少しのお金と、愛

この文章は、20244月7日頃にタイプした文章です。いつもは、週末にタイプしてその日のうちに投稿するのですが、今回は過去にタイプした文章を載せます。

カント的に見ると、人には理性と情動との間に揺れ動きがあり、良いこととされる理性に近い愛という情動があります。愛は、あくまで理性と比べてより情動的なので、理性的な最良さには到達しませんが、それでもある人にとっては、利己心などのその他の情動に支配されるよりは良いのかもしれません

というような2026815日の僕の見方を先に示すことで、この2024年にタイプした文章のあり方がより明確になるのかもしれません。

 

映画「コントラクト・キラー(英題:I Hired a Contract Killer)」を観た。

この映画は1990年のフィンランド・U.K.・ドイツ・スウェーデン合作映画で、映画のジャンルはサスペンス・コメディだ。

この映画の主人公は、U.K.に住んでいて、水道局の登録部で働いて、失業をする、フランス出身の男性アンリ・ブーランジュという30代後半ぐらいの男性だ。アンリは家族もおらず、恋人も、友達もいない、孤独な男性だ。アンリは、お役所の単調な仕事に人生を費やしていた。

サッチャー政権のワシントン・コンセンサスに基づく自由化政策の影響で、公共事業が民営化され、無駄と判断された事業はカットされていく中で、アンリの勤める公共事業である水道局も人員削減のためにリストラを始める。そしてアンリも、そのリストラの対象になる。

アンリは、仕事に人生のほぼすべてを費やしていたので、失業すると、アンリは、もう生きる意味を人生に見いだせない。アンリはフランス出身で、アンリ曰くフランスには居場所がなく、フランスに帰ることもできない。失業したアンリは、身寄りのないU.K.で暮らすほかなく、しかし、アンリは失業して生きる意味を見失っている。

1980年代から1990年代、U.K.のサッチャー政権、アメリカ合衆国のレーガン。この2人が、世界中で沸き起こる、規制緩和、自由化、民営化の牽引者のような役割をした。日本でも中曽根が、サッチャーやレーガンと共に、規制緩和、自由化、民営化を進めた。これは、世界的な当時のトレンドで、例えばニュージーランドでも、同じような自由化が進められた。規制緩和、自由化、民営化が起こるとどうなるか? 経済が自由化して競争が激しくなり、企業は解決策としてコストカットをする。公共セクターも民営化のために、一般企業と同じフィールドで競争をすることになる。そのため、公共セクターは民営化されて、民間企業となり、コストカットのためにリストラをする。そのために、失業者が出る。ワシントン・コンセンサスが推し進めた、規制緩和、自由化、民営化は、世界に大量の失業者を生み出した。

この映画の舞台はU.K.だが、この映画の監督アキ・カウリスマキは、フィンランド人だ。フィンランドもワシントン・コンセンサスと無関係ではない。現在(2024.1.20)で、世界で一番幸福度が高い国で、国の福利厚生が行き届いたフィンランドも、1990年代にはワシントン・コンセンサスが推し進めた、規制緩和、自由化、民営化に代表される新自由主義の波にのまれていった。1980年代までは福祉国家で好景気だったフィンランドも1990年代に新自由主義が訪れると、街に失業者があふれた。年輩の失業者は仕事からあぶれると、なかなか仕事を見つけられずに、貧困に苦しむことになる。そのようなフィンランドの1990年代の様子を描いたのが、アキ・カウリスマキ監督の映画「浮き雲」だ。アキ・カウリスマキ監督の映画は、フィンランドの好景気の時期でも存在した貧困層の人々や、フィンランドの不景気の時代に多数存在した貧困層の人々を描くことが多い。この映画「コントラクト・キラー」でも、同じように仕事を失った貧困に陥っていく男性を描いている。

また、アキ・カウリスマキ監督の作品は、夫婦や恋人が登場することが多い。アキ・アウリスマキ監督の映画には、愛の要素は欠かせない。ただ、愛があれば大丈夫、というような映画の描き方はしない。あくまで仕事があっての愛で、ただ仕事が前提とは言いながら、アキ・カウリスマキ監督の映画は、貧しくても暮らしていけてそこに愛があれば、人生は何とかなっていくというような映画の描き方がされる。仕事は欠かせなく、愛だけでは生きてはいけないが、仕事があれば安月給でもそこに愛が加われば何とか生きてける、生きる希望が見いだせる。それがアキ・カウリスマキ監督の一連の映画で描かれる人生観だ。

