自分の本当に言いたいこと

映画「40歳の解釈 ラダの場合(原題:The Forty-Year-Old Version)」を観た。

この映画は2020年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の原題タイトルは、The 40-Year-Old Virginという映画のタイトルにかけてある。このThe 40-Year-Old Virginという映画の邦題は「40歳の童貞男」という。The Forty-Year-Old Versionが女性の40歳の場合ならば、The 40 Year Old Virginは男性の40歳の場合と言っていい。

どちらの映画も、40歳になりそれなりの問題を抱えている人の話で、この両方の映画はコメディであることにも共通点がある。

The 40-Year-Old Virginの方は邦題からも連想されるように、下ネタが連発される映画だ。その下ネタの連発は、卑猥な言葉を言ったり、テレビの画面にアダルトビデオを映し出すといった具合だ。

それに対してThe Forty-Year-Old Versionの方も、下ネタがある。主人公のラダが、白人男性のお尻が大きいのを好んでいて吉兆の印としていたり、隣の部屋の隣人のセックスの音を壁越しに聞いているというものだ。また、ラダの友人のアーチ―というゲイの男性のオーラルセックスの映像を連想するような映像が瞬間的に映し出される。

The Forty-Year-Old Versionの主人公はラダという女性だ。この女性を演じるのは本名ラダ・ブランクという女性だ。名前が映画の登場人物と、俳優で共通していることからもわかるように、この映画の下地にはこの映画の主演俳優であり、監督でもあり、脚本家でもあるラダ・ブランクという女性の人生がある。

ラダ・ブランクという人は、ニューヨーカーで、脚本家で、ラッパーで、シナリオライターの教師で、ドラマのエピソードを受け持つ脚本を書くこともあり、プロデュースもし、俳優もこなすマルチなタレントだ。

そんな彼女が初監督をした映画がこのThe Forty-Year-Old Versionだ。映画の中でラダは、学校のシナリオライターの教師をして、ラップをする。しかもこの映画の監督や制作や脚本や主演はラダ自身がしている。この映画はまさにラダそのものだ。

この映画は白黒映画だ。なぜこの映画は白黒なのか?ラダはインタビューで、最近のヒップ・ホップは、あまりにあふれていて、あまりに性的にうるさくなっていると答えている。ラダはThe Forty-Year-Old Versionの中で、円熟して、傷つきやすく、洗練されたものを描きたかったと言っている。

ラダの好きな白黒映画には「狩人の夜」「失われた週末」「アパートの鍵貸します」といったものがある。いずれも成功してハッピーというようなヒップ・ホップの昨今のイメージからは遠い非常にシリアスな映画だ。

他にもラダは自身のフェイバリット・ムービーとして「狼たちの午後」をあげている。

狼たちの午後」という映画は、主人公とその仲間が銀行強盗をするという話だ。すると人々は銀行強盗をする、準備周到で、タフで、残虐な登場人物を想像するかもしれない。しかし、この「狼たちの午後」という映画は観る者その期待を裏切る。

狼たちの午後」の登場人物は、金庫の場所を知らず、人を殺せない。主人公が「そいつに銃を向けてろ」と強盗仲間に言うと、強盗仲間はこう言う。「僕に人は殺せないよ」と。銀行強盗はタフで残虐な人物ではない。

この映画の表現方法からもわかるように、ラダは映画に脆弱さを求めていることがうかがえる。その脆弱さとはこのThe Forty-Year-Old Versionの中では、自分の言いたいことをお金を前にすると言えなくなるという形で表される。

ラダはアパートの家賃の支払いに困っている。「家賃代が欲しい」とラダは言う。自分の主義主張より家賃の方が、つまりお金の方が先決なのだ。しかし、ギャングスタ・ラッパーのようにラダは成功を受け入れることができない。

ラダは白人のプロデューサーから、仕事の依頼を受ける。その時に、その白人の老人男性はこういう。「君の脚本は黒人らしくない」と。「今は、ハーレムの高級化で白人が黒人の居場所を乗っ取ろうとしている。それを書くんだ」と彼は言う。

