだ。病院での問診、患者へのインタビューによってこの映画は構成されている。この映画は、いわば患者の語りで構成されるといっていい。

この映画が撮られた時期というのは、障害者自立支援法が成立しようとしていた時だ。障害者自立支援法というのは、いわゆる福祉切り捨ての法律で、障害者の自立を促すという名目で、障碍者への支援を大きく縮小するという法案だ。

障害者自立支援法というのは、新自由主義の下でとられた政策だ。多国籍企業の治める税金で国を回していくのではなく、国民一人一人の負担で、例えば消費税で国の予算を確保しようとする政策の一環として障害者自立支援法はある。国民が、貧困に陥っていても。

多国籍企業は、莫大なお金を持っている。そのお金を多く税金としてとって国の予算に回せば、障害者自立支援法がなくても国はやっていける。しかしだ、国が多国籍企業からお金をとろうとすると、多国籍企業は国から逃げて行ってしまう。

だから日本政府は、日本にある多国籍企業からお金をとることができない。多国籍企業はどこに逃げるのか? それはタックス・ヘイブンと呼ばれる、税金の安い発展途上国だ。その発展途上国でも税金がとれないので、国の予算が足りないという事態が起きている。

先進国でも発展途上国でも、同じ事態が起きている。その事態とは、先進国でも発展途上国でも1番お金を持っているはずの多国籍企業からお金がとれないという事態だ。そして納税の被対象者には、お金を持っていない99%の国民がなっている。

そのような背景を持つ障害者自立支援法を、バックグラウンドとしてこの映画「精神」は描かれる。患者と患者に直接かかわるスタッフの姿が、この映画の中で描かれる。ブレーンとしての精神科医山本先生ではなく、病気の当事者、そして手足となる病院施設スタッフがこの映画のメインだ。

山本先生の精神病院は、とにかく古い。木造建築で、しゃれた病院とは程遠く、病院内の標識も紙で手書きで書かれている。新病棟を建てるという経済的余裕もない。山本先生は以前は無給で働いていたが、現在では(映画撮影当時)月10万円の給料と年金と講演料をもらっている。

講演料と言っても、他の医者が断るような講演料の公演を引き受けて公演をしているので、その料金は知れたものだという。それでも山本先生は働くのだ。患者ために。病院のスタッフのために。

患者には様々な人がいて、大学を出ているインテリの人もいるし、リストカットの跡が腕にある人もいれば、ストレスから自分の生後1ヵ月の子供を殺してしまった人もいる。インテリの人の中には、東大に受かって中退したという人も登場する。

その中の人には、健常者と精神病者の間にあるカーテンに悩んでいる人もいる。そのカーテンというのは、いわゆる健常者には障碍者に対する偏見があるのではないかというものだ。それに対して山本先生はこう言う。「たいした違いはない」と。

何十年も山本先生の元に通う患者の一人は、こう語る。「私は健常者と障碍者の間の壁をなくすことを考えて、行動するようになった。私は病気を経験したので、健常者にも完璧でないところが見える。そこを私はフォローするのだ」と。

また、別の患者の一人は言う。「人は自分の傷を癒そうとして、自分の手に包帯を巻いていてはだめだ。相手の傷を見つけて、その傷に包帯を巻くことで、その相手も自分も傷を癒すことができるのだ」と。

この「精神」という映画を観ていると、気づきの連続が映画を観るものに訪れる。映画に登場する人物が病気を、現状を語ることによって癒されていくかのように、そして映画を観るものもこの映画を通して癒されていく。

夢と荒唐無稽

映画「スパイの妻 劇場版」を観た。

この映画は2020年の日本映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画は、2020年の6月にNHKのBS8Kで放送されたものの、スクリーンサイズや色調を変えたものを劇場版として劇場公開したものだ。監督は「CURE」や「散歩する侵略者」などで知られる黒沢清だ。

映画の舞台は、第二次世界大戦末期の日本だ。主人公の福原聡子は、夫の福原優作の妻で主婦だ。聡子と優作の家は、召使がいるようなお金持ちの家で、優作は貿易関係の仕事をしている。

優作は趣味で、映画作りをしている。映画のカメラやフィルムは、当時は一般庶民の手に入るようなものではなかっただろう。ましてや、戦時中だ。物が不足している時代に、映画のカメラなどを趣味でもてる人間がどれほどいたのだろうか?