さて、この映画「コントラクト・キラー」で描かれるのは、少しのお金があって愛があれば人生は生きられる、というテーマを描きつつも、大金があって仕事があっても、自分の人生を受け入れられなければ、人は死に至るという裏のテーマがこの映画にはある。この映画「コントラクト・キラー」では、殺し屋が登場する。失業して恋人も家族もおらず、生きることに希望を見いだせないアンリは、自分で自殺することに失敗して、自分で自分を殺すために殺し屋を雇う。その殺し屋は、末期がんで、離婚していて、娘がいるが、生きる希望が見いだせない初老の男だ。アンリは、新聞でコントラクト・キラーという反政府組織のようなものが見出しになっているのを見て、殺し屋を使って自分を殺すことを思いつく。だから、アンリの殺しを引き受けるのも反政府組織の人物だろうと考えられる。U.K.で反政府組織と言えば、IRAが思いつく。IRAは世界の帝国主義、特にU.K.の帝国主義に反抗する団体で、反政府ゲリラを繰り返していた組織だ。IRAは正式名称をIrish Republican Armyといい、U.K.からの独立を目指してゲリラ活動をするアイルランド系のグループだ。U.K.は、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドから成る。イングランドが他の地域を帝国主義による支配をしてできているのがU.K.という国だ。つまり、IRAというアイルランド系の人たちは、イングランドが帝国主義という支配体制をとってアイルランド人を支配していると考えている。だから、アイルランド人は自分たちの国を持つべく闘うのだと言うのが、IRAの主張で、一種のナショナリズムの考え方だろう。民主主義はナショナリズムと関係を持つと言われる。民主主義が高まると、ある一定の集団が自分たちの国を持とうとする動きも高まると考えられている。だから、民主主義のうねりの中で生まれたのが、IRAのような欧米の帝国主義から脱却をしようとする団体であるということが言える。

なぜ帝国主義から逃れなければならないか? それは、歴史を見れば明らかだ。帝国主義は、従属国を植民地化して、搾取する。つまり、帝国主義の宗主国は、植民地の現地人を奴隷として扱い、現地民を人として認めない。それは、どういうことかと言うと、例えば企業で従業員が奴隷だった場合、従業員に給料を払わなくて済む。それは、企業のトップの懐に企業の利益のほぼ全部が入ってくることを意味する。帝国主義、植民地主義は、宗主国の偉い人たちにとっては、お金が手に入る格好の手段だ。だから、自らの繁栄のためだけに、宗主国の偉いさまたちは、植民地主義をとる。

この映画「コントラクト・キラー」の主人公アンリも、その他の多くの人たちと同じように、宗主国のトップのために人生を犠牲にされる1人だ。新自由主義は、企業の赤字をなくして、利益のほとんどが富裕層に行く仕組みだ。新自由主義で、職にあぶれる人が多くなるのが、新自由主義が一般の庶民のためではなく、スーパーリッチのためにあることをよく示している。アンリとアンリの命を狙う殺し屋。彼らは、どちらも、帝国主義の支配体制を敷くスーパーリッチたちに人生を翻弄される人たちの代表例だと考えることができる。

 

コントラクト・キラー 2m41s イングランド(?)の役所で働く主人公 Eurospace KingRecordCo.,Ltd Sputnik OY

コントラクト・キラー 3m35s フランスからの移民のために職場で仲間外れになっている主人公 Eurospace KingRecordCo.,Ltd Sputnik OY

コントラクト・キラー 8m6s イングランド(?)の公共事業縮小のために役所から解雇を言い渡されるフランス人移民の主人公 Eurospace KingRecordCo.,Ltd Sputnik OY

コントラクト・キラー 32m8s 主人公の生きる希望となる女性 Eurospace KingRecordCo.,Ltd Sputnik OY

コントラクト・キラー 42m6s 主人公が自分を殺すために雇った殺し屋 Eurospace KingRecordCo.,Ltd Sputnik OY

 

映画『激突!』考察|競争社会における不安

映画『激突!』は、現在では世界的巨匠として知られる映画監督であるスティーブン・スピルバーグが、まだ24歳の時に撮った映画だ。

この映画『激突!』では映画のラストまで顔がわからない謎の男性が運転するタンクローリーに、都会のセールスマンの運転する赤いセダンが、今でいう煽り運転をされる。

セールスマンもだんだんと、煽られる立場から、攻撃的な立場に移っていく。

ハイウェイで繰り広げられるタンクローリーとセダンとのカーチェイス。

一見すると、この映画は、ただの煽り運転を描いた映画かと思われるかもしれないが、この映画『激突!』には、別の解釈も可能だ。

それは、タンクローリーの存在自体の正体を考えることで浮き彫りになってくる別の解釈だ。

私たちは、日常の生活の中で、時間やノルマに追われて生活をしている。「遅れてはいけない」「負けてはいけない」。こうした、価値観により翻弄される社会を競争社会と呼ぶことができる。

この映画『激突!』で描かれる、サラリーマンが運転するセダンを追いかける、タンクローリーは、競争社会に生きる人が抱える“不安”“恐怖”の象徴なのではないか?

この映画『激突!』を考える際に、競争社会について考えること。その競争社会に付きまとう“恐怖”について考えること。それは、私たちの生きる生活とリンクしている。

私たちの抱える“不安”の正体とはなんだろうか? 

そして、そこに、この映画を観る、そしてこの映画について考える意義がある。

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タンクローリーが示すものとは?

