国を所有したい、全てを所有したい、という病

映画「スイート・イースト 不思議の国のリリアン(原題:The Sweet East)」を観た。

この映画は2023年のアメリカ映画で、映画のジャンルは美少女冒険映画だ。

この映画の主人公は、サウスカロライナの女子高校生のリリアンだ。

リリアンは、友達にも、恋人にも、なんだか馴染むことができない少女だ。その、リリアンが、この映画「スイート・イースト」を通じて、様々な過激派に知らない間に先入しては、逃げ出すのが、この映画の展開だ。

リリアンが、わけがわからないまま入り込む集団は、最初は左翼の過激派だが、その後は、右翼の過激派の集団に入り込むことになる。

アメリカ合衆国には様々な右翼の過激派が存在する。白人至上主義、ネオナチ、加速主義、白人の国の建国を目指す者、極右、男性至上主義、超国家主義女性嫌悪、西側の狂信的排外主義者、無知で未組織な暴力、反政府軍グループ、陰謀論促進者、暴力の促進者、黙示録のイデオロギー、至上主義者の国の建国、殺人者、爆弾陰謀者、テロリズム、混沌、近代社会の崩壊による白人国家の設立、第二次内戦提唱者、政府の転覆、専制政治の了解、リバタリアニズム反ユダヤ主義、過激派の理論、移民とLGBTQ+コミュニティーを標的とする憎しみに満ちた公のデモンストレーションへの参加、ホロコーストの否定、人種的同種の社会、プロパカンダの配布、多文化・多様性の否定、パプリック・アートの破壊、白人国家主義のメッセージの拡散、人種と文化の同質性のビジョンが、様々な右派の組織の目的とするものだ。

この過激派と呼ばれる右派の特徴は、白人男性至上主義の白人人種による軍事的独裁を示しているのかもしれない。これらの右派の人たちを動員するのが、アメリカ大統領のドナルド・トランプだ。

ドナルド・トランプは白人で男性で独裁者で女性を侮蔑しゲイを嫌う。ドナルド・トランプは、上記の右派過激派のアイコンであり、ドナルド・トランプは、彼らの暴力性を利用して、アメリカの国会議事堂を襲撃した。

そのドナルド・トランプを支持するのが、日本の首相の高市早苗だ。高市早苗は、排外主義的で中国を嫌うが、それをドナルド・トランプに非難されて、立場がないというのが、日本の自立性のない外交の帰結かもしれない。

この映画「スイート・イースト」の主人公のリリアンは、女性だ。リリアンがロード・ムービー的に入り込む右派の組織は、基本的に女性嫌悪だ。

リリアンが辿り着く組織の中には、右派の白人至上主義者に嫌われるムスリムのグループもある。ムスリムに対する差別が根強くあるのが世界だが、そのムスリムの人たちは女性にとっては差別主義者だ。

ムスリムの社会は、基本的に女性を男性の下位に置く。ムスリムの世界に入り込んだリリアンは、男性にとっては敵だ。その集団のムスリムの男性にとっては、女性は社会的体裁を繕うための道具に過ぎない。

この映画は、リリアンの成長が描かれる青春映画でもある。最初は、男たちの女性嫌悪がわからずに、ゲイの右派のインテリを性的に誘惑するリリアンだが、男性の真の見分け方がわかるのがこの映画のラストかもしれない。

カッコよくて、インテリで、紳士で、セックスをしたがらず、スマートで、経済的に安定していて、力強くも見える…そんな男性像をリリアンは思い描いているのだが、その男性像には落とし穴があることに気付くのが、この映画「スイート・イースト」でのリリアンの成長かもしれない。

カッコよくて、インテリで、スマートなら、過激派の女性嫌悪者でも良いのか⁇ リリアンは、最初は、これらの集団の集結する理由がわからないので、のほほーんと、ただ性欲に身を任せて思考している。

物事を考える1番最初に性欲が来ること。それは、フロイト的なリビドーの捉え方だろう。性欲1番の考え方の男の帰結は、映画「プロミシング・ヤング・ウーマン」に描かれている。性欲第一の男は、女性に裁かれるというのが、映画「プロミシング・ヤング・ウーマン」のラストだ。

性欲を物事の最初に持ってきてしまうのが、リビドーに突き動かされる若さかもしれない。その若さは、無思考で葛藤なしで生きれば、40歳代くらいまで続くものかもしれない。浮気や不倫が終わるのは、60歳代くらいかもしれないが。

リリアンは、ハンサムなトロイという青年とセックスした後、トロイにコンドームに入った精子を見せられてこう言われる。「俺が、有名になったら、高く売れるかもよ」と。それを聞いたリリアンは、ひく。

リリアンは、外見が良くても頭空っぽな男を侮蔑しているのがわかる。子供が欲しくて仕方ない人に、精子を売りつける下世話な男。子供が欲しくて仕方ない人が、地位で精子を選ぶことの愚劣さと、そのような人たちへのさげずみと差別。「俺は、みんなより偉い」という自惚れ。

リリアンは、ハンサムでプラス頭の良い男も見限る。ゲイで、インテリでも、私とならセックスするはず。だが、インテリでも白人男性至上主義者ならば意味がない。その人は、リリアンを尊敬しているわけではないから。また、リリアンは、若さと容姿の使い方を間違えている。

この映画は、ロード・ムービーだと書いた。この映画は、少女が、大人の女性に成長していく過程を描いた、青春成長ロード・ムービーだ。リリアンは、アンチ・女性の集団を通過するいわば通過儀礼を何度も経て成長していく。

先にあげた、右派の過激派とムスリム系の過激派は、女性を尊敬していないことで共通している。映画「スイート・イースト」の冒頭に出てくる左派のプチ過激派の集団の男も、女性を尊敬していない。

女性を尊敬していないのは、トロイも同じだ。だが、トロイたちは、容姿がよくて、リリアンの性欲を掻き立てる。リリアンは、精神は子供だが、肉体は女性になっている。だから、肉体を精神性によりセルフ・コントロールできない。

この映画「スイート・イースト」は、ミュージック・ビデオのような映画で、明らかに若者向けに作られている。だから、ある程度成長して一角の人間になった人には、この映画は焦ったく映るかもしれない。

朝日新書の「ルポ 過労シニア」には、60歳を超えてもなお、女性を物だと思い、女性の取り合いをして、殴り合いをする男が登場する。だから、歳をとっても人間は、成長できないのかもしれない、が。

