何か新しい真実が、古い規範を壊す時

映画「異端者の家(原題:Heretic)」を観た。

この映画は2024年のアメリカ・カナダ合作映画で、映画のジャンルはサイコ・スリラーだ。

この映画の主な登場人物は3人だ。その3人とは、モルモン教の宣教師の2人、シスター・パクストンとシスター・バーンズ。そして、バーンズとパクストンがモルモン教の勧誘のために訪れる家の主のリードだ。

この映画のテーマは、支配だ。支配とは、人を意のままに動かすことだ。この映画には、例えば、前述した登場人物を縛る支配が存在する。それは、モルモン教徒の信仰で、もう1つは家の主で家を支配しているリードだ。

人の行動を束縛して意のままに人を動かし仕事をさせること、それが支配だと言うことができる。モルモン教もリードのような家父長も、人を支配することで共通する。モルモン教徒は教義により人を支配する。リードは家父長制の規範により人を支配する。

この映画の中で、家父長であるリードは、自分の家に訪ねてきた女性2人をリードの支配下に置くべく、2人の信じているモルモン教の2人の中のイメージを覆そうとする。リードは、パクストンとバーンズの信仰を崩壊させようとする。

この映画の全体が、映画を観る者の”信仰”、つまり「既成概念」を壊すことが目的として存在する。そして、この映画の主な登場人物の3人のパクストンとバーンズとリードは、映画を観る者のための”生贄”だ。だが、これはあくまで映画だが。

既成概念が壊れた先には何があるのか⁇ それは、その既成概念が壊された者にとってまだ知られていない世界観だ。既成概念を壊すこと、つまり、「すでにその人の中に出来上がっている物事の関係性の見方や物事の本質と思っていること」を壊すことにより、その当人の中に新しい物事の関係性や本質を作り出すのが、この映画「異端者の家」だ。

つまり、この映画「異端者の家」は、支配のために人々が持つ既成概念を壊す役割をする。そして、その後にどんな既成概念、つまり支配の形態がやってくるかは、この映画「異端者の家」では、わかりやすく明らかにされない。

既成概念が壊れて次にやってくる新しい概念の集合は一体どんなものか⁇ この映画「異端者の家」では、そこまでは明示されない。だが、この映画「異端者の家」は宗教や音楽やハンバーグなどをコテンパンに叩きのめす。この映画で、叩きのめされるものは、とりあえずは新しい規範の良いことの欄には組み込まれないだろうことが予測される。

既成概念の崩壊。既成概念とは、その人が信じている物事全てだ。朝は早起きが良いとか、夜は早く寝るのが良いとか、新聞を読むのが良いとか、天気予報を見るとか、結婚しなければならないとか、子供を作らなければならないとか。

既成概念は、とにかく自分の信じているもの全てだと考えて良い。その既成概念が全て壊れた後に、一体何がやってくるのか⁇ ただ世界観がひっくり返るだけか⁇ 何か新しい概念が設立されるのか⁇ それともジル・ドゥルーズの言うリゾームが、心の中に出来上がるのか⁇

何が本当に必要かを、取捨選択する。そのためには、思考の軸となる規範が必要だ。この映画「異端者の家」では、カメラが逆さまにパクストンを移し、そして逆さまに移った映像から通常の重力による上下に戻るシーンがある。

ここから読み取れるのは、既成概念が壊れた後にやってくるのは、今まで信じていた規範の逆のことが正しいとされる世界観だということだ。今まで信じていたものが反転する⁇ つまり善が悪となり、悪が善となる⁇ 否、その程度で満足してはいけない。

善と悪がただ反転した世界観を持つだけでは、ただのバカの一つ覚えだ。善と悪を反転させるのは、第一段階かも知れないが、その次にはその反転した善悪の真偽を確かめていく必要がある。そして、そのためには、物事の本質を見極めれる視点が必要だ。

物事の本質を見極める視点は、どこから手に入れるか⁇ それは、自分の世界観を反転させた人物から得られる物もあるかもしれないが、それでは足りず、一角の本や論文等を読む必要が出てくるかもしれない。それは、学問かもしれない。

既成概念が壊れる→世界観が反転する→善が悪になり、悪が善になる→その反転した世界観が本物か自分で見極める力をつける→そのために例えば学問等が重要になる。既成概念が反転した後に、概念の集合を作り上げるのは自分だ。

繰り返しになるが、とすると自分が何を信じているかが問題となってくる。自分の新しく信じたものが、自分の中に新しい概念の集合を作り上げる。例えば、その時真実だと思われるものは、学問だったり、本だったり、論文だったり、音楽だったりする。

今まで信じていたものが覆る経験をした人は、どれくらいいるのだろうか⁇ 例えば、優しいと思っていた男性が、ただの暴力男だとわかったとか。同性愛に理解のある人だと思っていた人が、実はただの差別主義者だったりとか。

自分が入社した会社は、社会的貢献をしていると思っていたが、実はただのブラック企業だったとか。社会福祉施設は、従業員にとってはただの搾取工場だったとか。今まで、自分が信じてきたものが、バタンと倒れて、その向こうにドス黒いものが見える時。

そのような体験をした人は、一体どれくらいいるのだろうか⁇ 自分の信じていたものが崩れ(例えば、テレビのニュースが嘘だった、とか)、新しい何かをまた一から自分の中に作り上げること。そのためにエネルギーを使うこと。

信じている枠組みが崩れるのを、人は嫌う。なぜなら、信じている枠組みを作るのは、とてもエネルギーがいることだからだ。筆者も、大学時代に、人や読んだことによって、自分のそれまで持っていた世界観が崩れたことがある。そして、その崩れた世界観の再構築をしているのが、その後の人生だったと言っていいと思う。

自分の信じているものが崩れ去る。そして、そこに新しく信じるものを作り上げる。自分の信じていたものが、ドス黒くただ悪質なものだったと知った時に、そこには既に新しい世界観が生まれ始めていると言っていいと思う。

自分の信じていたものが、ドス黒く、それを信じていた自分もドス黒かったと気づいた時に、その人の中で変化が起こり始める。その変化のことを、革命と呼ぶのかもしれない。信じていたものが崩れ去り、そこに何か今まで見たことがないものが現れる。