 

映画『スウィート・スウィートバック』考察|視界に入ること

映画『スウィート・スウィートバック(原題: Sweet Sweetback's Bssdasssss Song )を観た。この映画は1971年のアメリカ合衆国映画で、映画のジャンルは黒人・エロス・白人警官暴力からの逃亡映画だ。

この映画の冒頭は、黒人の娼館で黒人の少年が娼婦に与えられた食事を食べているシーンから始まる。この黒人の少年はこの映画の主人公のスウィートバックだ。その後のシーンでは、スウィートバックが、黒人の娼婦に、身体的にも性的にも育てられたことが示されたシーンが入る。スウィートバックはつまり、貧しい黒人で、娼婦に育てられた。スウィートバックは、娼館でのセックスショーで見せ物になって働いている。そのショーを観ているのは、リッチな白人の男女、リッチな黒人の男女、2人の白人警官たちだ。その白人の警官たちは仕事の裏取引のついでに、スウィートバックが働く娼館に来ている。白人警官は言う。「昨日一人が死体で見つかった。この娼館から一人犯人として連行したい。普段協力してやっているだろ!?」と。娼館の店長は、渋がっているが、スウィートバックを差し出す。無実の罪で連行されたスウィートバックは、そこから逃げ出すために警官を叩きのめす。そこから、スウィートバックの逃亡劇が始まる。スウィートバックは、地下鉄道で黒人奴隷たちが北極星を目印にカナダへ逃げたように、メキシコを目指して逃げる。それから映画は、途中にスウィートバックと女性とのセックスシーンを時折挟みながら、警官に捕まりそうになっては逃げるスウィートバックと白人警官のチェイスの繰り返しになる。

黒人が奴隷としてアメリカ大陸にやってきたのが1600年代。1619年に今のバージニア州に20人のアフリカ人が年季奉公人としてやってきたのが始まりとされる。その後1661年に所有物としての黒人奴隷がバージニアで合法化される。1964年に公民権法により、アメリカの人種差別が法的になくなった。バージニアで奴隷が合法化されてから、1964年に公民権法まで303年。アメリカ合衆国では、人種差別が合法だった時代が、303年も続いた。この映画『スウィート・スウィートバック』の舞台は1940年代中頃のアメリカの西海岸。マーチン・ルーサー・キング牧師や、マルコムXが、公民権運動で公民権法を勝ち取る以前の、黒人の差別がいまだに強く残る時代が、この映画『スウィート・スウィートバック』の舞台だ。アメリカ合衆国では、人種隔離政策が取られて、黒人は厳しく国から、つまり警官により管理されていた。大衆の中にも黒人に対する差別が根強く残っていた。警官は、黒人のデモに対して犬をけしかけて、黒人に暴力を振るった。この映画『スイート・スウィートバック』では、主人公のスイートバックが、警察に殺人の罪を無理矢理に着せられて、逃亡を図り、警官に暴力を振るわれる。もちろんスウィートバックは、殺人を犯していない。つまり、ここで国家権力である警察は暴走しており、これに大衆が迎合する。白人警官による黒人差別と暴力。大衆の迎合。白人至上主義社会。

アルジェリア独立運動で活躍したフランス国籍の黒人であるフランツ・ファノンは、著書『黒い皮膚・白い仮面』でこう述べている。

“The black man has no ontological resistance in the eyes of the white man. “

ー黒人は、白人の視線の中で、何の存在論的抵抗を持たない。(筆者訳)

つまり、簡単に言うと、黒人は白人に無視される存在であるということだ。黒人は、ヘーゲルの言うような”他の存在”ですらなく、白人にとって存在しない。存在しない存在とはどういうことか? それは、人間が自然化しているということか? もしくは人間が物化しているということか? ここで、人が物化していると考えたい。つまり、白人は黒人を物として、その物としての黒人に依存していると捉えられる。白人は黒人を、労働力として利用する。ただ、そのケアはほぼしない。白人は、黒人が気に入らなかったら、いくらでも暴力を振るってよい。その白人の黒人への物的依存により、黒人は当然抑圧される。抑圧されれば、最終的には暴力が生じる。白人が黒人を物として扱い依存することにより、黒人は抑圧されて黒人からの暴力が発生する。暴力の発端は、白人が黒人を物化して酷使したことだ。白人の黒人に対する暴力が、黒人の白人に対する暴力を生む。それを平和的に克服しようとしたのが、例えば、アメリカ合衆国の黒人活動家であったマーチン・ルーサー・キング牧師だった。

映画『スウィート・スウィートバック』の冒頭あたりで、今までは白人から、白人警官から暴力を振るわれているだけだったスウィートバックが、白人に”抵抗”をする。それは、スウィートバックの警官に対する暴力であり、その後の逃走だ。スウィートバックは、娼館で育てられ、娼婦に性欲の吐口にされて、娼館の管理者によって警察に売られる。スウィートバックは、人として扱われていない。警察は、逃げるスウィートバックを執拗に追い回す。犬をけしかけて。アメリカ合衆国では、警官の黒人に対する暴力だけでなく、大衆による黒人差別や、白人男性による黒人のリンチが行われた。エメット・ティルという黒人の少年が、白人の女性に色目を使ったと言われて殺されたのだ。映画『スウィート・スウィートバック』で、娼館のセックスショーの時にスウィートバックと白人女性がセックスをしようとすると、娼館の管理人がやめろやめろという仕草をする。これは、黒人男性と白人女性とのセックスが当時のタブーであったことを示している。つまり、エメット・ティルは、リンチで殺されたのだ。白人男性からの嫉妬で。