西洋文化が掲げる啓蒙や市民化を、受け入れて、私有財産にこだわりだし、女性が男の財産であると思い込んだ男性は、もしかしたら、自分の思い込みに無自覚なのかもしれない。女性は、男性の財産⁇ 白人男性至上主義だ。

白人男性至上主義は、社会に根深くあり、男は物を所有するために仕事をする。この場合、物には女性も含まれる。啓蒙や市民化は、所有を認めるが、所有が所有者も当然被所有者も苦しめるのならば、白人男性至上主義の理想にある白人至上主義の国の確立という所有は、白人男性至上主義者を生涯苦しめるだろう。

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映画「スイート・イースト 不思議の国のリリアン」 53m05s 映画に出るため質問を受けるリリアン ALBATROS

 

https://extremism.gwu.edu/explainers

凍った川が人を繋ぎ、時に人を救う

映画「フローズン・リバー(原題:Frozen River)」を観た。

この映画は2008年のアメリカ合衆国の映画で、映画のジャンルは犯罪ドラマだ。

この映画は、簡単に言ってしまうと、女性貧困映画だ。女性が男から離れて貧困に陥り、家族が生活に苦しむため、犯罪に走る、というのが、この映画「フローズン・リバー」の展開だ。

この映画の舞台は、アメリカ合衆国のニューヨーク北部とカナダとの国境辺りだ。この映画には、ニューヨークの北部とカナダのニューヨークとの隣接部のカナダの南部に住む、イロコイ連合の部族の中のモホーク族たちが登場する。

そのモホーク族の女性、ライラがこの映画の2人の女性主人公のうちの1人だ。ライラは、夫を事故で失い、夫との間に生まれた赤ん坊を夫の家族に取り上げられて、小さなトレーラー・ハウスに暮らしている、定職を持たない女性だ。

ライラは、安定した収入が貰える定職がないので、密輸業者の仕事を手伝っている。ライラは、密輸組織の一員というよりは、お金に困って簡単な手伝いをしているという状態だ。ライラの密輸業者での仕事は、密輸品を運ぶ運転手だ。

密輸品と言っても、ライラが運ぶのは、人間だ。映画では、アジアから来た事情があって、アジアに住めないと思われるアジア人を、ライラは、カナダからアメリカ合衆国密入国させている。

その密入国の手伝いに必要なのは、車の後ろに人が2人ほど入れるトランクがある車だ。ライラは、そのトランクのある車を手に入れて密入国の仕事の手伝いをしたいと思っているが、モホークの車屋さんは、モホーク族のライラが密輸という危険で違法な仕事をしているのを知っているので、ライラには車を売ってくれない。それが、モホーク族のライラへの一種の手助けだ。

ライラは、部族の人から堅気の仕事を頼まれるが、ライラは部族の仕事に馴染めない。堅気の仕事と言っても、ビンゴくじの賭けの仕事で、お金のない人から余計にお金を掠め取るような仕事で、ライラはその仕事が好きではない。

またライラは、夫を失い、子供を夫の家族に取られたショックで、昼間は働かずにトレーラーハウスで寝ている。モホーク族の人たちは、そんなライラのために、ライラでも容易にできそうな、ビンゴくじの仕事を割り当てたのかもしれない。

さて、ライラは、お金が良い密輸業の仕事をしたいので、トランクのついた車が欲しい。そこでライラは、レイ・エディという女性の夫のトロイの所有する車が置き去りにされているのを見つけ、その車を盗る。その車があれば、密輸業の仕事ができるからだ。

レイは、そのトロイの車を探していて、その車を、ライラが部族の人たちに与えられて働いている仕事のビンゴくじの仕事の抽選場で見つける。レイの夫のトロイは、ギャンブルが好きで、昼食代をビンゴくじに遣っていたのをレイが知っていたからだ。

レイは、夫がいるかもしれないと思ってビンゴくじの抽選場にやって来た。そこで、レイは、夫のトロイの車に、見知らぬ女性のライラが乗っているのを見つける。レイは、アメリカ合衆国の白人女性。ライラは、アメリカ合衆国とカナダの居留地に住むアメリカ先住民の女性だ。つまり、2人は、異なる法律を持つ世界に住んでいる。

密輸入はいけないことだが、モホーク族の堅気の人たちは、それを好ましく思ってはいないが、その仕事を止めない。しかし、居留地を出て、アメリカ合衆国の法律が適用されると、密輸業者は捕まって、有罪になる。

アメリカ合衆国には、アメリカ先住民たちの人たちが住む居留地と呼ばれる居住地域がある。もともと、アメリカ合衆国は、先住民たちが住んでいた、そこに入植して来たのが、ヨーロッパの白人たちだ。

メイフラワー号に乗って先住民の土地にやってきた白人たちは、先住民たちを殺し、先住民たちの生活に欠かせないバッファローを大量に殺したりして、先住民の人たちが住む土地を減らしていった。そして、最終的に、アメリカ合衆国を先住民の土地に建国した白人たちは、先住民たちを肥沃ではなく、生活するのには厳しい土地に閉じ込めた。それが、今先住民たちの土地となっている居留地だ。その居留地では、アメリカ合衆国の警察がおらず、部族警察がいる。そして、居留地は、アメリカ合衆国の内部にあることに形上はなっているが、居留地では、アメリカ合衆国の法律は通用しない。

アメリカ合衆国は、悪い言い方をすると、家父長制を取るキリスト教原理主義がある白人至上主義の国だ。それに対して、アメリカ先住民たちはもともとは、家母長制を取っている人たちもおり、白人社会のように物や人を所有するというよりは、自然と共存する形をとっていた。アメリカ先住民には、所有するという感覚はない。

白人たちが取る、物を持つこと=所有から成り立つ資本主義は、常に“持っていること”を人に意識させる。だから、資本主義における社会は、常に欠乏を抱えて「もっと欲しい、もっと欲しい」と人々を経済に動員する。

それに対して、アメリカ先住民たちは感謝を社会の動因としている。自然への畏怖、自然への感謝が、アメリカ先住民たちの心にはある。それは、欠乏を抱えて常に物や人を欲しがる白人たちが作り出した資本主義社会とは、異なるものだ。

白人社会の文化人類学者のマルセル・モースは、「贈与論」という本を書いた。それは、非白人圏の白人たちから見て原始的な生活をしている人たちの、生活習慣について記録・分析された本だ。