ラダは黒人だ。白人の老年のプロデューサーが言う。「君の脚本は黒人らしくない」と。ラダが黒人で、ラダが脚本を書いているにも関わらずだ。白人が黒人の求めるものを決定するという侵略者的な姿勢がここに現れている。

ラダは貧困ポルノを嫌っている。貧困ポルノとは、貧困である状況を利用してお金儲けをすることだ。貧困ポルノの作品は、貧困家庭だったりを描く。その貧困に同情が集まる。そしてその同情を利用して作品を売るのだ。

そのためには主人公は貧しければ、逆境にあればあるほどいい。ラダはその老人のプロデューサーに対して言う。「ジャンキーの母親が出てくるのは?」白人のプロデューサーは言う。「ノーノ―それは違うよ。やっぱり高級化の問題だね」と。

白人のプロデューサーにとって、ジャンキーの母親は重過ぎるか、明らかに貧困ポルノっぽくて嫌なのだろう。黒人街であったハーレムの高級化により、低賃金の黒人が追い出されて、高級取の白人がハーレムを乗っ取っていく方が、無難だと彼は思ったのだろう。

ちなみに黒人街の高級化のことをgentrificationジェントリフィケーションという。この話題は新聞のニュースにも取り上げ得られている。アイビー・リーグ出身の銀行員やコンサルタントや弁護士の人たちが、職場に近いマンハッタンに住むようになった現象だ。黒人の住民が、家賃が上がって暮らすことができないという訴えをしている様子が新聞で取り上げられている。

その被害にあっているのが実はラダという女性だが、彼女はジェントリフィケーションについては当初取り上げようとはしていない。ラダが最初に思いついた脚本は、雑貨屋を営む黒人夫婦の話で、妻が黒人の活動家という内容だ。

映画の傷つきやすさについて触れたが、この傷つきやすさがラダにもある。それは、自分の意見が通らないことへの傷つきだ。ラダの名前がクレジットされる作品なのに、ラダの意向が尊重されていないことへの憤り。それがこの映画の、ラダの脆弱性だ。そしてその傷つきやすさを現わしているのが、この映画が白黒である理由だ。

過去のラダが好きな白黒映画の、傷つきやすさを、ラダは表現しようとしている。それは、ラダが自分の声を、言葉を失わないための戦いであることが、ここから読み取ることができる。

ラダは自分の言葉を発するためにラップを利用する。ラダは10代のころラップをして自分の主義主張をしていた。その原体験が、40歳の戦いを強いられているラダに、自分の本当に言いたいこと、自分の声を取り戻させるのだ。

脚本家が自分の声を取り戻す作品には、「マンク」というデヴィッド・フィンチャー監督の作品がある。この「マンク」も自分の声を、映画の支配者であるランドルフ・ハーストから奪われていた自分の声を、最後にその自分の声を取り戻すというのが「マンク」という映画だった。

他にもこの映画のように学校の教師と生徒を描いた映画はたくさんある。「イカとクジラ」「ソウルフルワールド」「グッド・ウィル・ハンティング」「今を生きる」などがそういった映画だ。

イカとクジラ」では、自分の言いたいことを押し通すために、大衆のことを俗物呼ばわりする作家の父親が出てくる。言いたいことを押し通すことと生活の間のバランスが重要で、彼の妻は売れっ子の作家で、自分の言いたいこととセールスが結びついている。

「ソウルフルワールド」では、自分のやりたいと思っていたことが、何なのか実はわかっていなかったという作品だ。自分の声を手に入れる以前に、自分の本当に言いたいことがわかっていなかったのが主人公だった。

映画The 40-Year-Old Virginには、自分が好きな人がわかっているのに、人の好さが裏目に出て、他人の余計なアドバイスを聞き入れてしまうという話の筋書きもあった。自分の声がわかっていても、正直に動けないそれが人間なのかもという問題定義だ。

自分の心の声がわかっている人はそれだけで幸せなのだが、その自分の声の維持のためには戦うことが必要な時もある。そう教えてくれるのが、The Forty-Year-Old Versionという映画だ。

 