黒人は、白人の眼中に入っていない、と言ったのは、フランツ・ファノンだった。フランツ・ファノンは、フランスの植民地だったアルジェリアの解放のために戦った。アルジェリアに住む黒人たちのために、フランツ・ファノンは闘った。フランツ・ファノンは闘うことができる存在だった。ファノンは闘志だった。この映画『スウィート・スウィートバック』の主人公のスウィートバックは、最初は闘うことすらできず、黒人の中の黒人奴隷だった。つまり、スウィートバックは、黒人でも最も最下層に位置する存在だった。その、スウィートバックが、人として立ち上がり、自分が人として認められる”約束の地”を目指すのが、この映画『スウィート・スウィートバック』だ。白人の眼中に入っていない存在だったスウィートバックが、白人の他者として現れること。白人の他者として、現れたスウィートバックが、白人の内面や行動を変えていくこと。この映画『スウィート・スウィートバック』は、成長の物語だ。そして、スウィートバックの手本になるのは、フランツ・ファノンやマーチン・ルーサー・キング牧師やマルコムXたちだろう。真の解放のために闘うこと。それをこの映画『スウィート・スウィートバック』は示してもいる。

映画『スウィート・スウィートバック』

 

映画『コールガール』考察|主体が揺れ続けること

都会の生活とは、いったいどんな生活なのだろうか? 普段地方で暮らす自分としては、都会のざわついた暮らしを想像すると、10代の頃に都会の街に出ていき、そこで味わった熱を帯びた感じを思い出すことがある。今の都会にもそのような感覚は残っているのか? 

熱のこもった都会で、知らない誰かと交わす視線。その場限りのすれ違いで、一生会話することもないかもしれない他人たち。その他人が視界に入り、その人のことを一瞬だけ想像する。そして、その想像は都会の喧騒の中に消えていく。その一瞬の揺れ。この揺れについて考えること。

個人つまり主体は、固定されない構造を持つ。主体が固定されないのならば、家族も共同体も国家も固定されない。全体主義国家といったものも、このような固定がなければ存在しないのではないか? 

この問いについて考えるために、映画『コール・ガール』を素材として扱い文章を書くことにした。

都会に住む女優とモデルとコール・ガールとして生きるブリーは、数多くの人とすれ違い、出会い、揺れ続ける。その都会的なブリーに対して、田舎からニューヨークにやってきたクルートの固定された視線は、管理社会を思わせる。

ラカンは、主体を裂け目を持つ存在として描いた。レヴィナスは、他者と出会うことで主体が壊れて、そこに倫理が立ち上がるといった。このラカンとレヴィナスの主張から、主体は常に外部性によって更新され続ける存在だとわかる。

便利で快適な社会の内側で、私たちはいかに主体を更新し続けるのか? そして、主体の揺れが全体主義にどう関わるのか? 

この文章では、映画と理論を行き来しながら、「主体の揺れ」と「全体性の不可能性」について考える。

↓続きはnoteで有料で公開しています。読んでみてください!!

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”管理者は高層ビルから見下ろす”

 

映画『ポセイドン・アドベンチャー』考察|自律の実現可能性

この文章では、映画『ポセイドン・アドベンチャー(原題:The Poseidon Adventure)』(1972年、アメリカ合衆国)について、人間において自律は可能か? というテーマで、自律や外部性というキーワードを使って書いていく。

この映画「ポセイドン・アドベンチャー」は、大型客船が、地震に遭遇して、転覆して、船の上下がひっくり返り、その中にいる乗客が、そこからいかに脱出するかを描いている。映画の開始から30分ほど経った頃のシーンで、大晦日から新年を迎えるパーティーをしていた乗客や船の乗組員は、地震で船が転覆することにより、船の天井に叩きつけられる。船は、階層社会の比喩で、その階層社会がひっくり返り、上位にいた者が下位に転落して、その状態から船から脱出するために、船の底だった今は海面に浮き出ている場所を目指して進む。そして、彼らが目指すものは、階層の上位ではなく、"自分自身の意思で生きること"になる。津波によって破壊された船への浸水はレヴィナスの他者を連想させ、クリスマスツリーを登った人と上らなかった人の対比は自律へ向かう人と自律できない人を暗示し、説教師の命を懸けた出口の扉の開放は自律への入り口を連想させる。

ここで、この映画を読み解く概念を提示したい。この映画を読み解くキー概念を一つ挙げるとしたら、それは”自律”だ。自律とは、自分の社会が崩壊するような事態に遭遇して、そこで社会の裂け目と向き合い、生きるエネルギーを再自覚し、そこで外部の規範が消えた後に、自分の中に立ち上がった規律によって生きていくことだ。

キー概念で素材を分析する。豪華客船は、社会構造を示す比喩だ。社会のシステムの設計者がおり、社会のシステムを支配する船長がいて、その支配者によりコントロールされた乗客がいる。乗客でさえも、豪華客船で旅ができるほどリッチだ。その船が転覆する。つまり、社会構造がひっくり返る。その船がひっくり返ったことにより、生き残った乗客は、船の下部だった今の上層を目指す。その際に、今までコントロールの上に乗っていた乗客は、自分の意思で生きる道を見つけ出して、上に向かって進んでいく。この時の上とは、社会の上層という意味ではなく、もっと倫理的な何かだ。そして、自分の意思でその”上”に登っていくことにより、映画のラストでは、コントロールされていたはずの乗客が、自分の意思で生きる、つまり”自律”した存在になる。