その原始的な人たちの間には、物を贈与して、贈与すればするほど、その贈与をする人物は、偉大な人とされるという習慣があった。その、贈与は見返りを求めるというよりは、自分の器を示す物である。ただ、お互いに贈与し合う。だが、見返りは基本的に度外視している。

アメリカ先住民たちの感謝の経済は、マルセル・モースの観察した贈与の世界と似ているかもしれない。感謝の経済について触れてある本に、Robin Wall Kimmerer の “Braiding Sweetgrass -Indigenous Wisdom, Scientific Knowledge and the Teaching of Plants” (直訳:“スイート・グラス(甘味があり飼料とされる草)を三つ編みにする -現地民の知恵、科学的な知識、そして草木の教え“)がある。その中で、先に指摘した、欠乏の資本主義経済への言及があり、そしてこの本の前半は、感謝の気持ちを作り出す“草木の教え”について割かれている。

この映画「フローズン・リバー」は、他人種の交流の物語であるとも観ることができる。アメリカ合衆国の白人、アメリカ先住民、中国人⁇ 、パキスタン人⁇ 。そして、そこに共通するのは、女性は男より下位に置かれて、子供を産み育てるということだ。

家母長制を取るはずの、アメリカ先住民も、シビライゼーション(市民化=物を所有して、市民となる知識を持つこと)されて、感謝の経済を忘れてしまっているのかもしれない。

女性の貧困が、この映画「フローズン・リバー」の根底にある。社会的地位の下位に位置して、まともな仕事が持てない女性たち。その姿を描いたのが、この映画「フローズン・リバー」だ。映画中、人種を越えて女性たちが見せる共感が、この映画の流れをスムーズにしているのは、言うまでもなく、このスムーズさを、女性の暗黙の繋がりと呼んでいいと思う。

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フローズン・リバー 2s おそらくセント・ローレンス川 角川映画

内面を解放すること

映画「リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界(原題:Lee)」と映画「JOIKA 美と狂気のバレリーナ(原題:Joika)」を観た。

前者、映画「リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界」は、2023年のイギリス映画で、映画のジャンルは第2次世界大戦ドラマ映画だ。

後者、映画「JOIKA 美と狂気のバレリーナ」は、2023年のイギリス・ニュージーランド映画で、映画のジャンルはスパルタ・バレエ・ドラマ映画だ。

前者の映画も後者の映画も、主人公は女性だ。前者の映画の主人公はリー・ミラーと言う。後者の映画の主人公はジョイ・ウーマックと言う。リーが主人公の前者の映画の方は、1945年頃が主な舞台だ。ジョイ=ジョイカが主人公の後者の映画は、2012年頃が舞台だ。

つまり、この前者の映画「リー」と後者の映画「JOIKA」は、時代背景が違う。時代が違うと何が変わってくるかというと、世間の女性の扱い方が変わってくる。そして、この2つの映画の共通点は、女性が苦境に置かれているところだ。

前者の映画「リー」の主人公のリーは、酒とセックスと写真が武器の女性だ。後者の映画の「JOIKA」の主人公のジョイカは、バレエを踊る技術が武器の女性だ。リーは男性をうまく利用するが、ジョイカはリーよりは男から解放されている。が、しかし、ジョイカも結婚を、自分の仕事のために利用している。近代の男たちが、そうしたように。

リーは、まだ少女の時に、ユダヤ人男性にレイプされて子供を産んでいる。その子供アントニーが、リーの話を聴く形式で物語が進んでいくのが、映画「リー」だ。ジョイカは、アメリカ合衆国出身でロシアのバレエ団のボリショイ・バレエ団に入るために、ロシア人のバレエ・ダンサーと結婚をする。リーはレイプされたが、ジョイカは無言の社会的強制の中で一応自分から結婚を選択している。

リーのレイプは過去のものであり、ジョイカの圧力による結婚も過去のものであると言えるか? 答えは、ノーだ。今でもレイプ事件は起こるし、社会的圧力による結婚は今でも存在する。

例えば、ジェフリー・エプステインの例。ジェフリー・エプステインは、未成年の少女に売春をさせていたわけだが、その後、大人となった少女たちは、性被害を今現在告白している。つまり、過去にジェフリー・エプステインによって行われた未成年の少女の売春は、被害者の精神に傷を残しており、それはレイプであったと言っても良いだろう。レイプ事件は、今現在も存在することの現れだ。

例えば、今現在の結婚を解消する女性たちの存在や、結婚に不満を抱える女性たちの存在。結婚に不快感を持っていても結婚を続けるのは、結婚が社会的強制であることの証明でもある。「まだ未練があるから」と言うかもしれないが、その未練は女性の経済力が低いことの弁明で、「今離婚したら貧困に陥るんだよ‼︎ 」という女性の本心の取り繕いが、女性に「未練がある」と言わせるのかのしれない。

レイプと強制的結婚。リーについての映画と、ジョイカについての映画。女性が生きることの困難さを描いているのが、この2つの映画「リー」と「ジョイカ」だと考えることもできる。つまり、女性は男性に優しくされもするが、それは女性の意思とは関係のないところで行われることがあると言うことだ。

自分の意思とは関係のないところで。例えば、自分の意思とは関係のないところで、自分の印象が形成されてしまうこと。人は、見られる存在だ。それは、女性だけでなく、男性も同じことだ。印象を操作することは、難しく、例えば、話し方や服装や経歴等で、その人の印象は決定されて、その印象により他人は話しかけてくる。

印象は、人の属性を決定する。その印象を操作しようとしても、その印象操作が成功するとは限らず、印象操作の結果のはずが、その印象操作の意図は違った受け取り方をされることもある。自分が、真摯に接しているつもりでも、嘘つき呼ばわりされたりするとか。

印象操作を阻害するものとして、人の先入観があるとしたい。そして、その先入観を利用するのが印象操作だ。相手の先入観を予測して、相手の先入観を利用して、自分の印象を他人に印象づける。それが、印象操作の一例だと言える。

印象操作は、他人への強制にならない程度のセルフ・コントロールのうちには入るのかもしれない。セルフ・コントロールは重要だ。自分の印象を操作することは、自分の意思を伝えるのと等しく、自分の希望を伝えることだ。

もう使えなくなった自己同一性を着せられるのは、印象操作の失敗に当たる。セルフ・コントロールと自己同一性。セルフ・コントロールにより、古くなった自己同一性から脱して、自分の望むその時々の自分になる。その時に、他人の持つ自分への印象が、重要になってくる。