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国境なき恋愛

映画「COLD WAR あの歌、2つの心(原題:Zimma wojna)」を観た。

この映画は2018年のポーランド・イギリス・フランス合作映画で、2人の男女を描いたラブ・ストーリー・ドラマ映画だ。

この映画の主人公は2人いる。ヴィクトルとズーラだ。ヴィクトルとズーラはポーランドで生まれた男女だ。ヴィクトルは国の政策として、農民の間に伝わる民謡を採集して回る仕事をしている。

ヴィクトルは音楽の教育を受けたブルジョワのインテリのようだ。

それに対してズーラは父親に犯されそうになって、父を殺しかけ、国策で農民の間から民俗芸能の舞踏集団を作ろうとしている所に、都会から参加するような、素性を偽るような女性だ。

つまり、ズーラはそれだけ現状の生活から抜け出したかったのだろう。

インテリのヴィクトルと不幸な過去を持つズーラ。この映画では、この2人の間を裂くように東西冷戦が登場する。表立ってはヴィクトルとズーラの恋愛物語なのだが、その背景には冷戦という暗い影の存在がある。

ポーランドに生まれたヴィクトルは、インテリの人っぽく、西側の世界に憧れる。西側の世界とは自由と愛と平和の“帝国主義”の国々だ。それに対して東側の世界とは、欠落の世界だ。西側にある自由が特に東側にはないように感じられる。

ポーランドは東側の世界の一部だ。ヴィクトルは自由な西側に憧れて2度亡命した。それに対してズーラは、非合法な出国を行ったことはない。ズーラはヴィクトルほど西側の世界に憧れていない。

なぜか?それはズーラの愛し方に関係があるように思われる。ズーラはヴィクトル一筋ではない。ズーラは多くの人を同時に愛することができる。ズーラは愛に不自由することはない。西側の世界にいなくてもズーラは誰とでも恋愛できるという自由を手に入れることが可能だ。

ズーラにとって愛は西側で手に入れることのできる様々な物や名声や地位よりも高い位置に存在する。ズーラはヴィクトルほど“帝国”への憧れはない。ズーラは物があっても虚しいだけという資本主義の虚構さに気付いているかのようだ。

この映画を観ていると、ヴィクトルの生き方よりも、ズーラの生き方の方が格好良く思えてくる。理屈や正しさへのこだわりを持ち続けるヴィクトルと、あるがまま、時に美しく時に醜い愛に生きるズーラ。

愛だけで生きているように見える点で、ズーラはヴィクトルよりもシンプルで強い。ズーラの中にある基準は愛か愛でないかだ。

ズーラの愛への姿勢は実は国に対しても現れている。ズーラは一度も国に対する裏切り、つまり亡命をしなかった。ズーラはヴィクトルよりも精神的に自由だ。ズーラは東側にいながら西側の人たちよちも自由を愛した。ズーラは冷戦を超えて人を愛していたのだ。

善悪の発見

映画「私というパズル(原題:Pieces of a Woman)」を観た。

この映画は2021年のカナダ・ハンガリー合作映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画はある家族についての映画だ。ある家族とは、マーサとショーンという夫婦、マーサの母であるエリザベス、マーサの妹のアニー、アニーの夫のクリス、マーサのいとこのスザンヌだ。

そしてこの映画では、この家族に関わっている人物がいる。そのうちの一人が、助産師であるエバだ。

この映画は、映画中にリンゴをマーサが齧るシーンが何度も登場することからわかるように、聖書に関連する映画だ。旧約聖書の創成期の第3章の「蛇の誘惑」が、この映画に深い関りを持って要る。

この「蛇の誘惑」とは、エデン園の木の実を食べるように蛇が誘惑する有名な一節だ。エデンに住むエバに対して蛇は、エデンの園にある木の実を食べるように誘惑する。蛇は言う。「あの木の実を食べても永遠の命は失われないし、あの木の実を食べると善悪を知る賢いものになれるよ」と。

その誘惑にのってエバは木の実を食べてしまう。その木の実をアダムにもエバは勧める。するとそれ以降エバとアダムと、エバとアダムの子供には、つまり人間には、とある属性が宿るようになる。その属性とは以下だ。