ここで素材から抽出した構造を普遍化したい。社会の上層にコントロールされて生きる人たちは、自分の判断で生きることができていない。しかし、自らの意思で生きる決断をできるようになると人は自律できる。既存の社会構造は、自律を拒むが、その構造に亀裂が入った時に、人は自身の内面を相対化して、新しい規範を生み出し、その規範によって生きる、つまり自律が生じる。亀裂が入るとは社会に裂け目が生じて外部性が見えるということだ。外部性は、非社会的なものということができる。カントは、定言命法というものを残している。それは、各自が普遍的命題に合わせて、その命題を自己命題として生きることにより、人は自律が可能になるというものだ。それは、ここでいう規範だ。レヴィナスは、人は他者と出会い自分が壊れると責任が生まれて倫理が立ち上がり主観が生まれると言った。この他者こそが外部性であり、倫理は自律を可能にする。つまり、自律構造とは、外部性により規範が壊れて、他者が自分の前に立ちはだかり、自分の中に責任が生まれて、倫理が立ち上がり、内的規範が出来上がり、自身が主体と化し、自律へと上昇するというものだ。フーコーは、管理社会について、空間が区切られて、そこに人は押し込められて、人々は管理者により監視されて、食料は配給というような描写をした。これを、自律により脱出すべき既存の社会構造と言うことができる。

この構造を歴史に当てはめて見てみる。例えば、第二次世界大戦時のナチス・ドイツ。アドルフ・ヒトラーによる命令で、ユダヤ人大量虐殺を事務的に行なった役人たち。そして、その命令に忠実に差別をしたヨーロッパ人たち。反抗するすべを持たなかったユダヤ人たち。ホロコーストを生み出したこの現象、自律という観点で捉えると、そこには自律がなかったことがわかる。軍事力・警察という暴力によって、命令を強制したナチス・ドイツは、自律とは正反対だった。ナチス・ドイツの兵隊や警察は、命令に従うだけ。ヨーロッパの住民は、兵隊や警察に従うだけ。ユダヤ人は、されるがまま。もちろん、ナチス・ドイツに抵抗したレジスタンスがいた。そのレジスタンスを助けた住民もいた。そして、このレジスタンスや住民たちに、”自律”を見てとることは可能だ。自分の人生を自分で決定すること。それが、レジスタンスという形で現れている。

現代のレジスタンスは、果たしてどこにいるだろうか? それは、簡単に言ってしまえばこうだ。現代のレジスタンスは、世界各地に顕在的に、そして潜在的に存在する。例えば、最近起こったアメリカ合衆国の移民取り締まりをする政府に対して起こった「王様はいらない」デモが象徴的だ。アメリカのオルタナティブ・メディアのデモクラシー・ナウ! は、毎日のようにアメリカ各地で起こるプロテスト運動を報道する。横断幕やプラカードを持ったアメリカ市民が、街を練り歩き、その最前列では、警察や軍隊と、武器を持たずに衝突する。市民は、そこで警察や軍隊に、ペッパー・スプレーをかけられて、目から涙を流しながら、それでもそこから退かない。自分のことは自分で決める。自分たちのことは自分たちで決める。政府が自分の意見と反することをしたらプロテスト運動をする。そのプロテスト運動は非暴力で行われる。この"自分たちのことは自分たちで決める"という考え方は、個人の自律がなければ行われることはない。アメリカ合衆国の移民取り締まり局という暴力性により、政府への信頼そのものが相対化された時に、人々は自律を再自覚して、プロテスト運動を行う。自律したレジスタンスは、今の社会にもこのように存在する。

人間において自律は可能か? という最初の問いに戻りたい。答えは、簡単だ、人間において自律は可能だ。地震の津波に出会った時、ナチス・ドイツの暴力に遭遇した時、アメリカ合衆国の移民取り締まり局の暴力に遭遇した時、人は権力を相対化せざるを得なくなり、そこにレジスタンスやプロテスト運動は生まれる。人が生きる限り、自律を実現できる可能性を人は秘めているし、それは現に実現してもいる。

映画『ポセイドン・アドベンチャー』

 

↓上の記事のCopilotによるフランス語訳

 

Traduction française

Réflexion sur The Poseidon Adventure|La possibilité de l’autonomie humaine

Dans cet essai, j’examine le film The Poseidon Adventure (1972, États‑Unis) à partir de la question suivante : l’autonomie est‑elle possible chez l’être humain ? Pour ce faire, j’utiliserai les notions d’autonomie et d’extériorité.

Le film met en scène un paquebot de luxe qui, frappé par un séisme, se renverse complètement ; le haut et le bas du navire s’inversent, et les passagers doivent trouver un moyen de s’en échapper. Environ trente minutes après le début du film, les passagers et les membres d’équipage, qui célébraient le passage du Nouvel An, sont violemment projetés contre le plafond lorsque le navire chavire. Le bateau fonctionne comme une métaphore de la société hiérarchisée : lorsque cette structure se retourne, ceux qui occupaient les positions supérieures tombent au plus bas, et les survivants doivent avancer vers ce qui était autrefois la partie inférieure du navire, désormais émergée à la surface. Ce qu’ils cherchent à atteindre n’est plus une position sociale élevée, mais la possibilité de vivre selon leur propre volonté.

L’inondation qui envahit le navire évoque l’Autre chez Lévinas ; la différence entre ceux qui grimpent au sapin de Noël et ceux qui restent en bas symbolise ceux qui s’orientent vers l’autonomie et ceux qui en sont incapables ; le sacrifice du prédicateur qui ouvre la porte de sortie évoque l’entrée vers l’autonomie.