他人の中の自分の印象を推し量る行為と、印象操作は密接に関わりあっている。他人が自分をどう捉えているかをどう予測して行動するかで、その人のセルフ・コントロールの結果は変わってくる。

自分が望む自分として、自分は他人に受け入れられているかどうか? その結果は、時として人の中に葛藤をもたらす。「なんで他人は、自分のことを淫売と思うのか⁇ 」「なんで、私は拒絶されるのか⁇ 」など。それらと他人が自分に持つ印象は深い関わりがあり、印象により人の精神は掻き乱されたりする。

印象ではなくて、他人の本質を見抜くことは、果たして可能だろうか⁇ 直観さえも、印象に左右されているのが、常ではないだろうか? そして、その印象を作り出す、他人が自分に対して持つ先入観は、例えば家父長制と呼ばれる先入観の集まりによって規定される。

家父長制は、主に家父長制支持者の振る舞いによって形成されてきた振る舞いによる構築物だ。振る舞いに意味を与えて、その振る舞いが意味を示しだし、家父長制を作る振る舞いによって、家父長制の支配は維持される。

振る舞いの問題。振る舞いが意味と一緒になった時に、家父長制という意味の集合は可能になる。振る舞いは意味を持ち、振る舞いの意味を読み取った人は印象を受け取り、その印象を与える人の人格が規定される。

しかし、振る舞いが与える意味は固定的であるが、人の与えたい印象は常に変化する。その振る舞いの固定性と、人の与えたい印象の流動性が、ぶつかり合うときに、そこに葛藤が生まれて、差別が生じる。

振る舞いの固定性が、家父長制だと言っていい。振る舞いの固定性の中に生きる人は、今現在の他人の希望を伝えるはずの印象を誤解することがある。つまり、家父長制の価値観を内面化した人は、相手の印象を間違って読み取ることになる。それにより、葛藤や差別が生じる。

振る舞いの解釈の固定性が、先入観を作り出し、家父長制を維持する。となると、私と他人は、どうあるべきなのか? その答えは、簡単だ。常に内面を更新していくことだ。固定性は、思考停止のアラームであり、固定性を避けて私と他人は生きるのだ。

そのために必要なのは、先入観から自由な思考だ。リーとジョイカの人生の周りには、先入観が渦巻いている。先入観が誤解を生み、差別を生み出す。リーとジョイカを救うのは、先入観から解放された思考だ。

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Lee 

https://www.digitalspy.com/movies/a62771481/lee-kate-winslet-available-sky-cinema/

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Joika

https://www.videobuster.de/dvd-bluray-verleih/902738/joika

 

 

美と醜さと国家、そして多様性

映画「サブスタンス(原題:The Substance)」を観た。

この映画は2024年のイギリス・フランス合作映画で、映画のジャンルはホラー・スプラッター・エンターテイメントだ。

人は何かを見ると、心の中に感覚が生じる。その感覚は、人それぞれ違うもののようで、共通の感覚を引き起こすものがあるようにも感じる。その心の中の感覚は、直観のようなものであると同時に、人の経験が作り出したもののようにも感じる。

人の経験は、社会の力関係や、社会の秩序や、人々の間の議論が作り出したもののように感じる。そのような経験から作り出された感情には、美の感情があり、美の感情の直観の雛形があるようにも感じる。

美は、プラトンにより共和国を作るのには、不要だとされた。それは、美の不定形さに問題があるように感じる。それは、何が美かは人それぞれ違うからだ。だから、美を国を作る基準にしてはならない。

ならば、美とは、個々人を尊重するものであり、崇高な尊厳の一体化である国などの存在と対立するようにも思われる。つまり、美の存在は、アナーキーであるとも言える。美食がある、食の美は差別的で、うまいものとまずいものを区別して、うまいものを大量に食べることは、人に喜びをもたらす。大食の結果が、肥満であるとしてもだ。

この映画「サブスタンス」の主人公にとって、食の美とは、自分に喜びをもたらすものだ。彼女、エリザベス・スパークルが、体型の維持のために無理なダイエットをしているので、美食による喜びは、エリザベス=スーにとって過度に非常に重要なものだ。

ダイエットによる“美しい体”は、人々の“崇拝”“信仰”の理由になる。そこには、人の直感や経験によって作り出された美の共通項があり、美しい体は、大衆の理想とされて、大衆の人気を集める。

そして、その人気により、スターは満たされる。そこには、計り知れない自己肯定がある。憧れた自己肯定の充溢がそこにはある。そして、スターは、自己肯定のために、たとえば過剰なダイエットなどをして、過剰なストレスを溜めて、いつしか、大衆からの人気が、自分を苦しめるものになる。※“いつも空っぽで満たされない経済”

大衆がスターには必要だが、大衆はスターを苦しめる元凶でもある。そしてスターの怒りはどこに向かうのか⁈ スターの人気を利用する人もいる。他人の美を、自分の権威や権力や富の増大のために利用する人がいる。

その人にとって、スターは、手段であり、道具だ。巷には、たとえばモデルという小さなスターがいる。その小さなスターを利用して、富を築き上げる人がいる。

“モデルのようになりたい“と人は、活動をして、消費をする。モデルの着ている服が着たい。「モデル」のような知識が欲しい。スターの下に、さまざまな小さなスターが存在する。スターは、ギリシア神話の神々のように多数存在する。音楽のスター、ファッションのスター、テックのスター、小説のスター、学問のスター…。

端的にこの映画「サブスタンス」を表現するのならば、美を崇拝する金持ちやテレビや大衆への反逆だろう。この映画のラストは、美を巡る現実を苦々しく思っている人たちには、痛快に映るはずだ。

自分の生き血を、自分を苦しめる大衆やテレビ関係者、そしてお金持ちに浴びせかける行為は、この映画の主人公であるエリザベス・スパークル=スーにとっては、「ザマあみろ‼︎」という場面だ。エリザベスは、テレビで活躍する自分を思い描いて、過ごしてきた。

痩身ダイエットの番組のレギュラーを務めてきたエリザベスは、昔から思い描いた夢を一応の形で達成している。だが、エリザベスの夢は、まだそこで終わらなかった。エリザベスはスーという自分の分身を作り出すことで、今ある現状よりもさらにもっと多くの承認を求めるようになる。