まず、それまでは不死であったが死んで土に返るようになる。

裸でいることが恥ずかしくなる。

女(エバ)の子孫と男(アダム)の子孫の間に敵意が生じる。

はらみの苦しみが大きくなり、苦しんで子を産む。

男を求め男に支配されるようになる。

草を食べようとしても、食べられそうな草には棘があるので、土を耕して食べ物を、パンを得なければならない。

以上のような属性が、木の実を食べたエバとアダムに宿るようになる。

この映画ではこの創成期の第3章の「蛇の誘惑」にみられるような人間の属性について具体的に描写がなされる。

人は死に土に返る。この映画でも人はその営みを続けている。

アダムとエバの間の子孫の間には敵意がある。それはこの映画の家族を観ていればわかる。ショーンはエリザベスが自分に冷たいと言い、マーサは妹のアニータが自分に嫉妬していると言い。エリザベスはマーサにつらく当たり、ショーンは自動車セールスの仕事をしているクリスに無理やり車を買い取らせる。映画中には描かれないが、もちろん世界には紛争があふれている。

映画の冒頭23分間ほどは自宅出産の様子が描かれている。マーサは自分の娘イベット(YVETT)を痛みと匂いとに苦しみながら出産する。これは苦しんで出産するという旧約聖書の記述と同じだ。

マーサはショーンの力に支配されている。それは暴力的な意味でだ。マーサはショーンに腕力で強引にセックスされそうになったり、口論の結果としてバランス・ボールを顔面にマーサは食らう。これが支配でなくてなんだろうか?

食事は人間に必要なものだ。それはこの映画の世界でもかわらない。

この映画は、これらの人間の苦悩のいくつかが乗り越えられる物語となっている。

「蛇の誘惑」で蛇はエバに言う。「あの木の実を食べれば、賢くなって善悪が分かるようになる」と。確かにその結果として人間は裸であることが恥ずかしくなり服を着る。この映画でも当然のように登場する人間すべては服を着ている。それは、別の言い方をすれば、人が賢くなり善悪を知った証拠でもありえる。

ここで注意しておく点は、賢くなり善悪を知った人間は、「蛇の誘惑」で登場した人間の苦悩のいくつかを克服する可能性を持って要るということだ。生まれつき賢い人間は残念ながらいない。木の実を食べただけでは賢くないのが現実の人間だ。「蛇の誘惑」は、誘惑でしかないのか?

言い方によっては、実際の人間は、直観的に何が正しくて何が不正かを知っているかもしれないし、学習により善悪を知ることができるのかもしれない。直観よりも学習で得られることが多いのかもしれない。直観や学習で人は、プラトンの言ったようにイデアを想起することができる。それがおそらく善悪を知るということだろう。

この映画の中で乗り越えられる困難とは、敵意だろう。それは家族内の敵意でもあるし、家族と家族の外との敵意だ。

マーサは出産直後に自分の娘イベットを失うことになる。それをマーサの家族は、特にマーサの母のエリザベスは助産師の責任にする。助産師の仕事に不備があったのでマーサの娘は死んだとエリザベスは家族の中でも強く主張する。

マーサの子供の死はニュースになる。マサチューセッツ州のボストンのサフォーク郡で、マーサは暮らしているが、その地域でニュースとなっているのだ。マーサの母親の友達などは、助産婦など罰を食らえばいいとマーサを抱きしめて言う。マーサにはそれが苦痛だ。

映画の中のマーサは知的で冷静な女性だ。マーサは自分の中に善悪の判断の基準を持っており、常にその秤で自分や周囲の人たちをジャッジしている。夫の言動や母の言葉やらにマーサは常に細心に心を遣っている。

マーサはどこで善悪を手に入れたか?そのヒントはマーサの言葉にある。マーサは言う。「娘はリンゴの匂いがした」と。マーサは出産の後に何度もリンゴを食べている。リンゴとはそうエバが食べたリンゴだ。なんと、蛇が言ったようにマーサは子供を産むことにより、リンゴの匂いを嗅いだために、間接的に善悪の判断を手に入れたのだ。