新しい規範が、古い規範を壊すのかもしれない。この映画「異端者の家」は、信仰と無信心の両方ともを壊す。そして、何か新しいものを見つけ出している自分に、映画を観ている者を気づかさせる。

この映画「異端者の家」は、サイコスリラーという形をとって、映画を観る者の既成概念を壊し、自分の中にある真の価値観、つまり新しい価値観に気づかさせる。それは、一夫一妻の家父長制に反対だから、不倫をする程度のレベルではないことは明白だ。

Renaissance Italy: Burning of the Heretic

 

避難所としての家族と訣別、そして出会う

映画「モンタナの風に抱かれて(原題:The Horse Whisperer)」を観た。

この映画は1998年のアメリカ合衆国映画で、映画のジャンルは回復と癒しのドラマだ。

雑誌編集長でハード・ワーカーの女性アニー・マクリーンは、夫のロバートの間に娘のグレースがいる。マクリーン家は、リッチな家庭で、ニュー・ヨーク郊外に家を持ち、2人の子供のグレースは乗馬をしている。そして、その乗馬に関係する事故が起きる。

乗馬の事故で、一緒に乗馬をしていたグレースの友達のジュディスは亡くなり、グレースは右脚の膝から下を失う。家族は、失意の中に陥り、残されたグレースとグレースの両親のアニーとロバートのうちの特にアニーは、娘のグレースの回復のためには、乗馬の事故でグレースと共に傷ついた馬のピルグリムの治療が必要だと悟る。

そして、アニーは、娘のグレースと、娘の愛する事故で傷ついた馬のピルグリムを連れて、モンタナの馬の調教師の元にやってくる。その馬の調教師は、ロバート・レッドフォードが演じるトム・ブッカーという老年期に入った男性だ。

トムは、今はモンタナの牧場で兄弟家族と一緒に生活をしている。トムは、昔はチェロを弾く音大の学生だった女性と都会のシカゴで出会い結婚をしていた。トム自身は大学の工学部に通っていた。つまり、トムは”自然と科学はバッド・ミックス”と思っている理系の学生の中にいたことになる。

だが、この映画の中のトムは、自然と共存をしている。そして、トムは、都会の生活を若い頃にしていたことのある田舎の人、つまりトムは都会と田舎の中間人だ。トムは、自然と共存する自然と人間の中間者で、工学の勉強をしたエンジニアで科学と自然の間の中間者で、都会と田舎の中間者だ。だからトムは、対岸を結ぶことができる橋のような存在だ。トムはまた、インテリと無学者の間の中間者でもある。

トムは、この映画では、”橋”の役割をする。保田與重郎の本の「日本の橋」や、サイモンとガーファンクルの「明日にかける橋」を持ち出すまでもなく、橋というのは私たちの生活に欠かせない。橋がなければ、対岸に渡れない。だから橋は、架け橋だ。

人と人を繋ぐ、人と人の間の架け橋。それがこの映画「モンタナの風に抱かれて」のトム・ブッカーだ。対岸の間の川がどんなに荒れていても、橋があれば渡ることができる。そして、橋の中でも、川と対立しない橋もある。川の水が氾濫した時には水中に沈む沈下橋が、この映画「モンタナの風に抱かれて」でも登場する。

ベトナムアメリカ軍が攻め込み、ベトナム戦争が真っ只中で泥沼化している1969年に発売されたのが、前述したサイモンとガーファンクルの「Bridge Over Troubled Water(邦題:明日にかける橋)」だ。

その歌の歌詞では、君が困難に直面している時に、僕は荒れた川を越えて架かる橋になりたい、と歌われる。その橋により君を休めたいと、この歌の歌詞は歌う。例えば、僕はアメリカ合衆国北ベトナムを結ぶ架け橋になりたい、というのがこの歌だ。

世界中には、紛争が絶えない。ウクライナパレスチナミャンマースーダンコンゴ等、世界各地では、武力衝突が起こっている。それは、時に、その土地にある資源を手に入れて、権力と地位と金を手に入れたいという動機により起こる。

先の100人ほどのベネズエラ人が亡くなった、ベネズエラの大統領のニコラス・マドゥロアメリカ合衆国が襲撃して誘拐した事件でも、周到な根回しと同時に、武器や弾薬が使われているだろう。そうでなければ、1晩に100人ものベネズエラ人が亡くなったりしないだろう。

これらの紛争などによる対立の間に立つのが、中間人だと考えることもできる。例えば国連は、その中間者としての立場を保つことができているのか⁇ 国連が機能せずに、アメリカ合衆国やロシアの侵攻を止められないのが、今の世界だ。

この映画「モンタナの風に抱かれて」では、トム・ブッカーが、架け橋となる中間者だ。トムはまた、障碍者と健常者社会の間の中間者であり、冷めた夫婦仲を再考する手助けをする中間者でもある。

グレースは、乗馬中の事故により、自分に社会に失望をしている。健常者は、障碍者の気持ちと体力を見てみぬふりをする。また、夫婦仲が冷めているマクリーン夫婦を、夫婦間の関係の再考のために助けてくれる人もいない様子だ。

障害者や冷え切った夫婦仲を見て見ぬふりをしないのが、この映画の中間人であるトム・ブッカーだ。トムは、中間人だ。健常者と障碍者の中間、家族と孤立との中間、都会と田舎との中間、インテリと無学者の中間、自然と人間の中間、科学と自然の中間…。

中間人は、どっちもつかずで孤独なのかもしれないし、孤独でないのかもしれない。中間人は、ある共同体とある別の共同体の間を行ったり来たりできる。それには、例えば、勝ち組でありながら負け組の気持ちがわかるというようなことも必要だ。

要は、中間者は、対立する両方の集団の気持ちがわかる。だから、対立する2つの集団の間の橋渡しになることができる。中間者とは、対岸に位置する対立する者同士を結ぶ、つまり川に架かる橋だ。だから、中間者の役割は、重要だ。

この映画「モンタナの風に抱かれて」には、主に2つの家族が登場する。一方の家族は強く団結していて、他方の家族はバラバラになりかけている。家族が良いとか、悪いとかでいうならば、家族は共同体として、人助けをするなら、家族は尊い

モンタナのトム・ブッカーが住む家族は、団結が強い。一方、都会で仕事を持つ郊外暮らしのマクリーン家は、グレースが怪我をして障碍をもつことになり、絆が強くなっている家族のようだ。