エリザベスは、大衆から好かれたいと思っている。子供の頃から、大衆の承認を夢見てきたのが、エリザベスだ。ダイエットして痩せることで、美貌を磨いて、人々から多くの承認を得ようとするのがエリザベスだ。

ダイエットの運動のテレビ番組をしているエリザベスは、自分の生きている理由のそのままを、そのダイエットのテレビ番組という形で示している。痩身ダイエットは、エリザベスの希望通りの仕事のように思えるかもしれない。

ただ、痩身であるには、ダイエットが必要だし、人は老いるのが常だ。ダイエットは、自分の食欲に反するもので辛い。しかも、自分の美貌も歳と共に衰えていくと、エリザベスは特にテレビのプロデューサーに思い知らされる。

テレビのプロデューサーは、エリザベスの上司だ。会社の運営にエリザベスよりも近しいところにいる。そのテレビ・プロデューサーに、エリザベスはゴミのように扱われる。ただ、一方、自分の分身のスーの方は、どうか⁈ スーはエリザベスの分身だが、エリザベスより若い。

だから、熟練したダンスの技術を持っていて尚且つ若いスーには、テレビのプロデューサーはイチコロだ。つまり、このテレビのプロデューサーは、クソ野郎だ。老いという歳を取れば誰もが受け入れる事実を、テレビのプロデューサーは醜いものだと決めつける。

そして、そのテレビのプロデューサーが、“変身”したスーの、エリザベスの姿を見ると、当然のように、老いを否定する。そして、そのテレビ・プロデューサーに、スー=エリザベスの血が、噴きかかることは、映画を観ているものにとって、ある種の達成に映る。

自分のことを悪く言う奴を懲らしめた。そして、残るのは、美への執着のみで生きている、エリザベスの中の美と同時に醜いものに対する差別の心との対峙だ。そして、そこでエリザベス=スーは、美への執着のために、美という実は存在しないものになることになる。

美は、人間の中の観念であり、実際に実在するものではない。だから、美を追求すると、それは観念の話になり、実際の肉体の存在を超えていく。そして、スー=エリザベスは、肉体を超える。

肉体を超えるとは、人間ではもはやなくなることだ。美への執着により、人間ではない、人間の肉体を超えた、人間の観念上の存在にスー=エリザベスは、到達することになる。

美への執着が、醜さを超えて、つまり、醜くくないもの、つまり、人間ではないものになる。この映画「サブスタンス」が、語るのは、美というものは、人間の観念の創造物で、人間の肉体のことを指しているのではないということだ。

美を目指すことは、つまり、人間以外の何物かになるのに等しいと、この映画「サブスタンス」は、訴えかけてくるように思われる。美というのは、人々の主観で、人それぞれ美というものは違うという考えを否定して、何か崇高な一つの美というものがあり、それをみんなが求めていると思い込む勘違いが、美を巡る悲劇を生み出す。

そして、その悲劇を滑稽に描いたのが、この映画「サブスタンス」だ。もし美が国家と結びつくと、必然的に美の規範が生まれる。つまり、“これが正しい美”というものを国家は国民の統治に利用しようとする。すると、エリザベス=スーのような悲劇が生じる。美というものは、多様であって、人それぞれに美は存在する。そのように、美を多様性で捉えると、老いも、そこまで否定されるものではなくなると思われる。

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映画「サブスタンス」 10m22s エリザベスの背中 UNIVERSAL STUDIOS

社会通念から脱すること

映画「ラビット・ホール(原題:Rabbit Hole)」を観た。

この映画は2010年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画のタイトルのラビット・ホールとは、「不思議の国のアリス」で、アリスがウサギを追いかけて、不思議の国に入り込むことになるきっかけとなる、ウサギの巣穴(Rabbit Hole) への転落のことを示している。

映画「マトリックス」をご存知だろうか? 映画「マトリックス」は、SF映画で、人間が支配する世界が、コンピューターの支配する世界になってしまい、人間はそのコンピューターの支配する世界のバッテリーになっているという映画だ。

その映画「マトリックス」に、赤いカプセルと青いカプセル、つまりレッド・ピルとブルー・ピルというものが登場する。その、レッド・ピルとブルー・ピルのどちらを飲むかで、自分の人生の進路が決定される。

「コンピューターに支配された偽物の世界を生きたいのならば、その世界の中で生き続けるブルー・ピルを飲め。コンピューターに支配されたイリュージョンから覚醒してコンピューターの支配に反逆をして闘う生き方を選ぶならレッド・ピルを飲め。」

それが、映画「マトリックス」で、主人公のネオが、モーフィアスという人物から受ける言葉だ。モーフィアスは、お分かりの通りに、「不思議の国のアリス」の時計ウサギと同一の役割をしている。

現実の今見ている世界が実は偽装された世界で、本当の真の世界が実は他に存在するという話は、この世の中にはいくつかある。それは古代ギリシアプラトンから、現代の哲学者のロバート・ノージックに至るまで存在する。

例えば、プラトンプラトンは、人は、洞窟の中にいて、太陽の光で照らし出された実際のものを見ておらず、洞窟の中で影やイメージを見ているだけだと言った。つまり、人はブルー・ピルを飲んで、偽物の世界を生きていることになる。

例えば、荘子。夢を見ているのか、現実の世界を生きているのか区別がつかなくなる、という話が荘子にはある。現実だと思っていた世界が、実は夢だった。荘子胡蝶の夢だ。ここでも人は、ブルー・ピルを飲んで偽りの世界を生きている。

例えば、ルネ・デカルトデカルトは、“我思う故に我あり”と言ったとされる人だ。四角い塔も距離を置けば丸い塔に見える。つまり現実に見ているものが、本当かどうかわからない。つまり、人はブルー・ピルを飲んで偽りの世界を見ている可能性がある。

例えば、ヒラリー・パットナム。世の中には真の現実があるのだが、その真の現実は、多様な方法で描かれることがある。つまり、人は、ブルー・ピルを飲んで、様々な物事の見方のうちの、偽善に満ちた味方で世界を見ているのかもしれない。

まだ、Britannica の“red pill and blue pill -symbolism- ”の項目には、ロバート・ノージックの“体験の機械”という例が載っているが、それが何を意味するのかは、筆者はわからない。皆さんで考えてみてほしい。

さて、ここで、レッド・ピルを飲んで人々が見る真の世界が、実は差別に染められた仮初の真実だったらという例として、インセルと呼ばれる人たちの女性嫌悪についてあげたい。