マーサが娘を生むのを手伝った、助産師の名前はエバという。そうエバだ。リンゴを食べた旧約聖書の中のエバと同じ名前だ。おそらくエバは善悪を知っている人だ。マーサの娘の出産直後の死に深い悲しみを持ち、裁かれる立場を粛々と受け入れている。それはエバの表情を見れば伝わってくるものだ。

善悪の判断を娘の出産に置いて獲得したマーサはその後どう生きたか?それはきっと旧約聖書の内容にある人間の負の財産を克服するように生きたに違いない。

人間の負の財産?ここで連想されるのはマーサの母エリザベスの、ホロコーストの犠牲者としての立場だ。エリザベスはハンガリーユダヤ人で、ナチの迫害から逃れて必死に生きていた。

エリザベスが助産エバを訴えたのは、自分が外部からのプレッシャーを常にはねつけて生きてきた証拠だ。エリザベスは言う。「私は医者に見捨てられそうになった。衰弱して弱った私を医者はさかさまにしてこう言った。もしこの子が頭を持ち上げたら診察してあげよう」と。

エリザベスはあからさまなユダヤ人差別を生き抜いてきたのだ。自分と外部との接点に敏感であるのが、エリザベスだ。エバを責めるのには理由があった。それはエリザベスのナチスにより強化されたユダヤ人差別と闘う心だ。エリザベスは攻撃的であることでしか生きられない女性になってしまったのだ。

このエリザベスの攻撃性というものを実はマーサ持って要る。それは、彼女自身が身に着けているリッチな人間の生き方だ。それが実はショーンにとってはプレッシャーとなっている。

ショーンは男らしくあることが誇りの人間だ。ショーンはブルカラーの人間だ。ショーンにとっての恐怖は自分の男らしさを貶めるかもしれない、妻のつまりマーサのリッチな生活態度だ。

ショーンには日常生活が常にプレッシャーだったに違いない。実は、娘のイベットをつくった時の2人の間のセックスは、ショーンの適切でない性交によるものだった。ショーンは酔っぱらって、おそらく力でマーサを押さえつけてセックスしたのだろう。

ショーンは実は元中毒者だ。そして娘の死に耐えられずに、また薬物にはまり、マーサのいとこのスザンヌと浮気している。ショーンは映画の中で見られる男性性の影の部分だ。マーサのように娘の死から復活できるかはショーン次第だろう。

マーサは娘の死により、否、娘の誕生により善悪を知る賢いものになることができた。すべての人間にこの神の恩寵のようなものが到来することを期待するのは、誰もが同じことだろう。マーサのように、我々は生きるべきなのだ。そう、この映画ではマーサがまさに生まれてきた娘なのだ。

愛されなかった分だけ、愛されたい

映画「キング・オブ・コメディ(原題:The King of Comedy)」を観た。

この映画は1982年のアメリカ映画で、映画のジャンルはサスペンス・ドラマ映画といったところだろうか?

この映画の主人公はルパート・パプキンという34歳の男だ。ルパートは自分のことをコメディアンと言っているが、実は人前ではコメディを披露したことがない。しかし、ルパートはテレビのコメディ映画に出て、一夜の王となることを夢見ている。

一夜の王とは、夜中に放送されるコメディのテレビ番組に出て人気者になるということだ。

この映画には実際の映画中の出来事とルパートの妄想が描かれている。映画での実際の出来事の途中でいきなりルパートの妄想が入り込む。ルパートの妄想は、ルパートが夜中の人気番組の司会者と会話しているところとして挿入される。

ルパートは人気番組の司会のコメディアンに気に入られて6週間番組を担当してくれと頼まれる。そうそれはルパートの妄想だ。

ルパートは貧しい生まれで、両親はアル中でろくに愛情を与えられずに育ったいじめられっ子だ。そんなルパートは一夜の王になることに人生を賭けている。ルパートはその夢に賭けているがために、テレビスターにまとわりつく人間になっている。

ルパートのような人物はこの映画の中でもう1人描かれている。それはマーシャという女性だ。マーシャもルパート同様両親から愛されずに育った女性だ。精神科医にかかっているらしい。

マーシャはルパート同様に夜の人気番組の司会のコメディアンのジェリーに強くこだわっている。ルパートとマーシャはジェリーの好意を手に入れたいがために始まった暴走で、ジェリーを誘拐することになる。