ブッカー家は、この映画「モンタナの風に抱かれて」では、古いアメリカの理想の家族のように描かれる。すると、当然、そこでは女性は家庭の中に閉じ込められる存在にもなる。映画中に、ブッカー家の女性が、ポツリとそのような仄めかしをする。

つまり、ブッカー家も完璧ではないが、マクリーン家を助けられるくらいには絆が強くなっている。それは、ブッカー家に、グレースがやってくることによるものかもしれない。つまり、ブッカー家にとって、アニーとグレースは、家族という共同体にやってきた賓(まれびと)だと考えることができる。

つまり、グレースは、マクリーン家とブッカー家を一時的に救っているのだ。でもそれは、一時的だ。しかし、団結が一時的でもそれはとても重要だ。なぜなら、その団結は誰かを救っているからだ。

団結により救われるのは、誰か⁇ この映画では、映画の登場人物それぞれが、それぞれを救っている。そのために器として家族がある。この場合の家族は、人助けをするために集まっている繋がりの集団だ。

家父長制は、女性を差別することによって成り立ってきた。この映画でも、傷ついた女性が登場する。それは誰かというと、わかりやすく言えば、グレースだし、マリーであり、ブッカー家の女性だ。

誰かを救うためには、時として家族のような集団が必要なのかもしれない。だが、その集団が、誰かを苦しめて成り立っているのなら、つまり欧米の男根主義の白人至上主義の家父長制のようなものが、誰かを傷つけているならば、そのような習慣は改められなければならない。

映画「モンタナの風に抱かれて」 1m04s 走る馬の脚

 

“見えない川に、見えない橋を架ける“

映画「1975 そして世界はひっくり返った(原題:Breakdown:1975)」を観た。

この映画は2025年のアメリカ合衆国映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画は、1975年のアメリカ合衆国で何が起こったかと、1975年に至るアメリカの経緯について、アメリカ合衆国映画を通じて描いたドキュメンタリー映画だ。この映画の舞台は主にアメリカ合衆国で、この映画の主人公はアメリカ国民だ。

この映画「1975 そして世界はひっくり返った」に登場する映画は、例えば、「チャイナタウン」(1974)「大統領の陰謀」(1976)「狼たちの午後」(1975)「タクシードライバー」(1976)「狼よさらば」(1974)「スーパーフライ」(1972)「ステップフォード・ワイフ」(1975)「ナッシュビル」(1975)などの映画だ。

1975年はリチャード・ニクソンによる盗聴事件の“ウォーターゲート事件”に始まった。当時のアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが、民主党の事務所を盗聴していたのが発覚した。この事件は、アメリカ合衆国国民にアメリカ政府に対する強い不信を起こさせた。

だが、ニクソンの次の大統領のフォード大統領が、ニクソンを逮捕したことにより、この不信は一旦おさまるが、その後フォード大統領がニクソンに恩赦を与えたことにより、アメリカ合衆国の国民の間には、強い不信が引き起こされる。

政府と国民が一体となって、政治を進めていくのが、理想とされた時代にとって、アメリカ合衆国国民とアメリカ合衆国政府の間の分断は、国が政治を進めていく中での困難な出来事だった。

ソ連フルシチョフは、アメリカ合衆国リチャード・ニクソンに、「見えない川に、見えない橋をかけろ」と言ったそうだ。川とは分断のことで、橋とは分断の対岸に渡す橋のことだ。“見えない“とは、国家とは想像の共同体であることを指す。

見えない場所に、見えない川が流れ、見えない橋をかける。想像の共同体である国家=見えない国家に、見えない分断があり、見えない橋で分断をなくす。ある領土に住む人たちの心の中に拒絶の反応が起こり、それが国としての共同体の機能を無効にする。

映画「1975」の中で、60年代はコミュニティの時代だったが、70年代はミーイズムの時代だったと言われる。そして、60年代のコミュニティの時代には人は社会問題に取り組んだが、70年代のミーイズムの時代には人は内向きになり自己実現に向かったと映画「1975」に出てくる。

70年代、例えばコミュニティの一種である家族の他人化が進んだ。コミュニティに関心が薄れたアメリカ合衆国の家族は、分断されて、自分のことしか考えないミーイズムの時代になった。

例えば、1976年の映画の「タクシードライバー」。家族から断絶された主人公のトラヴィスが、自分が社会の害悪と思うピンプを銃殺する。トラヴィスは、最初は政治家を狙うが、それには失敗する。そして、少女買春を斡旋するピンプ=ヒモを銃殺する。

この映画「タクシードライバー」で実際に使われてはいないが、映画「1975」で、映画「タクシー・ドライバー」が紹介される時には、トーキング・ヘッズの「サイコキラー」という曲が流れる。家族から分断されて、ミーイズムの中で、自分の真理を追求するために、ピンプを銃殺する主人公トラヴィス。ミーイズムの行き先は、“他人をモニターすることができなくなった”、つまり想像力の欠如した帰結とも言えるが、単純に少女を洗脳して少女の将来のための教育を奪い、少女を飼って生きるピンプは、白人至上主義の家父長制社会を現しているとも考えることができる。ピンプは、女性を従属させる白人至上主義の家父長制の悪しき家長だと考えることができる。となると、ミーイズムの時代に、コミュニティに貢献しようとする意思が消えたわけではないとも言える。家族は他人化したが、守るべきコミュニティはまだ存在するのだ。

なぜなら、人は生まれて成長することにより社会的動物であるのだから。生まれて成長する過程で社会的生き物である人間が、完全に社会を捨て去ることはない。

例えば、社会から断絶されているように見える、引きこもりの人。引きこもりも、食べずには生きられない。引きこもりに、加工食品がなければ、引きこもりは餓死する。加工食品は人間社会が作る。つまり、引きこもりは、社会に深く依存していることが、ここからもわかる。引きこもりは、一見社会から分断されているようだが、引きこもりほど生きるのに、共同体を必要とする人たちはいない。引きこもりとミーイズムを繋げて考えると、引きこもりは自分の理想を追って、そこから社会的関係に齟齬をきたし、社会から分断された人たちと考えることもできる。つまり、引きこもりは、ミーイズムで且つミーイズムとして社会参加することから撤退中の人たちと考えることができる。