その劇中劇となる映画のヒロインは聡子だ。聡子は、金庫を開けようとしてそれが見つかり逃げようとして拳銃で撃たれて死ぬ。簡単に言ってしまうと、それがその映画のあらすじだ。そしてこの映画のあらすじが、映画本編のあらすじと重なることになる。

聡子は、妻という役割に熱中している妻だ。つまりそれは、現実をみていない妻としてこの映画では描かれる。妻という役割に没頭するあまりに現実から離れて妻の役割を自分の都合よく作り上げてしまう、それが聡子だ。

聡子の理想とする妻とは、一体何か? それは夫に愛され、夫と同じものを共有して、夫とだけと、できればスリリングな人生を楽しむ、といったものだ。そこに現実の悲惨な世界がからんできても、それは優作と聡子のための演出ぐらいの意味しか持たない。

それに対して、優作の持つ人生観とは何か? それは結婚よりも、コスモポリタン世界市民として、正義のために生きるというものだ。その正義は大義と言い換えてもいいかもしれない。つまり優作は、大義のために生きて、正義のために生きてはいないかもしれない。

映画の最後の辺りで、聡子は精神病院に入る。それは夫、優作の持っていた、日本の極秘資料を軍に渡すといって、映画のフィルムを渡したものの、その夫から譲り受けたはずの極秘資料=夫と聡子の共通の秘密=夫との親密性を現わすフィルムが、夫と撮った自主映画になっていたからだ。

それにより聡子は、夫の愛を失うことになり、夫と一緒に亡命してアメリカのサンフランシスコで暮らすはずの未来の約束がふいにされ、軍にでたらめな情報を流したためでもあるのか、聡子は精神病院に入ることになる。

精神病院にいる聡子は、精神病院に訪ねてきた優作の知り合いの訪問者にこう言う。「私は狂っていません。この世界が狂っているのです」と。

聡子は狂っていない。夫を愛し、良妻賢母として夫に仕えている。しかも日本の極秘機密を知っている。日本の極秘機密を聡子が知っている部分は、明らかに聡子は狂っていないといえる。

しかし、良妻賢母で夫のために尽くそうとする聡子は、明らかに家父長制に狂っているように思われる。それは家父長制が、男のための幻想だと信じている者ものにとっての聡子の狂いなのだが。

つまり、聡子は、家父長制を信じる者には狂っていないように思える。だがしかし、聡子は、精神病院にいる。それは軍事機密を知っていると狂言を言っているかのようにとられたせいではあるのだろうが、聡子があまりに妻という役割に没頭しているのもどこか狂っているように思わせる部分もこの映画にはある。

聡子は、最後字幕で、戦時中に消息を絶ち、しかしその死亡届に偽装がみられる優作を追って、きっと優作が生きて逃れているはずのアメリカに旅立った、と説明される。聡子は、まだ良妻賢母の夢を見ているのだろうか? それとも夫の言った通り戦争で焼け果て負けた日本の状況を受け入れ、現実を知ったうえで、なおかつ愛に生きようとしているのか?

しかし、現実を知ったのならば聡子は優作のもとに旅立つ必要などないはずだ。現実とは良妻賢母の思想のように整っておらず、夫は大義のために妻を捨て、別の女を愛するからだ。ギリシア神話のゼウスのように。現実は、荒唐無稽なのだ。

社会の重圧

映画「リグレッション(原題:Regression)」を観た。

この映画は2015年のスペイン・カナダ合作映画で、映画のジャンルはサスペンスだ。

この映画の監督は、「アザーズ」「海を飛ぶ夢」などの映画を作った名匠アレハンドロ・アメナーバルだ。

この映画は、事実に着想を得て作られた映画だ。この映画の舞台は、1990年のアメリカのミネソタ州ホイヤーだ。しかし、この映画はどこの世界でも起こりえるかもしれない事実を描いた映画だ。

この映画の中心となるのは、ブルース・ケナーという刑事だ。ブルースは仕事をしていて、ある事件に遭遇する。それは、アンジェラという女性が父親に性的暴行を受けたという訴えだ。父親はあっさりとその事実を警察に認めて、捕まる。

この映画のテーマとなっているのは、心理学的な集団ヒステリーだ。催眠により精神が退行することにより虚偽の記憶が捏造され、その記憶に人々が翻弄される。その記憶の捏造のきっかけは、いわばストレスと日常の意図せぬ刷り込みからだ。

アンジェラの父親のジョン・グレイという男は、負け犬の男だ。いわゆる、だらしない父親で家庭も不安定だった男だ。アンジェラの母は、すでに死んでいる。アンジェラの死は家族に当然のように精神的ショックを与えている。

アンジェラには兄がいる。兄の名はロイという。ロイはゲイだ。教会は、ロイのことをソドムの罪を負った男と言う。ソドムの罪とは、男色や獣姦などのことだ。教会はゲイの人を、罪びととして断罪していた。

ロイを罪びととして断罪しているように、アンジェラを保護している教会はいわゆる善ではない。ゲイの人を受け入れることができないような教会は、悩める者を救うどころか、悩んでいる者を追い込む集団となっている。

教会以外にも、日常の風景が人を追い込むものになっているという現象がこの映画ではみられる。それは商品の広告だ。日常的に刷り込まれる広告のイメージが、人々に脅迫的に迫ってきているそんな様子がこの映画では描かれる。