マーシャとルパートはジェリーを白いガムテープでぐるぐる巻きにして拘束する。マーシャはジェリーにセックスを強要し、ルパートはジュリーの身柄の引き渡しと引き換えに、夜の人気コメディ番組の出演を果たす。

そこでルパートがネタとして話すのが、自身の生い立ちだ。それは前述した通りにどん底の生活だ。

ルパートがなぜ夜のトークショーのコメディアンに憧れるのか?それは皆がその番組を好きだからだ。皆に好かれたいというのがルパートの本心なのだろう。少しの人間から好かれているのではなくて8700万人の人から同様に好かれたい。

それがルパートの思いなのだろう。なぜルパートが人々の愛情に飢えているのか?それは、ルパートが子供のころに周囲から愛されていなかったからだろう。愛情の欠如が、より可能性が低いが、得られる量は大きく見える人気を求める気持ちに変わる。

ルパートは愛されたくて愛されたくてしかたない人間だ。しかし、それはルパートだけのことだろうか?否、愛されたいのは皆同じだ。ただそれが与えられるかどうかが問題なのだ。

プレッシャーと許し

映画「WAVES/ウェイブス(原題:Waves)」を観た。

この映画は、2019年のアメリカ映画で、映画のジャンルは青春映画だ。

この映画の主人公は、タイラー・ウィルアムズという、18歳の青年期にある男の子だ。タイラーには、エミリーという妹がいる。また、タイラーは建築ビジネスのオーナーであるロナルドという父と、医師で継母であるキャサリンという母を持つ。

この映画は青春映画と書いたが、それは主人公タイラーが大学進学を控えた学生であることにも由来する。タイラーは、スポーツのエリートでレスリングをやっている。大学の学費にも、レスリングの奨学金を当てるつもりで両親はいる。

タイラーには、チアリーダーのアレクシスというガールフレンドがいる。アレクシスはエミリーとも交流があり、映画中化粧台の前でエミリーとアレクシスが仲良さそうに会話をするシーンもある。

タイラーはアフリカンアメリカンの中産階級の家の子供だ。豪邸に住んでいる。大きな車もある。タイラーの父の教えはこうだ。「中産階級にとどまるな。これは通過点でしかない。もっといい場所を目指せ」。

タイラーは日常的に競争社会のプレッシャーに耐えている。学校ではレスリングのコーチがタイラーたちのチームメンバーにこう繰り返すように要求する。「負けるものか。俺は最新鋭マシン」。こうコーチとチームメイトは繰り返す。

タイラーの父ロナルドも、タイラーに日常的にプレッシャーをかけてくる。家族の外食の際にも、ロナルドは息子を自分と腕相撲するように促す。2人の間に遊びはない。腕相撲も本気の腕相撲だ。ロナルドは、腕相撲でタイラーに勝つ。ロナルドはそれにより息子を抑えつけている。

ロナルドのタイラーへのプレッシャーは続く。タイラーが家の建築の現場でロナルドの仕事の手伝いをしていると、ロナルドはこう言う。「お前もいつかこれくらい大きい寝室を持つことができる」と。ロナルドの上昇志向はタイラーにとっての抑圧になっている。

タイラーはそのプレッシャーにどう耐えているのか?強い精神力か?違う。タイラーは、父親のロナルドからのプレッシャーをストレスに感じていて、水筒にウォッカを入れて飲み、そのウォッカで、父親が昔スポーツで痛めた膝のための鎮痛剤を飲んでいる。

その鎮痛剤は、バスルームのキャビネットに置いてあり、薬のラベルには父のロナルドの名前がプリントしてある。その鎮痛剤は、オキシドコンで、オピオイドと呼ばれる鎮痛剤の一種だ。

オピオイドは痛み止めに使われるが、オピオイドはドラッグでもある。オピオイドはケシの実から採られるアヘンの成分から取り出すことができる。ケシの実から採りだされるわけではないが、似たような効力を持つものもオピオイドと呼ぶ。そしてその害は変わらない。

アヘンと聞いて思い出すのが、イギリスが中国との間で起こしたアヘン戦争だ。イギリスは東インド会社とインドのベンガル地方でアヘンを大量に栽培し、それを中国に輸入していた。