もし、引きこもりが、もっとコミュニティと繋がりを持とうとしたら、第2のトラヴィスが生まれるのか⁇ 引きこもりは、内向きになる傾向が強い人たちだ。不満や不安を、他人にではなく、自分に向けて、にっちもさっちもいかなくなってしまう。それが引きこもりの人たちだ。内向きなのが引きこもりの人たちだと、考えることができる。だが、引きこもりが家族に八つ当たりすることはあり得る。だから、引きこもりが安全な人たちだとは一概には言えないかもしれないが、引きこもりは内向きだ。

引きこもりは、見えない川に、つまり見えない分断に翻弄される人たちなのかもしれない。自分の中に分断を作り出して、その分断に引きずりこまれる。しかし、引きこもりが抱える分断は、引きこもりが引きこもる限り解消されない。引きこもりが、社会参加を対話という形でして、そこで自分の抱えた分断像から解放されるのが、引きこもりが救済されるきっかけになるのかもしれない。引きこもりは、不安と不満により、社会から分断される。自分の中に社会から分断される理由を見つけ出し、その理由に固着する。その分断を解きほぐすのは、例えば、オープン・ダイヤローグかもしれない。

人々の間には、見えない川が流れており、見えない川の対岸をつなぐ橋をかけるのが、例えば、国家であり、精神科医であり、分断に取り組む全ての人たちだ。人々は、見えない国家を生きている。そこに見えない分断がある。そこには、橋渡しが必要だ。

例えば、引きこもりは、見えない分断を生きているとする。内面の中に引きこもり自身が作り出した分断により、引きこもりは引きこもる。ある集団では事実でも、ある集団ではそれは事実ではない。特に想像の共同体では。

引きこもりの分断を解消する共同体を作ること。精神科医は、引きこもりを差別する社会に、引きこもりを何とか適応させようとする。しかし、社会側からの引きこもりへの歩みよりも必要だ。想像の共同体なら、想像物を人々の心の中に醸成することが可能かもしれない。そして、見えない川に、見えない橋を架けるのは、私たち一人一人だ。

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Joan Tewkesbury in Breakdown:1975

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悲劇を喜劇として

映画「エド・ウッド(原題:Ed Wood)」を観た。

この映画は1994年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の舞台は、1950年代のハリウッドだ。この映画の主人公は、この映画の邦題と原題にあるようにエド・ウッド、本名Edward Davis Wood Jr.だ。エドワード・デエヴィス・ウッド・ジュニア、通称エド・ウッドは、実在した映画監督だ。アメリカのニューヨークのポーキープシーで1924年に生まれ、1978年にカルフォルニアのロサンゼルスのユッカ・ストリートのハリウッドのアパートメントで、アルコール中毒で貧困の中で亡くなっている。エド・ウッドは商業的成功を生きている間につかむことはできなかったが、多くの後続する映画監督に慕われている。この映画「エド・ウッド」の監督ティム・バートンエド・ウッドのファンのうちの1人だ。日本の、紙面としては販売が停止している映画雑誌「映画秘宝」がある(その後、映画秘宝は復刊した)が、その映画秘宝を出版していた洋泉社から「映画秘宝 エド・ウッドとサイテー映画の世界」という本が1995年に出版されている。この本のタイトルからわかるように、エド・ウッドは最低映画の監督として現在では有名だ。エド・ウッドは存命中は、商業的な成功を収めることができなかった。だが、しかしエド・ウッドの映画作品は後の有名な映画監督たちに愛されている。

エド・ウッドは、第二次世界大戦に参戦して、その際に、顔面を日本兵に銃床で殴られて前歯を失って、入れ歯をしていた。エド・ウッドは後年、戦争で死よりも怖かったのは、戦闘で怪我をすることだったと言っている。その理由は、彼の女装癖にある。エドはピンクのブラジャーとパンティーを着て、第二次世界大戦の戦闘に参加していた。もし、エドが負傷したら、施術の際に服を切られたりした際に、エドがブラジャーとパンティーを着ているのを軍医に見られてしまう。だからエドは、戦闘で死んでしまうより、怪我をして生きている方が恐かった。第二次世界大戦は、アメリカでゲイの権利のための闘いが注目を集める前のことだ。そのような、家父長制の男根主義的なアメリカの軍隊という男社会で、女装癖のある男性は差別された。1950年代の映画の中のゲイは社会の笑いの対象で、馬鹿にされる存在だった。ゲイの人たちは、クローゼットの中に隠される存在だった。ゲイを連想させるエドの女装癖は社会の中では、異物として扱われた。だが、エドの凄いところは、映画の中で女装癖をそのまま撮っているところだ。そして、女装したまま映画の監督としてメガホンもとっている。エド・ウッドは自分の女装癖を隠さなかった、ある意味勇気ある人だ。この映画「エド・ウッド」では、そのようにエドは描かれている。エドは、女装癖はあるが、女性の恋人がいた。エドには、ゲイの友達もいた。エドの女装癖は、エドが子供の頃、エドの母親がエドに女の子の服を着せていたことが始まりだ。そこで、エドは女性服を着ることの快楽に目覚める。それが、エドの女装癖の始まりだ。そして、その女装癖が、エドの周りに一風変わった人たちが集まる原点になっているようだ。

エドはカルト映画やSF映画が好きだった。実際に自分の映画に、ハンガリーアメリカ人のベラ・ルゴシを登場させている。ベラは1931年の「カウント・ドラキュラ」というドラキュラ映画で、ドラキュラの役を務めた俳優だ。ベラは、エドの映画に出る頃には既に落ち目の俳優で、酒とモルヒネや鎮静剤などに溺れていた。この映画「エド・ウッド」で描かれているのは、映画スターとなったベラが、落ちぶれてアル中でジャンキーなって、身を崩していく姿だ。ベラはエドの映画に出演するが、ベラが出演したエドの映画が外れる度に、精神的、肉体的、金銭的危機になって、最後には73歳で亡くなっている。また、ベラと同じようにエドもアルコール中毒になって死んでいっている。「エド・ウッドは最低映画監督なんだ。あははは。」では、語りきれないものが、エドの人生にはある。戦争で前歯を失ったことも、女装癖も、アルコール中毒も。この映画では、前2者は笑いとして昇華されている。それが、この映画「エド・ウッド」の映画監督のティム・バートンの凄いところなのだろう。現実に、戦争における負傷も、女装癖も笑えないところがある。怪我も、女装癖も、アルコール中毒も笑えない。エドの人生は、実はこの映画「エド・ウッド」で描かれているように笑えるものではない。エドは、貧困でもあった。映画では描かれていないが、戦争で悲惨なものを多く見たに違いない。もしかしたら、後年のアルコール中毒の一因には、戦争による心の傷の影響もあるかもしれない。