インセルと呼ばれる人たちは、現実の世界にまかり通っている通念が、フェミニスト、つまり女性の権利を主張する人によって男性に都合の悪いものに変えられていると主張する。つまり、インセルの人たちにとって、フェミニズムは洗脳だ。

「僕たちインセルが肩身の狭い思いをするのは、家父長制的価値観が崩れてきたからであり、男性を尊敬する(つまりは、男尊女卑の)世界観が取り戻されなければならない」というのがインセルの人たちの考え方だ。

つまり、インセルと呼ばれる女性嫌悪をする人たちは、女性への想像力が欠けており、女性を人として認めていない。インセルは、女性差別を正当化しようとする人たちの集まりだ。インセルは、レイシスト(差別主義者)だと言うことができる。

インセルの人たちは、ピルを用いて表現をすることが多い。インセルの人たちのピルによる“覚醒”は、差別主義者への覚醒で、映画「マトリックス」で用いられた、レッド・ピルとブルー・ピルの使用法をご都合主義に捻じ曲げたものだ。

インセルの人たちの覚醒を魔に受けると、反革命保守主義が誕生することになる。インセルは、男性至上主義の集団で、家父長制の価値観を受け継ぐ人たちだ。これは、フェミニズム運動への反動だと考えることができる。

もともと、映画「マトリックス」を作った映画監督ラナ&リリー・ウォシャウスキー姉妹が、男性の体から女性の体になるため、女性ホルモンを多くする深い赤色のピルを飲んでいたことが、このレッド・ピルとブルー・ピルのもとになっている。

つまり、ウォシャウスキー兄弟が、ウォシャウスキー姉妹になるために飲んでいたピルは、自分が本来自認する性への覚醒=性転換を意味する。ウォシャウスキー姉妹にとっては、レッド・ピルを飲むことは、真の自分への覚醒だった。

さて、この覚醒譚が、この映画「ラビット・ホール」とどう関係してくるのか? 映画「マトリックス」はSF映画だが、映画「ラビット・ホール」は現実を生きる人間の姿を、現実に忠実に描いたものだ。

映画「ラビット・ホール」に登場するベッカとハウイーの夫婦は、自分の子供のダニーを自動車事故で失って、“ラビット・ホール”に落ちている。つまり、このベッカとハウイーの夫婦は“転落“をして、“うさぎの巣穴”に落ちている。

ただ、ベッカとハウイーの夫婦は、ただ転落しているのではなくて、うさぎの巣穴に落ちている。ウサギの巣穴と言えば、「不思議の国のアリス」のウサギの巣穴、つまり、不思議の国への入り口だ。

不思議の国とは何か? それは、“不思議” つまり、私たちが生きている世界の通念が通用しない世界のことだ。ベッカとハウイー夫婦は、息子のダニーが死ぬことにより、不思議の国に入ってしまう。

この場合の不思議の国とは、子供を望む夫婦には子供がいるという常識から外れてしまった状態のことで、ベッカとハウイーは突然息子のダニーを失うことにより、文字通り、ウサギの巣穴に転落している。

そして、ベッカとハウイーの夫婦は、子供を失った親たちが集まるセラピーに参加をするが、そこでも夫婦は不思議の国の住人となる。つまりベッカとハウイーは、セラピーから浮いてしまうのだ。

ベッカとハウイーが浮くのは、セラピーからだけではない、家族からも浮いてしまう。そのベッカとハウイーを、特にベッカを不思議の国から着地させるのは、息子のダニーを轢き殺したジェイソンという青年だ。

ベッカとハウイー同様、特にベッカ同様、ジェイソンも人を殺したことにより、不思議の国に入っている。そこでは、社会通念が覆されて、社会通念に生きることができない。しかし、社会は社会通念で回っている。

つまり、不思議の国に覚醒した者は、社会に着地しないと、再び社会を生きることはできない。ただ、元通りの生活に戻ることが、覚醒の結果だったら、覚醒をした意味がない。

真の現実を生きること、幻惑の運命の世界という通念を生きるのではなくて、現実のリアルな世界を生きる。常に何が真であるかを問いながら。それが覚醒した者の、生きる道ではないだろうか⁇

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映画「ラビット・ホール」 2m31s 庭で水やりをするベッカ OP EYE2,LLC

真に生きる

映画「スペンサー ダイアナの決意(原題:Spencer)」を観た。

この映画は2021年のドイツ・イギリス合作映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

王室は、国民に、飼われている。国民の中でも、中産階級が、特に国を養っている。唐突だが、この映画を観て、思いついたことが、これだ。ユナイデッド・キングダムの王室の、国の、国民の支配の、その原資であるものは、国民が、特に中産階級が作り出したものだ。

王室やスーパーリッチというのは、実は、国民に養ってもらっている。国民の個々には少ない収入からの税収や、国民の少ない給料からの出費が、王室やスーパーリッチの収入になっている。

個々の国民の少ない収入も、集めれば莫大なお金になる。そのお金で、贅沢な暮らしをさせてもらっているのが、王室でありスーパーリッチだ。王室とスーパーリッチは、その振る舞いが問われる。

国民の財の集合を受け取って、それを遣うのに相応しい人間か、国民は、常に王室やスーパーリッチをチェックしなければならない。だから、再分配しない、スーパーリッチや王室を、国民は告発していいのだ。

国民のお金を遣いながら、国民の告発を恐れる、スーパーリッチと王室。彼らの存在を正当化するのは、外国からの脅威だ。スーパーリッチや王室は、国外からの攻撃に対して対処できる軍隊を持っている。

スーパーリッチや王室が、軍隊で外国の脅威から守ってくれるという。そのため、王室とスーパーリッチの存在は、肯定される。戦争が、偽善に満ちたものであっても。各国のスーパーリッチや王室は、自己肯定のために、グルになって戦争をしているのかもしれない。

この映画「スペンサー ダイアナの決意」は、貴族階級の出身であるダイアナが、王室や貴族以外の階級の人にも、関心を示した人物であった事実に、支えられている。ダイアナは、王室にいた頃からチャリティー活動をしていたことが重要だ。

ダイアナは、産後鬱、低い自尊心、摂食障害を持ちながら、育児やチャリティー活動を行っていた。チャリティーにおいては、芸術の多様性、子供の問題、エイズ患者、地雷の禁止に取り組んだ。