中国側はアヘンの輸入を好ましく思っていなかった。そこで中国はアヘンを没収して焼却した。それに対してイギリス政府と密売者が怒り、賠償を中国に請求した。その請求を中国が拒否するとアヘン戦争が始まった。アヘンの害は国家を動かす。それがアヘン戦争だ。

アメリカではオピオイド危機というものが起こっている。医師が病気の治療にアヘンの成分であるオピオイドを使っていたのだ。それにより患者がオピオイド中毒になった。そしてオピオイドは非正規の市場でもドラッグとして出回ることになった。

オピオイドは過剰に摂取するとオーバードーズして死に至る。そのような医薬品は販売するべきではない。しかし、製薬会社のパデュー・ファーマはオピオイドの医薬品を販売し続けた。販売促進のために、医者に日常的に無料の昼食をプレゼントしていた。

インターネットサイトであるWEDGE Infinityの、2019年の9月24日の「鎮痛剤オピオイド危機に見るアメリカ社会の病理と深層」というジャーナリスト斎藤彰氏による記事では、「アメリカでは2017年1年間に170万人が精神障害を引き起こし、そのうち4万7000人が死亡した」とある。

これはCNNテレビが2019年の8月28日に放映した“オピオイド危機”関連番組の中で紹介された、連邦保険・人的サービス省(HHS)のデータをもとにしたものだ。数万人単位で人がオピオイドにより死んでいるという現状がここでわかる。

オピオイドアメリカ中に蔓延していると言われている。タイラーもアメリカのオピオイド使用者の一人だ。アメリカの若者の中にはオピオイドを自ら非公式に購入する人たちが後を絶たない。

オピオイドには嘔吐や、イライラ、などの副作用がある。タイラーもその副作用に苦しめられている一人だ。タイラーは壊した左肩の状態を両親に伝えることができない。なぜなら、それはタイラーの父であるロナルドをがっかりさせることになるからだ。

このようなタイラーの状況は、この映画の監督のトレイ・エドワード・シュルツも体験した状況だ。シュルツも10代の頃にはイライラしていたとインタビューで語っている。怒りで自分の部屋の壁を殴ったとシュルツは語る。

シュルツの継父は、アルコール中毒家庭内暴力をふるう人だった。シュルツは長い間父親と会っていなかったが、付き合っていたガールフレンドに、父親に会うことを勧められ、シュルツは膵臓がんの父に会いその模様をヴィデオに撮った。そのヴィデオを、エミリーの恋人役のルーカス・ヘッジは観ることになる。

この映画は家族の危機についての映画で、前半と後半で分かれている。前半はタイラーを中心とした物語で、後半は妹のエミリーを中心とした物語だ。前半は高圧な父親の下で破壊されていく青年の物語だ。それに対して後半は父親の謝罪と、許しの物語になっている。

前述したように後半は、タイラーの妹のエミリーとその恋人ルークを中心とした物語だ。エミリーは人気者の兄の存在で影に隠れている人物だ。父親のロナルドもエミリーのことは気にかけていない。

そのエミリーが父親の謝罪や、父親への許し、そして自らの罪悪感の克服を行っていくのが後半部分だ。エミリーの抱えた罪悪感は、タイラーが人を亡き者にするのを止められなかったことにある。

ロナルドもルークの父親も、男らしさ(manhood/masculinity/virile)を捨てられない男だ。男は家庭に入ると、男性としての威厳、つまり男らしさに憑りつかれてしまうようだ。それは彼ら自身の焦りでもある。

すべての男性が、男らしさを誇示するわけではないかもしれないが、少なくとも、エミリーとタイラーの父ロナルドと、ルークの父はそのようであったのかもしれない。前述した監督自身の記憶にと類似して、ルークの父は家庭内暴力をふるっていた。

男らしくあるために、弱みは他人に見せることができない。その脅迫が、焦りをもたらし、家族を傷つけてしまう。それが、男らしさのもたらす悲劇的な結果だ。それにはきっと家父長制も関係している。