この映画「エド・ウッド」は、エドがベラと出会い、ベラとの交友を重ねて、ベラが死んだ後に、“Plan 9 from Outer Space”(直訳:外宇宙からの計画9)という映画を撮るまでが描かれている。この映画は常にユーモアに溢れている。映画監督のティム・バートンは、映画をおとぎ話のように撮るのを特徴とする監督だ。現実とは離れたファンタジーの世界を撮るのが得意なティム・バートンは、この映画「エド・ウッド」を普段の自分の映画よりはリアルな世界のものとして撮りつつ、ティムのもつファンタジー性が映画「エド・ウッド」からも出ている。そしてそのファンタジー性が、この映画「エド・ウッド」のユーモアのように見えてくる。どんなシリアスな場面もファンタジーのように誇張して描かれて、そこにはユーモアが滲む。それがこの映画「エド・ウッド」だ。主演のエドを演じるジョニー・デップの顔の演技が、この映画にユーモアを与えている。エド・ウッドの人生は、貧困と失敗と中毒と絶望の人生だと見て取ることもできる。「よってみると悲劇、ひいてみると喜劇」と言っていたのは、映画評論家の町山智浩氏だが、この映画「エド・ウッド」では、ティム・バートンは、エド・ウッドの人生をひいてみている。そして、この映画「エド・ウッド」をコメディとして描くことに成功している。だから、この映画は逆境にあるすべての人を勇気づける。逆境にあっていてもこんなに面白く映画として成り立つのならば、逆境も乗り越えられるかもしれない。そんな気分に映画を観ている人はなるのではないのか? エド・ウッドの人生は悲劇かもしれない。その悲劇を笑い飛ばすことが、エド・ウッドの映画を観る者の、エド・ウッドへの弔いになっているのではないだろうか?

人は不合理で葛藤している

映画「ジョイランド わたしの願い(英題:Joyland)」を観た。

この映画は2022年のパキスタン映画で、映画のジャンルは家父長制囚われドラマものだ。

この映画には、パキスタンの家族とその周辺の人たちが登場する。

主人公のハイダルは、強くて立派な父親のもと、兄夫婦とその娘たちと、妻と共に暮らしている。ある日、ハイダルの70歳くらいの父親が、ハイダルに「女がやる家事なんかしていずに、お前も男らしくしろ‼︎」と言う。そして、この父親の言葉が、この家族を崩壊の危機に陥れる。その危機は、1人の人間の命を奪うことになる。

この映画の中で描かれるパキスタンは、欧米によって普及されたような強い男を中心とする家父長制の翳りが見えている。それは、ハイダルがゲイの女性に恋をすること、そしてハイダルの妻のムムターズが仕事を持つことで尊厳を獲得していたが、それがハイダルの父親の言葉で吹き飛び、ムムターズの具合が悪くなることからも顕著にわかる。

ハイダルは要するに女性的な男性で、ムムターズは要するに男性的な女性だ。このハイダルとムムターズの2人がお見合いで結婚して、うまくいっているのを、家父長制の亡霊に囚われたハイダルの父親が、ぶち壊してしまう、というのがこの映画「ジョイランド」だ。

ハイダルの父親は車椅子で生活をしている。ハイダルがハイダルの兄の嫁と家事をして助かっているのは、このハイダルの父親もだ。ハイダルの父親は、ハイダルが家事をすることで生活ができているのだが、ハイダルの父親は、自分で自分を苦しめる決断をしてしまう。ハイダルの父親は矛盾をしている。

だが、この映画で矛盾をしているのは、ハイダルの父親だけではない。ハイダルも、ムムターズも、ハイダルの兄も、ハイダルの兄の嫁も矛盾と葛藤を抱えて生きている。それは、古くからある家父長制を基とする規範が、時代に合わなくなっているからだ。

時代というと大雑把な括りかもしれないが、パキスタンのこの1家族は家父長制の古い規範によって、家族の状態が悪くなっている。そして、この映画が作られるということは、この家父長制の化石化の問題は、パキスタンや、この映画が観られる別の国でも起こっていることだと推定できる。そして、筆者が住むこの日本も、家父長制の化石化の例外ではない気がするのは、筆者だけだろうか⁇

日本に家父長制の萌芽が芽生えたのは、中世の鎌倉時代のことだと言われている。その萌芽の制度の名前は、惣領制と呼ばれる。この惣領制は、武士の間のものだった。内容的には、遺産相続に関する取り決めだ。一家の財産が分散することを避けるために、つまり家の繁栄のために作られたのが、この制度だった。

中世の鎌倉時代の中期になると、武士の遺産相続が長子に集中することになった。そして、近世の江戸時代の武士階級もこの遺産相続の制度を行なっていた。この惣領制が民間に普及するのは、明治時代の明治政府による。

日本は、外国と不平等条約を結んでいた。もし、この不平等条約を解消して欲しいのなら、日本にも西洋的な民法を敷けというのが、西洋諸国の要望だった。明治政府は、この不平等条約をなくすために日本に近代的な民法を作る。

この民法の中の取り決めに、遺産相続の法律もあった。この民法が敷かれることにより、日本の武士階級以外の民間にも遺産相続の決まりが出来上がった。それにより、日本の家族の遺産は、長子に引き継がれる決まりになった。これを家制度と呼ぶ。

家制度は、1947年に廃止された。しかし、その名残りは、今の日本にもある。長子のみが遺産を相続するということはなくなったが、法となり習慣に溶け込んだものが抜けるには、200年、300年かかる(フレイザー金枝篇」冒頭あたり)とも言われる。家父長制の空気は、今の日本にも多かれ少なかれ残っている。

日本の例を出したが、パキスタンも日本と似たようなものだと仮定してみたい。この映画「ジョイランド」では、父が権力を握り、その次にハイダルの兄が権力を握る、そしてその次に権力を握るとされているのがハイダルだ。だが、“男らしい”父と兄と違い、ハイダルは“女々しい”。