Pour analyser ce film, je propose un concept clé : l’autonomie.

L’autonomie consiste à affronter une situation où son monde social s’effondre, à reconnaître l’énergie vitale qui surgit dans cette fissure, et à vivre ensuite selon une règle intérieure qui se forme lorsque les normes extérieures disparaissent.

Le paquebot représente la structure sociale. Il y a les concepteurs du système, le capitaine qui en assure la domination, et les passagers qui vivent sous ce contrôle — eux‑mêmes suffisamment riches pour voyager sur un navire de luxe. Lorsque le navire se renverse, la structure sociale se renverse avec lui. Les survivants se dirigent vers ce qui était la partie inférieure du navire, et les passagers, jusque‑là portés par le contrôle social, doivent découvrir une voie où ils vivent selon leur propre volonté. Ici, « monter » ne signifie pas accéder à une position sociale supérieure, mais atteindre quelque chose de plus éthique. En avançant vers ce « haut » par leur propre décision, les passagers deviennent, à la fin du film, des êtres autonomes.

Je souhaite maintenant universaliser la structure extraite du film.

Les personnes qui vivent sous le contrôle des couches supérieures de la société ne peuvent pas décider par elles‑mêmes. Mais lorsqu’elles parviennent à choisir leur propre voie, elles deviennent autonomes. Les structures sociales existantes refusent l’autonomie ; pourtant, lorsque ces structures se fissurent, l’individu peut relativiser son intériorité, produire une nouvelle norme et vivre selon celle‑ci : c’est l’autonomie.

La fissure signifie que l’extériorité devient visible. L’extériorité est ce qui n’appartient pas au social. Kant a formulé l’impératif catégorique : chacun peut devenir autonome en vivant selon une maxime universalisable qu’il adopte comme sa propre loi. C’est ce que j’appelle ici une norme.

Lévinas, quant à lui, affirme que la rencontre avec l’Autre détruit le moi, fait naître la responsabilité, et engendre l’éthique et la subjectivité. Cet Autre est l’extériorité ; l’éthique rend possible l’autonomie.

Ainsi, la structure de l’autonomie est la suivante : l’extériorité brise les normes, l’Autre se dresse devant soi, une responsabilité surgit, l’éthique se constitue, une norme intérieure apparaît, le sujet se forme, et l’individu s’élève vers l’autonomie.

Foucault décrit la société disciplinaire comme un espace compartimenté où les individus sont enfermés, surveillés par des gestionnaires, et nourris par des distributions. C’est la structure sociale dont il faut s’échapper par l’autonomie.

Appliquons cette structure à l’histoire.

Prenons l’Allemagne nazie pendant la Seconde Guerre mondiale : les fonctionnaires qui ont administré la Shoah sous les ordres d’Hitler, les Européens qui ont obéi aux discriminations, les Juifs qui n’avaient aucun moyen de résister.

Du point de vue de l’autonomie, il est clair que cette situation était dépourvue d’autonomie. La violence militaire et policière imposait l’obéissance. Les soldats et policiers nazis ne faisaient qu’exécuter des ordres ; les habitants européens ne faisaient qu’obéir ; les Juifs subissaient.

Bien sûr, il y eut des résistants, et des habitants qui les aidèrent. On peut y voir une forme d’autonomie : décider soi‑même de sa vie, même au prix du danger.

Où se trouve la résistance aujourd’hui ?

Elle existe partout, de manière manifeste ou latente.

Par exemple, les manifestations récentes aux États‑Unis contre les opérations de répression menées par les autorités migratoires — les protestations « We don’t need a king ».

Le média alternatif Democracy Now! rapporte quotidiennement des mouvements de protestation dans tout le pays. Des citoyens marchent dans les rues avec des banderoles, affrontant police et militaires sans armes. Ils sont aspergés de gaz au poivre, pleurent, mais ne reculent pas.

Décider par soi‑même. Décider collectivement de son propre avenir. Protester lorsque le gouvernement agit contre ses convictions. Et le faire sans violence.

Cette idée — nous décidons nous‑mêmes de nos vies — n’existe que si l’autonomie individuelle existe.

Lorsque la violence de l’agence de contrôle migratoire relativise la confiance envers le gouvernement, les citoyens réactivent leur autonomie et protestent.

Ainsi, l’autonomie se manifeste encore aujourd’hui sous forme de résistance.

Revenons à la question initiale : l’autonomie est‑elle possible chez l’être humain ?

La réponse est simple : oui, l’autonomie est possible.

Face au tsunami, face à la violence nazie, face à la violence de l’agence migratoire américaine, l’être humain est contraint de relativiser le pouvoir, et c’est là que naissent résistance et protestation.

Tant que l’être humain vit, il porte en lui la possibilité de réaliser l’autonomie — et cette possibilité se réalise effectivement.