ダイアナは、自分の子供のウィリアムとヘンリーを、病院や、ホームレス・シェルター、孤児院、ファースト・フード・レストランに連れて行った。それにより、ダイアナの子供のウィリアムとヘンリーは、人々の感情や、人々の生活の不安定さ、人々の貧苦、人々の希望や夢を理解したと言われている。

つまり、ダイアナは、王室の世界しか知らない人間に、自分の子供が育たないように、ウィリアムとヘンリーに、王室や貴族以外の人々の生活とその苦労とその希望を教えた。ダイアナは、そういう人だった。

ダイアナが子供の頃に遊んだ王室の人物に、プリンス・アンドリューがいる。プリンス・アンドリューは、最近、プリンスの称号は残ってはいるが、その他の称号を剥奪された。その理由は、少女買春だ。

アメリカ合衆国出身のバージニア・ロバーツ・ジュフリーは、未成年の頃から、ジェフリー・エプステインとそのパートナーのギレイン・マックスウェルに売春をさせられており、ジュフリーが未成年の時に、プリンス・アンドリューと、2回、性行為をさせられた。

エプステイン・ファイルを公開するかしないかが、最近の大きな問題になっている。そのエプステイン・ファイルには、買春の顧客の名前が載っていて、その中には、ドナルド・トランプの名もあるとされている。

エプステインは、ドナルド・トランプの住まいとして知られるマー・ア・ラゴでも、売春を行っていたとされる。エプステインは、未成年の売春を利用して、自分の権力を増大させていった。そのエプステインは、既に、刑務所で首吊り自殺で死んでいる。

ダイアナがいた王室とは、そういうところでもある。王室の維持する権威のイメージを利用するために、エプステインのような人物が近づいてくる。そのような、王室の中で、チャリティー活動をしていたのが、ダイアナだ。

このプリンス・アンドリューの例を挙げるだけでも、ダイアナがいかに人物として良い人だったかが、明確になってくる。ユナイデッド・キングダムの王室は、ダイアナに、王室や貴族以外の人々との架け橋になってくれることを期待していたのかもしれない。

なぜなら、王室は、国民に見捨てられたら、生きていけないからだ。ダイアナは、王室に必要な人物だった。王室は、国民に愛されていなかったら、その存在意義を失う。国民に愛されない王室は失墜する。

冒頭にも書いたが、王室やスーパーリッチとは、何百万という国民の個々には少ない収入の一部をまとめることによって、莫大な資産を築いている。王室やスーパーリッチは、いわば国民に寄生をしている。

きつくて・危険で・汚い仕事を、国民にやらせて、王室やスーパーリッチは、国民より綺麗に着飾り、品位を保つ。国民がきつくて・危険で・汚い仕事をやらなければ、王室やスーパーリッチは生活できないが、なぜだか国民より王室やスーパーリッチは、優雅な格好をしている。

ダイアナはファッション・アイコンでもあった。王室が、大衆の好みをリードする。「ダイアナが着ている服って素敵‼︎ 」それで、人々は、消費活動を行う。その物は、王室や貴族やスーパーリッチ以外の人が作り、それを中産階級が消費をして、その儲けは、各階級に落ちるが、儲けの多くを持っていくのは、王室や貴族やスーパーリッチだ。

映画中にダイアナは、ファッション・アイコン用の王室の服を捨てて、農場のカカシが着ていた服を着る。それは、今は、落ちぶれてしまったダイアナの生家のスペンサー家の象徴でもある。この映画で、カカシの存在は重要だ。

カカシは、落ちぶれたスペンサー家の印であり、それは、落ちぶれている人たち、中産階級や労働者やホームレスや孤児などの印でもある。そのカカシが着ていた服を着ることにより、ダイアナは王室の者であることから脱する。

そして、そのダイアナが向かうのは、ファースト・フード店だ。

この映画は、事実に基づいた寓話、とされている。そう、この映画は、寓話だ。王室・家父長制・結婚・不倫・産後鬱・低い自尊心・摂食障害などの問題を、映画というある種の寓話に仕立て上げている。

この映画「スペンサー ダイアナの決意」を、王室に馴染めないダイアナが、人間として自立して、どのように生きるべきかを見つけ出す、寓話の物語になっていることは、明確だ。

事実をどのように配置するかで、この映画「スペンサー ダイアナの決意」は寓話として成り立っている。真に多くの人々の幸福を望んだ生き方を、ダイアナが選び取るのが、この映画「スペンサー ダイアナの決意」だと言っていい。

その生き方は、この映画を見る限りは、ダイアナに生きるエネルギーを与えてくれるし、ダイアナの生活を充実したものにしてくれている様子だ。

真に生きることの一例が、この映画「スペンサー ダイアナの決意」にはある。そして、真に生きることの一例を、事実を元にして組み立てた寓話として、この映画は、描き出す。

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映画「スペンサー ダイアナの決意」 12m52s ダイアナとカカシ Komplizen Film

相手の立場に立つ

映画「ハウス・オブ・ダイナマイト(原題:A House of Dynamite)」を観た。

この映画は2025年のNetflixアメリカ映画で、映画のジャンルはサスペンス映画だ。

この映画は、北朝鮮原子力潜水艦からアメリカ合衆国に向けて、大陸間核弾頭ミサイルが発射されて、その核ミサイルがアメリカ合衆国のシカゴに着弾する寸前まで、を描いた映画だ。

この映画は、北朝鮮原子力潜水艦から大陸間弾道ミサイルが発射されて、それをアメリカ合衆国の軍が探知してから、始まる。潜水艦から発射されたミサイルは1発だけだ。そのミサイルは、シカゴに落ちることになる。

北朝鮮原子力潜水艦からの大陸間弾道核ミサイルが、アメリカ合衆国のシカゴに落ちる。発射から着弾までの時間は、20分より少ない(1.)。その間に、アメリカ合衆国市民はリストに名があればシェルターに避難をして、アメリカ合衆国大統領は世界の核保有国への反撃をするか考える。

映画中、アメリカ合衆国軍は、北朝鮮原子力潜水艦から発射された大陸間弾道ミサイルを、撃ち落とすのに失敗する。

だから、大陸間核弾頭ミサイルは、アメリカ合衆国のシカゴに落ちることになる。でも、シカゴの近くにある五大湖に落ちたら、核弾頭は起爆装置が働かない可能性もある。大陸間核弾頭は、シカゴの街に落ちるのか⁇