そう、明らかに女性差別の構造がここに見て取れる。男らしくないとは何か⁇ それは女と同じことをすることだ。つまり、男らしさは女性を差別するという前提によって成り立っている。

女がすることは全て男らしくない。女がするのは、家事に裁縫に化粧に…。女がすることは男らしくない、としておけば、家父長制の支配を維持するのには都合が良い。看護師に「男の子ですよ」と言われた子供には、「女のすることはするな‼︎」と言っておけば良い。それが家父長制による統治の方法だ。

パキスタンでは、1979年頃になっても女性差別が公然と行われていた。不倫をした女性は、拘束されるという法律があった。不倫をしたら、拘束だ。おかしい。不倫をしただけで拘束される。女性だけ。おかしい。

人は、文化の中に生きている。文化の中には、家父長制を肯定するもの、家父長制を否定するものがある。人は、文化の中で、様々な方向性を内包しながら成長する。人の方向性を一方に向けておくのには無理がある。

人間のいるところには、必ず文化がある。人間は、文化とか歴史といったものと切り離すことができない。文化があるから、友達は生まれ、恋人が生まれ、結婚して、子供が生まれ育つ。文化は多様にあり、それを否定することは、誰かを抑圧することだ。

文化は人の多様性を表しており、文化は喜びでもある。文化を摘むことは、人をある時は死に追いやる。文化は人を豊かにして、文化は人を良心的な文化に向かわせる。文化を、追いやれば人は追いやられる。文化とはそういうものだ。

ただし、文化を競争の種にしてはならない。文化が競争を誘えば、文化が文化を死に向かわせる。文化は楽しむものであり、文化は侮蔑により成り立つものではない。例えば、デッサン教室を受験に取り込むと、そこから喜びは薄れる。

不倫をしたら、女性だけ拘束。これは、どうだろう。不倫をしたら、男女問わず拘束。人は、文化により育つ。その文化には、セックスもある。セックスの相手は、選べるようで選べない。よって、そこには偶発性が生じる。その偶発性を罰によって取り締まる。これは、合理的か⁇ 不合理か⁇ 明らかに不合理だ。

人間には馴致できない野生の部分がある。野生を飼い慣らせる人もいれば、野生に飲み込まれる人もいる。つまり、人間は不合理な存在だ。その不合理性を合理性で排除する方法は、人間が不合理である限り、社会から排除される人間を作り出し、排除は人の間に恐怖を植え付ける。

人は、タブーを作って仲間外れをする。その苦痛を人は感じることができる。なぜなら、人は社会的動物だから。人は社会から排除されては、生きていけない。ならば、人が端的に孤独で育てば、人は排除にも強くなるのかもしれないが、赤ちゃんのころから自律している人はいない。

タブーにより、禁止をして、差別をして、社会から人を排除することにより、女性差別や、ゲイの人の差別や、家父長制は成り立つ。排除せずに、包摂する社会へ。その包摂を生み出すのは、人の内発的な良心だろう。

もし、家父長制が包摂的ならば、この映画「ジョイランド」の父親のように、自ら家族を崩壊させることもないだろうに。

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映画「ジョイランド わたしの願い」 1m16s  ※映画「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー(原題:A Ghost Story)」(2017/アメリカ)を連想させますね‼︎

統治システムを観測する

映画「荒野のストレンジャー(原題:High Plains Drifter)」(1973/アメリカ)、映画「25時(原題:25th Hour)」(2002/アメリカ)、映画「コンパニオン(原題:Companion)」(2025/アメリカ)を観た。

映画「荒野のストレンジャー」は西部劇、映画「25時」はドラマ映画、映画「コンパニオン」はサイコ・スリラーだ。

映画「荒野のストレンジャー」は、俳優でもあるクリント・イーストウッド監督の監督第2作目だ。映画「25時」は、黒人の映画監督であるスパイク・リー監督の映画だ。映画「コンパニオン」の監督・脚本は、ドリュー・ハンコックという監督で、今回の映画「コンパニオン」の監督が、映画初監督だ。

この3つの映画に共通するのは、主に白人社会を描いた映画だということだ。アメリカの産業構造と町、アメリカの罪、家父長制の害悪などが、これらの映画には描かれている。これらは、もしかしたらアメリカ合衆国に特有のものではないかもしれないが。

アメリカ合衆国の抱える問題が、世界の抱える問題の縮図になっていると考えることができるかもしれない。とすると、アメリカ合衆国の問題を知ることは、世界の問題を知ることに繋がってくる。

映画「荒野のストレンジャー」の背景にあるのは、工業社会の問題だ。つまり、町の産業である採鉱業が、この映画で描かれる問題の背景にある。映画「荒野のストレンジャー」は、採鉱業の汚染の問題を描いた映画ではない。

映画「荒野のストレンジャー」は、採鉱業から利益を得る町の人たちが、採鉱場が実は国有地にあって、採鉱場が町の人たちから取り上げられそうになって起こる悲劇だ。つまり、町の人たちの私有財産への執着が、この映画「荒野のストレンジャー」で描かれる。そして、その町の人たちの執着が悲劇を引き起こす。

アメリカの西部開拓は、カリフォルニアに金鉱が見つかったことにより起こった。鉱物がある保証はないが、多くの人たちが、第2の自分の金鉱を見つけようと、アメリカのフロンティアに進出した。この開拓は、アメリカのブームになった。

アメリカの欧米人にとってのフロンティアへの侵攻は、1803年から1890年まで続いた。その間に、北アメリカ大陸に住んでいたアメリカの先住民は、住む場所を追われた。アメリカの先住民は、最終的には、住んでいた場所を追われ、アメリカ各地にある居留地に住むことになった。

採掘業により住む場所を追われるアメリカ先住民の人たちもいる。ダコタ・アクセス・パイプラインの例が、最近の例だ。石油のパイプラインを引くことにより、パイプラインから石油が漏れて、その場所の土地や水が汚染されて、住むことができなくなることが起きた。

元々住んでいた場所を追われてたどり着いた先で、採掘業の汚染に遭う。元はといえば、アメリカ合衆国に先に住んでいたのは、アメリカ先住民だ。その先住民が、ヨーロッパ人に侵略されて、住む場所を追われて行った。その締めくくりが、フロンティアの開拓だったと考えられる。