他者性は消えるのか──映画『アンダー・ザ・スキン』が描く消去と普遍化の倫理

他者性はどこで消えるのか。 そして、その消失はどのような形で私たちの前に現れるのか。

映画『アンダー・ザ・スキン』を観るとき、まず最初に立ち上がってくるのは、 「これは何を描いている映画なのか」という、言葉にならない戸惑いだ。 物語は極端に削ぎ落とされ、説明は拒否され、 画面は“主体がどこにあるのか”を曖昧にしたまま進んでいく。

この映画は、ストーリーを追うための作品ではない。 むしろ、主体がどのように揺らぎ、どのように境界を失っていくのかを、 観客自身の感覚の内部で経験させるための構造を持っている。

その構造を読み解く鍵は、 「他者性がどのように消去されるか」という一点にある。 他者が他者として立ち上がる瞬間、 そしてその他者性が剥ぎ取られる瞬間。 映画はその両方を、言語化できないレベルで提示してくる。

だが、ここでひとつ問題が生まれる。

“他者性が消える”とは、いったい何が起きている状態なのか。 これは単なる心理的な変化ではない。 倫理の問題でも、関係性の問題でもない。 もっと根源的な、主体の構造そのものに関わる出来事だ。

この映画を観た多くの人が抱える戸惑いは、 まさにこの「構造」を掴めないことに由来している。

  • 映画の核心がどこにあるのか分からない

  • 他者性という概念が抽象的すぎる

  • 主体の揺らぎをどう読めばいいのか分からない

  • すでにある映画批評が難解でついていけない

こうした悩みは、思想的な映画を読むときに必ず立ち上がるものだ。 そして『アンダー・ザ・スキン』は、 その悩みを極限まで露呈させる構造を持っている。

だからこそ、この映画を読むためには、 **「他者性」「外部性」「主体」「所有」**といった概念を どのように扱うかが決定的になる。

本稿では、映画の表層的な印象ではなく、 その内部に沈み込んでいる“不可視の構造”を取り出す。

ただし、ここまではまだ“入口”にすぎない。 映画がどのように他者性を消去し、 その消去がどのような普遍化を生むのか── その核心は、画面の深部に潜んでいる。

ここから先は、その深部を丁寧に解読する。

 

↓続きは、note で有料公開をしています。興味のある方は是非読んでみてください!!

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雪は、残された宇宙人性

 

映画『TITANE / チタン』考察|赤ちゃんという外部性と他者

これから映画『TITANE / チタン』について書く。この映画は、赤ちゃんという“妊婦の内部に潜む外部性”が、人間をどのように変形させ、それを人がどう馴致し、その人の中に倫理が立ち上がるのかを描いている。ここでは、この映画を外部性・他者・倫理というキーワードで読み解いていく。

映画『TITANE/ チタン』(2021年、フランス)では、主人公の体の中に埋め込まれたチタン、主人公の妊娠する車との間の子供という、内部の中にありながら内部化されず、内部から滲み出てくる外部性が現れる。それは、人間の内部にありながら、馴致不可能で、同化せず、異物である外部性であり、主人公アレクシアを軋ませ、怯えさせ、抑うつにさせる。主人公は、映画の冒頭で車との子供である外部性を妊娠して、ラストでその外部性を出産する。その外部性と共に主人公アレクシアが生きて、そしてラストには主人公の仮の父親のヴィンセントがその外部性を抱くことでこの映画「チタン」は終わる。ここで描かれるのは、外部性との共生だ。果たして、映画「チタン」における外部性とは何だろうか? 人間は果たして、内部に侵入し、内部を変形させる外部性に、責任を持ち、倫理的に接することができるのだろうか?こう問いたい。

映画「チタン」には、幼少期に父親との世間的によくありそうな不和が原因で、頭にチタンを埋め込んだアレクシアという女性が主人公として登場する。アレクシアは体にチタンを埋め込んでおり、人間でありながら少し人間とは違う存在になっている。アレクシアは見た目は人間の女性であるが、頭の内部にはチタンを埋め込み、それはアレクシアが社会に完全に溶け込めないことを示している。アレクシアは、32歳になりダンサーとしてお金持ちの両親のもとで暮らしており、おそらく医者である父親との関係は良くない。アレクシアは、映画中で殺人を何度も犯す。それは、自分が恋人としての責任を果たすことへの抵抗だ。恋人として、ましてや親としての責任を引き受けることをアレクシアは拒絶している。あるショーの後に、しつこく付き纏ったファンを殺して、その直後に車とセックスをして、車との間の子をもうける。するとアレクシアは、体にテープを巻いて、女性であること、妊娠していること、子供を産むことを否定しながら生き始める。そして、殺人の容疑による逮捕を逃れるために身分を偽る。アレクシアは、エイドリアンと名乗り、ヴィンセントの男の子供として迎えられる。ヴィンセントは、アレクシアのことを何も言わずに受け入れる。アレクシアは自分が女であること、妊娠をしていること、妊娠による体の変化を拒絶しながら、ヴィンセントの関係から責任を自認して、成長へと向かう。そして、アレクシアの”混血児”の出産は、ビンセントの成長の次なる成長を予見する。

アレクシアは、幼少期に頭蓋にチタンを埋め込み、車とのセックスで車と人間との間の混血児を妊娠する。アレクシア自身が、社会の内部から幼少期に逸脱しており、その逸脱からアレクシアは、車とセックスできる体になる。アレクシアは、車との間の子を妊娠することにより、体の中に外部性を抱えることになる。外部性とは、社会の内側で成立する規範・同意が及ばない領域だ。人間社会のルールではなく、社会の外である世界のルールが外部性では覆う。外部性は、社会に侵入すると危機をもたらすが、同時に社会のルールを相対化する。そして、その相対化は社会から排除されてきたものを、社会内に包摂する契機にもなる。排除されてきたものを社会に包摂する時に、倫理が生まれる。