シカゴの街に核弾頭が落ちた場合、爆心地では1000万人が死亡して、その風下では100万人がさらに死亡する。政府軍関係者たちは、大陸間弾道核ミサイルの迎撃に失敗した後は、絶望的な状況に陥る。

アメリカ合衆国に大陸間核弾頭ミサイルが落ちると、世界核戦争の可能性が、出てくる。アメリカが、もし、北朝鮮だけでなく、ロシアや中国に、反撃として核攻撃をすることになった場合、ロシアや中国は、アメリカ合衆国の世界中にある軍事施設を攻撃するかもしれない。

東西冷戦の時代は、終わったことになっているが、未だに世界は、西側の資本主義国と東側の共産主義国に引き裂かれていることが、この映画「ハウス・オブ・ダイナマイト」を観ると伝わってくる。

シカゴに核弾頭が落ちることがわかった後に、人々は必死に逃げる。その表情は苦悩に満ちていて、娯楽を楽しんでいるアメリカ合衆国市民の安全な日常神話は、吹き飛ぶことになる。

アメリカ合衆国市民は、平和を愛している。平和がなければ、日常生活はない。しかし、停戦調停後もイスラエルからの虐殺がまだ続くパレスチナ虐殺に、アメリカ合衆国は、加担をしていた。

アメリカ合衆国は、イスラエルに支援をすることで、パレスチナの平和な日常を破壊をしてた。北朝鮮原子力潜水艦からの大陸間弾道ミサイルは、アメリカ合衆国によって平和な日常を壊されている人たちからの、アメリカ合衆国への反撃として捉えられてもおかしくはない。それほど、アメリカ合衆国は世界の平和を壊している。

世界の平和を壊しているのは、アメリカ合衆国だけではない、北朝鮮もそうだし、ロシア、中国、アフリカ大陸のソマリアエチオピアエリトリアスーダンにいる軍事組織もそうだし、ミャンマー国軍も、ミャンマーの平和を壊している。

アメリカ合衆国は、最近では、ベネズエラを行く漁師が乗った船を、麻薬を輸送する船だとして攻撃して、乗組員が死んでいる。アメリカ合衆国は、世界の平和を乱すのが得意だ。

アメリカ合衆国に攻撃される国は、日常の平和を壊されている。その崩壊が、もしアメリカ合衆国にやってきたら⁇ というのが、この映画「ハウス・オブ・ダイナマイト」という映画の描くところだ。

この映画「ハウス・オブ・ダイナマイト」を観た人は、アメリカ合衆国が行なっている軍事的混乱を反省するだろうか⁇ 遠く離れた国の混乱が、アメリカ合衆国が海外で生じさせている混乱が、もし、アメリカ合衆国にやってきたらどうなるか⁇

もし、アフガニスタンタリバンが、この映画「ハウス・オブ・ダイナマイト」を観たらどうなるだろうか⁇ タリバンは、アメリカ市民に同情するかもしれない。愚かなアメリカ政府の行いのために犠牲になるイノセントな人たちを見て。

アメリカ合衆国は、絶対的な正義だ。その正義が、攻撃をされる⁈ 馬鹿なおかしい。アメリカ合衆国が正義なのを、世界は理解をしていない‼︎ 」アメリカ合衆国の人たちは、この映画「ハウス・オブ・ダイヤモンド」を観た時に、未だにそう思うだろうか⁈

パレスチナ虐殺に対して抗議運動したアメリカ合衆国の人たち。ベトナム戦争に反対運動をしたアメリカ合衆国の人たち。こういった人たちの良心から、私たちは励まされることがある。それは、アメリカ合衆国の良いところだ。

アメリカ合衆国は、例えばベトナムで1950年代から1970年代にかけてに起こったベトナム戦争に参戦をした。ベトナム戦争当時のベトナムは、北は共産圏のロシア・中国が支援をして、南側は資本圏のアメリカ合衆国が支援をした。

アメリカ合衆国のアナーバー出身のバンド、ストゥージズには、“サーチ・アンド・デストロイ”という曲がある。これは、アメリカ合衆国が、ベトナムで行った、動くものは全て殺せという索敵殲滅作戦(サーチ・アンド・デストロイ)からとられた曲名だと思われる。

動くものは全て殺せ、とアメリカの軍人は上官から教えられて、それを実行した。動くものは全て殺せというのは、あらかじめ攻撃の前にこれから攻撃をするという通知を攻撃対象エリアのベトナム人にして、その通知後、そのエリアに残っている人間は、全て軍人だと見做して殺すというものだ。

つまり、ベトナム戦争は、南ベトナムの地方の農民も武器をとって、アメリカ合衆国の軍隊と戦うことになったので、ベトナム人の中の北からきたベトコンも、南に住むベトコンシンパも、ベトナムの農民も見分けがつかないので、まとめて殺してしまえ、というのがアメリカ合衆国のとった、サーチ・アンド・デストロイという作戦だ。

アメリカ合衆国の軍隊は、さらに、ベトナムでボディ・カウントをしていた。何人敵を殺したかで、戦闘の成績が決められた。とにかくベトナム人を殺せ、というのが、当時のベトナムアメリカ合衆国軍隊が行ったことだ。

索敵殲滅作戦に、ボディ・カウント、アメリカ合衆国の軍隊が、アメリカ合衆国の政府の指示により行った、アメリカ合衆国軍隊によるベトナム人の虐殺は、非常に非人道的で酷いものだ。その過去を持つベトナム人が。映画「ハウス・オブ・ダイヤモンド」を観たら、「アメリカ合衆国人たちも、私たちの気持ちがこれでわかるのかもしれない」と思うのだろうか⁇

パレスチナベトナムを思い出すまでもなく、日本には、アメリカ合衆国が作った原子爆弾が落とされた過去がある。戦争で、本土を攻撃されたことのないアメリカ合衆国と違い、日本各地にはアメリカ合衆国の戦闘機が爆弾を落として空襲を行った。

アメリカ合衆国の人たちが、この映画「ハウス・オブ・ダイナマイト」を観て、戦争の現実に覚醒することを、この映画の監督のキャスリン・ビグローは望んでいるのかもしれない。

 

1.Britannica "Strategic missiles"

-As each superpower produced, or was thought to produce, more ICBMs, military commanders became concerned about the relatively slow reaction times of their own ICBMs. The first step toward “rapid reaction” was the rapid loading of liquid fuels. Using improved pumps, the reaction time of the Titan I was reduced from over one hour to less than 20 minutes.