映画「荒野のストレンジャー」は、その欧米人による侵略の正体を描いている。アメリカ合衆国の正体は、“地獄”だ。先住民の土地を奪い、アフリカ大陸から黒人奴隷を連れてきてプランテーションで働かせる。そう、それは地獄だ。

その地獄の様相は、映画「25時」でも描かれる。2001年に9・11が起きて、アメリカは、さらなる地獄になる。人々の間に懐疑心が生まれて、白人たちが周囲の視線に怯えだす。白人の罪が、白人自身を怯えさせる。

中米や中東などの人には特に、アメリカ合衆国は、アメリカ合衆国が犯した罪により嫌われている。傀儡政権を作り、独裁者をその土地に誕生させ、政権が安定したら、次なる独裁者にクーデターを起こさせる。それを、中米や中東で繰り返しているのが、アメリカ合衆国だ。そして、9・11は、アメリカ合衆国がしたことへのしっぺ返しだ。

オサマ・ビン・ラディンは、ソ連に対抗する親米勢力ムシャヒディーンから派生したタリバンのメンバーだった。つまり、オサマ・ビン・ラディンを育てたのはアメリカだ。そのオサマ・ビン・ラディンが、世界貿易センターペンタゴンに突っ込んだ旅客機の乗っ取りによるテロの首謀者だとされている。

映画「25時」は、アメリカ合衆国のニュー・ヨークが舞台だ。映画「25時」の主人公は、母親が死に、そのショックで父親がアル中になり、生活費を稼ぐために高校生で薬の売人になったアイルランド系の白人だ。

ニュー・ヨークで高い果物を売る韓国人を憎み、物乞いの黒人らを憎み、シーク教徒やパキスタン人を憎み、ゲイを憎み、テロリストを憎み、ロシア人とギャングを憎み、ユダヤ人を憎み、金融マンを憎み、ブッシュとチェイニーを憎み、ドミニカ人を憎み、プエルトリコ人を憎み、イタリア系を憎み、金持ちを憎み、黒人を憎み、警官の非道な取り締まりを憎み、児童の性的虐待をする神父を憎み、オサマ・ビン・ラディンを憎み、アルカイダを憎み、ニュー・ヨークの街を憎んでいるのが、映画「25時」の主人公のモンティだ。憎しみが、憎しみを呼ぶ。

モンティは、プエルトリコ系の彼女であるリヴェラ・ナチュレをも憎んでいる。モンティは、彼女を作る。つまり、家父長制の描いたラインに乗っている人物だ。だが、その家父長制の基盤である男女の信頼にも疑念を抱いているのがモンティだ。

男女間との信頼関係とか、男女間のセックスとか、同性間の信頼関係とか、同性間のセックスとかを取り上げた映画が「コンパニオン」だ。主人公のアイリス・ビープは、セックス・アンドロイドだ。つまり、主人公は男性の性欲の解消のために作られたロボットだ。

家父長制は、男性の性欲と、セックスによる子供の誕生により成り立っている。家父長制は、女性の性欲を隠そうとしてきたが、女性にも性欲がある。例えば、アイドル・グループにより男女の性欲は喚起される。

アイドル・グループを使って、人を年中発情させて、性欲により人の生活を支配するのが、家父長制を利用して統治するシステムだ。過剰に性欲を引き起こされて、ドーパミンを発生させる。そして、人は、ドーパミンの刺激のみに反応する人間になってしまう。

グラビア・アイドルが、スマホの端末に存在する限り、グラビア・アイドルに人々が反応する限り、人は性欲に支配されて、本来すべきことに着手できない。本来すべきこととは、人間の営みを良くするための活動だ。

グラビア・アイドルが、政治的発言をすることは、日本では珍しい。グラビア・アイドルは、発情装置でなくてはならず、その発情装置が社会の統治の仕組みを暴露しては、都合が悪いからだろう。

過剰に人の性欲を刺激した結果生まれるのが、性欲処理のためのロボットだろう。つまり、性欲処理ロボットのアイリスは、統治のために作り出された道具だ。性欲を過剰に発生させて、つまり年中発情させておいて、セックス・ロボットを世の中に送り込めば、人は統治され易い馬鹿になる、というわけだ。

だから、アイリスの覚醒は重要なのだ。セックス・マシーンが覚醒して自律して、セックスの道具ではなく、1人格として認めてもらおうとすれば、セックス・マシーンの所有者は、自分の性欲の捌け口を失い、自分の性欲を懐疑するようになるかもしれない。

それとも、セックス・マシーンを必要とする統治権力にいいように利用されるだけの人間は、アイリスに葬ってもらえば良いのか⁇ と、考えるのは行き過ぎだろうが。

統治のために人は侵略をする。侵略者の中には、統治者がいる。物理的に侵略した後は、精神を侵略する。精神の侵略とは、この場合、家父長制による統治のことだ。そして、家父長制による統治は、人間を常に発情状態にさせて、人のエネルギーをリビドーであるとする。人のエネルギーをリビドーと呼び替えることにより、人はリビドー、つまり性欲ばかりに気を取られるようになる。そうなると、肝心の政治のことなど、性欲の影に隠れてしまう。

統治のための軍事力・武器。統治のための家父長制。統治のためのポルノ・グラビア。これらが、重なってこの社会を統治している。そして、その統治に飲み込まれて無思考のまま生きていれば、社会には独裁者が誕生する。例えば、トランプ傀儡政権のような。

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High Plains Drifter


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25th Hour


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Companion

仕事と性欲に忠実な男

映画「愛の狩人(原題:Carnal Knowledge)」を観た。

この映画は1971年のアメリカ映画で、映画のジャンルは恋愛ドラマだ。

この映画の内容は、この映画の原題の Carnal Knowledge “肉欲的な熟知“ から考えるとわかりやすい。この映画の2人の主人公のうちの1人のジャック・ニコルソン演じるジョナサンは、まさに肉欲的なことを熟知している男だからだ。

肉欲的なことを熟知しているというのは、要はセックスを若いころからしているので、セックスに関することは知っているということだ。ジョナサンは、性欲を感じた女性とセックスをして、勃たなくなったら、他の女性で自分を勃起させてくれる女性に行く男だ。