集団ヒステリーを可能にするのは教会や広告などの日常に氾濫するイメージ、言説だ。さらにそのイメージと精神的状態が、集団ヒステリーを引き起こす。世の中に出回っている成功のイメージなども、集団ヒステリーを引き起こす一因となる。

日常的に刷り込まれる言葉やイメージが、人に悪夢や間違った記憶を植え付ける。それが、この映画のトリックへの答えだ。日常のその言葉やイメージがどれだけ虚偽に満ちているものでも、それを真実と信じてしまった人と、その人の、実はなんの間違いのない行為とのギャップはぬぐえない。そのギャップが虚偽の記憶を生み出す。

例えばロイのゲイの事実だ。ゲイであることはなんら間違ったことではない。ただ本人には、社会的な通念が襲い掛かる。90年代は、まだLGBTQの運動は盛んではなかった。そのような状態で、ゲイの孤独な少年に襲い掛かるプレッシャーは大きなものだ。それは時に、人を死にまで追いやるかもしれない現象だ。

事実と社会的通念が不一致であることにより、多くの抑圧が生まれる。ありのままの事実を、ありのままの人間を受け入れることができれば、アンジェラのように社会の重圧に戦いを挑まれることはないのではないか? 社会の誤った重圧は人を苦しめるのだ。

信教の自由

映画「アレクサンドリア(原題:Agora)」を観た。

この映画は2009年のスペイン映画で、映画のジャンルは歴史ドラマ映画だ。

この映画の舞台は、紀元391年の頃のローマ帝国支配下にあるエジプトのアレクサンドリアだ。この映画の主要な登場人物は、3人いる。一人は天文学者のヒュパティア。ヒュパティアの生徒で後のアレクサンドリアの長官となるオレステス。そしてヒュパティアの奴隷であり後に奴隷から解放されるダオスだ。

この映画の背景には異教徒と、キリスト教徒、そしてキリスト教徒が新約聖書を信仰するのに対して旧約聖書を信仰するユダヤ教徒の対立がある。ローマ帝国キリスト教からして異教徒の宗教、つまり様々な神を信じる宗教を持つ。

ローマ帝国の宗教を異教徒と言ってしまうのは、キリスト教からの視点が中心になっていることが原因だ。なぜならローマ帝国多神教を中心軸として見れば、キリスト教こそ新興宗教の異教であるということになるからだ。

この映画では、キリスト教が勢力を拡大していく様子が描かれる。キリスト教徒とユダヤ教徒ローマ帝国の信仰する多神教の宗教を排除して、その次にキリスト教徒がユダヤ教徒を排除する。

そしてそのキリスト教による異教徒の排除と並行して描かれるのが、天文学者ヒュパティアの学者としての発見の物語だ。ヒュパティアは地球が太陽の周りを楕円形を描いて公転していることを、映画の最後で突き止める。

地球が太陽の周りを公転しているという事実を最初に言い出したのは、ヒュパティアよりも先の学者だったが、その公転の軌道が楕円形であることを発見したのはヒュパティアだった。映画の中で、ヒュパティアは砂の上に楕円の現在も書籍などで知られる描き方で楕円を描き、太陽の公転の軌道を示す。

地位的に見ると、ヒュパティアは上流階級の身分だ。オレステスも同じく上流階級だ。そしてダオスは前述したように奴隷だ。そしてキリスト教の勢力の拡大に乗じてダオスは奴隷の身分から解放されて、キリスト教の兵士のような役割に就くことになる。

ダオスはキリスト教の勢力拡大に乗じて、奴隷の身分から解放される。それはその他の奴隷にとってもそうだった。ローマの多神教の街を、キリスト教徒がのっとっていく。するとローマの多神教が理由になっていた社会上でのランク付けが、その力を弱めることになる。

ヒュパティアはローマの多神教の体制の下で、学者として生活をしていたので異教徒だ。オレステスキリスト教が勢力を拡大してくことによってキリスト教の洗礼を受けるが、元は異教徒であった。ダオスはキリスト教の勢力拡大に乗じる形でキリスト教徒になる。

宗教が社会的地位を決める。学者は宗教を越えて、社会的に優位な地位に立つと考えられる。しかしやがて時が来れば、キリスト教徒でないものは難癖をつけられて殺される。それがこのアレクサンドリアの在り方だった。

多くの神を信仰するローマの神と、一人の神を信仰するユダヤ教と、特にキリストを信仰するキリスト教徒では宗教的に対立してしまう。互いに互いを排除してしまう。多神教が気に入らない、ユダヤとキリストの神の信者たち。旧約聖書聖典とするユダヤ教徒と、新約聖書聖典とするキリスト教徒。その溝は、映画中深まっていく。

この溝は、歴史的な失敗だろう。誰もが信じるものを、自由に決めることができる。それが人を人として尊重する社会の在り方だ。その在り方に最後まで誠実なのはヒュパティアだ。ヒュパティアは人としての尊厳を誇示しながら死んでいく。しかし、それは悲劇でもあるのだが、だがヒュパティアの勝利でもある。