アレクシアは、外部性を受け入れることができない。それは、アレクシアが、殺人の罪を犯して警察に追われるために、自分の身分を隠していることから読み取ることができる。アレクシアは、ヴィンセントの子供であると偽って身分を隠して、女性ではなく男性として生きようとする。アレクシアは、体にテープを巻いて、胸の膨らみや、妊娠によって大きくなっていくお腹を締め付ける。アレクシアは、女性であることの外部性や、妊婦であることの外部性、母親であることの外部性を隠蔽して生きようとする。がしかし、アレクシアは人間であり責任から自由になることはできない。そして、アレクシアは、子供を産むという責任に向き合うことになる。それは、人間の逃れられない性だ。アレクシアは、自分の中の外部性にどう応答していくのか?

哲学者のエマニュエル・レヴィナスの他者性の倫理は、思想の世界ではよく知られており、レヴィナスの他者に関する多数の論文もある。レヴィナスは言う。人は他者と出会い、責任を持つことにより、倫理がその人の中に立ち上がり、それによりその人の主観ができると。他者とは、無限であり、無限は欲望である、とレヴィナスは言う。つまり、欲望とはフロイト的に言うならリビドーだ。リビドーは主体の内部において、他者を可能にする契機であり、倫理が立ち上がるための”霊的な力”だ。リビドーとは簡単に言うと、相手と繋がりたい欲求のことだ。こう考えていると、他者とは、自分の中にあるリビドー、つまり他者と繋がりたい欲求が、自分の中に他者を映し出したものと考えることができる。人間は、自分で見ることを通じて世界を感じる。それは、自分の中に生じたものが、自分の中にある像を生じさせるということでだと言える。よって、他者が現れ、責任が生まれ、倫理ができるのを可能にするのは、自分の中のリビドーであると考えることができる。だからこの場合、リビドーを霊性であると考えることができる。アレクシアを突き動かしていた、車へのリビドーは、他者により倫理が現れることの予告にすでになっている。アレクシアが映画の最後に責任を持つことは、映画の冒頭ですでに予感できる。

女性にとっての妊娠は外部性でもあった。ここで、フランスの哲学者でありフェミニストでもある、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの著書「第二の性」の英語版からの引用を載せる。

"In natural circumstances the conflict between the interest of the feminine individual and that of the species is so acute that it often brings about the death of either the mother or the child: it is human intervention, medical or surgical, that has considerably reduced - and even almost eliminated - the formerly frequent mishaps."   (p.485)

 

"自然の状況下では、女性個人の利益と種としての利益との対立が極めて激しく、しばしば母親または子どもの死を招くことがあります。医療的であれ外科的であれ、人間の介入が、かつて頻繁に起こっていた事故を大幅に減少させ、さらにはほぼ排除しています。"

 

この文章から理解できるのは、女性にとっては、妊娠というのは、死の危険性が伴うものだったということだ。死とは、生の外部にある。つまり死とは、外部性のことだ。アレクシアも死の危険性を感じながら、同時に、その死の可能性をもたらす妊娠が、人間とはどこか違う、つまり、人間と車の間の子供であることに強い不安感を覚えている。それは、映画「ローズマリーの赤ちゃん」で主人公の女性が悪魔の子供を妊娠するという描写と類似しいている。妊娠は、体の内部に”何か得体の知れないもの”があるという、主体の内部を変形させる外部性として現れる。

サウジアラビアの大学が出した論文”Reasons for childbirth‑related fear among pregnant women. A cross‑sectional study in a teaching institution” 妊娠女性の間での出産関係の恐怖の理由。教育機関でのクロス・セクショナル・スタディ の要約ではこう言われている。

 

"The primary fears included the fear of the baby being injured during delivery, fear of something being wrong with the baby, fear of needing a CS, and fear of experiencing tearing during birth (episiotomy). Older age, having an abortion, or having a vaginal birth were significantly associated with increased childbirth fears."

 

"主な恐れは、分娩時に赤ちゃんが負傷することへの恐れ、赤ちゃんに何か問題があるのではないかという恐れ、CS(帝王切開)が必要になることへの恐れ、そして出産時に裂傷(会陰切開)を経験することへの恐れでした。高齢、堕胎、または経腟分娩は、出産恐怖の増加と有意に関連していました。"

 

つまりは、現代においても、女性は、出産の恐怖に身を置かざる得ない状況があるということだ。出産は、死や外傷や精神的ストレスという外部性と女性が向き合うことであるという現実をこの論文は示している。

映画「チタン」や、レヴィナスや、ボーヴォワールや、サウジアラビアの大学の論文が示していることは、女性はセックス・妊娠・出産に関して、責任を持ち自らの中に倫理を新しく確立することだ。その時の他者とは、赤ちゃんだ。妊娠中の赤ちゃんとは、外部性である。そして、赤ちゃんを出産することは、倫理が立ち上がることに等しい。つまり、妊娠中の赤ちゃんは外部性となり、妊婦自身を崩壊させ、赤ちゃんが生まれると同時にまたそこに倫理が立ち現れる。そして、それはまた、ヴィンセントにおいても赤ちゃんという他者によって新しく倫理が立ち上がることを示している。

映画『TITANE / チタン』