この映画には、2人の主人公がいると言ったが、もう1人の主人公はアーサー・ガーファンクル(アート・ガーファンクル、“サイモンとガーファンクル“のガーファンクル本人)の演じるサンディだ。サンディは、ジョナサンほど、女性を取っ替え引っ替えしない。

勃たなくなったら女性を替えるジョナサンと、勃たなくなっても同じ女性と一緒にいようとするサンディ。どちらも、女性が好きで、女性に欲情して、女性を求めるが、勃たなくなったらすぐに女性を替えるか替えないかが、この2人の違いで、この映画「愛の狩人」は、このコントラストでも描かれている。

この映画「愛の狩人」は、導入はサンディが中心だが、その後はジョナサンの性生活が中心として描かれる。家父長制の規範を内面化して、一夫一妻の結婚制度を信じて生きる女性に、ジョナサンの存在はどう映るのか⁇

赤ちゃんが生まれると、性器によって、男か女かを、生まれたその時に決定される。看護師が「男の子ですよ」と言ったら、その子の今後の人生は男性になることが目指される。もし看護師が「女の子ですよ」と言ったら、その子は女性になることが目指されるようになる。

「大人になったら、素敵な男性と結婚して、家庭を築くのよ」と、女の子の母親は、自分の娘に教える。この映画は、1971年の映画だから、その当時の女性の社会進出の状況を考えると、女の子の母親が娘に「将来はNGONPOの一員になるのよ」と言っている可能性は低い。

女性は、学習の機会が与えられず、女のまま結婚して、家庭を持ち、自分の娘にこう言う「大人になったら、素敵な男性と結婚するのよ」と。結婚するのよ、とは、「セックスして子供を生むのが人生よ」と言っているのに等しい。

ジョナサンと付き合っているテレビにも出ているボビーは、この一夫一妻の家父長制の規範を内面化している女性だ。出会う→付き合う→セックスする→子供を生む→子育てをする→孫に囲まれた老後を迎える。この対象となる男性は、安定した収入がある男が好ましい。

ボビーは、ジョナサンに、結婚したいとせがむ。ジョナサンは、その時まだボビーといて勃起するので、ボビーの要求を受け入れる。ボビーは、結婚して一日中家にいてすることがなくアルコール中毒になっている。ジョナサンは、セックスのことしか考えていないので、ボビーのアルコール中毒に注意を払っていない。

ジョナサンは、一応大学を出たインテリで、女性を口説くために、社会の問題を女性の前で語ったりする。すると女性は、「あなたって真面目なところもあるのね」とジョナサンを惚れ直す。ただ、ジョナサンは自分を勃起させない女性は、すぐにおさらばするが。

ジョナサンにとっては、女性の価値は、ジョナサンを勃起させるか・勃起させないかで決まる。家事ができるとか、子供を育てたいとか、そういった家父長制的な関心はジョナサンにはない。ジョナサンは、種馬としては、割と優秀かもしれない。

ジョナサンは給料が良い。見た目も悪くない。セックスが好きだ。だから、子供を作る男としては良いが、子供ができた後は、なんの役にも立たない。ただ、ジョナサンはしっかりした定職があるので、養育費・教育費は、しっかり払うことができるだろうが。

ジョナサンは、「子供だけ欲しい。ただ、養育費・教育費はしっかり払って」という女性には都合の良い男だろう。ただ、ジョナサンはセックス以外に、女性と何かを楽しむとか、何かを共有するとか、そういったことには向いていない。

ジョナサンは、おそらく仕事の腕は良い。だから給料も良い。ただ、セックスの後に生まれる子供に関心がない。ジョナサンにとって仕事以外に必要なのは、女性が子供を生まないセックスだ。ジョナサンは、勃起して、セックスで、オーガズムを迎えることだけが、プライベートの目的の1つだ。

「男と一緒にいるのは、面倒臭いけど、子供だけは欲しい」と言う女性には、ジョナサンはぴったりな相手かもしれない。稼ぎはあるから養育費と教育費は払うし、自分とのセックスに飽きたら余計な干渉はしてこない。ジョナサンは、ジョナサンなりに女性の欲求を満たすことができる。

ジョナサンにとって、性欲は、きっと生きる目的であり、同時に自分を苦しめるものだ。うまく行っている時は勃起する時。うまくいかない時は勃起しない時。それが、ジョナサンのセックス観だろう。そして、その性に、ジョナサンは喜びと苦悩を引き起こされる。

筆者は、ジョナサンを否定したいのではなくて、ジョナサンが生きやすい時代になれば良いとは思う。ジョナサンが生きやすい社会とは、女性が性欲以外で男性に依存しない社会だ。つまり、女性が社会進出して社会保障が充実すれば、ジョナサンの悩みは少なくなるだろう。だって、女性が結婚せずとも性欲を満たし、子供を生むことができるからだ。ただ、ジョナサンは、育児に積極的に参加しないだろうから、その点は問題となってくるかもしれないが、他に育児をしてくれる人を見つければ、その問題も解決するだろう。

前述したように、ジョナサンとのコントラストで描かれるのが、なるべく一夫一妻の家父長制に従おうとするサンディだ。ただ、サンディも、結婚生活でのセックスがうまくいかなくなるが。結局、男は同じ相手だと勃起しなくなるのだ。そして、性生活がうまくいかなくなると、男は結婚生活に新鮮味を感じなくなる。のっぺりとした日常に飲み込まれて、ただだるい日常が続く。

つまり、この映画「愛の狩人」のジョナサンとサンディは、結局のところ性欲から抜け出せない。そのような男は、この世の中には沢山いる。勃起して射精することしか、人生に充実感を感じることができない男たちも、確かに存在する。

人間も当然生物だ。生物は、子供を作る場合が多い。子供の存在が、その生物の種の存続を、まず保証する。地球が気候危機で生物が住めない土地にならない限りは。本能の命令というものがあって、そこには勃起して射精するプログラムが記されているのだろうか⁇

家父長制という社会統治のための後付けの契約をジョナサンは嫌う。ジョナサンは、子育てを抜いた、勃起して射精することだけに忠実なセックス・マシーンだ。ジョナサンの正当性があるとすれば、受精能力があることと、無理がある一夫一妻の家父長制の問題点を浮き彫りにすること(ただし、ジョナサンは養育費・教育費は払う) くらいのことだろうか。

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映画「愛の狩人」 ジョナサンとジョナサンを一時的に勃たせる女性ボビーのポスター