ロナルドは自分のつらい心境をエミリーに告白する。タイラーは刑務所へ。妻は顔を見てくれない。ロナルドは涙を流す。そして言う。「エミリー、君は愛にあふれた人になって欲しい。憎しみは何も解決しない」と。

これを男性から追いつけられた女性らしさとみる見解もあるだろう。しかし、ロナルドの言う愛は、すべての人間が共有すべきものと捉えることができる。愛は理性と対立するという指摘もあるが、この場合の愛は、人々を繋ぐよいものとしてとらえられている。

そして、ルークの父親も死の床で、ルークとエイミーの前で泣く。それはルークの父なりの男らしさの捨て方だったのだろう。そしてその時ルークの父親は、男らしさを捨てて、息子に許されることができたのだろう。

ウィリアムズ一家は、フロリダ州の南にあるマイアミに住んでいる。海に近く、カラフルで、楽し気な土地だ。そのような土地でも、当然、苦難や、苦悩はある。タイラーがそれにより、恋人を殺めてしまったように。人が生きていくには、成功ではなく、許すことが優先されるべきだろう。

 

参考資料

www.theguardian.com

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www.nytimes.com

www.washingtonpost.com

www.spokesman.com

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ただ生活のために

映画「バリー・シール/アメリカをはめた男(原題:American Made)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、実録ドラマ映画だ。

この映画の主人公は、バリー・シールというパイロットの男だ。バリーは最初は民間のIWAパイロットだったが、1978年頃にCIAにリクルートされて、CIAの作った独立航空コンサルタント会社(略称IAC)で働くことになる。

バリーはCIAの指揮の下で、盗撮を行っていた。盗撮というのは、当時アメリカはソ連と冷戦状態で、共産圏の情報が欲しかった。そこでバリーという腕利きのパイロットを雇って、飛行機を低空飛行させて、アメリカの対立国となる共産圏の国の航空写真を撮っていたのだ。

そのバリーの働きに目を付けた集団がいる。それはメデジン・カルテルのボスたちだ。カルテルのボスたちはバリーを麻薬の運び屋にしようとする。南米にあるコカインをアメリカに密輸入させるためだ。

CIAはケチだった。バリーに家族を余裕を持って養わせる分の給料を与えていなかった。バリーは金銭的な理由でメデジン・カルテルの運び屋の仕事をするようになる。

バリーは南米の共産圏の国の航空写真を盗撮して、南米からアメリカへの帰りにメデジン・カルテルのコカインを持って飛ぶ。もちろん麻薬の密輸は犯罪だ。

バリーとメデジン・カルテルは摘発される。バリーはアメリカ政府に捕まるが、そこでCIAがバリーに対してこんな交換条件を出す。

「お前を無罪にしてやる。その代わり、イスラエルから奪ってきたソ連産の武器をニカラグアの反政府組織コントラに密輸しろ。お前が麻薬で手にした金は好きにしろ」と。

当時ニカラグアには共産主義の政権であるサンディニスタが誕生していて、アメリカはサンディニスタが気にいらなかった。そこでアメリカは反サンディニスタのコントラを支援することにしたのだ。

ところでなぜ邦題のタイトルが「バリー・シール/アメリカをはめた男」なのかという理由は以下だと思われる。それはバリーはアメリカがコントラに流していた武器を実際にはコロンビアに密輸していた。

コントラの武器になるはずのものが、コントラの手に渡っていなかった。バリーはアメリカ政府を騙したのだ。ここで疑問が生じる。おかしい。コントラは反サンディニスタで武器が欲しいはずじゃないのか?

だが武器をコントラに送らなくても問題はなかった。コントラが欲しかったのは武器ではない。コントラが欲しかったものはお金だ。

コントラは武器を受け取る代わりに、南米のカルテルの麻薬を受け取り、それをアメリカに売っていた。コントラアメリカのためではなく(アメリカのためならコカインを密輸するはずはない)自らの経済のために動いていた。

映画中、アーカンソー州のミーナにコントラの兵士たちが訓練のためにやってくるシーンがある。アメリカに着くと一部のコントラの兵士はアメリカに逃げ込む。コントラの兵士もただ生活したかっただけなのだ。

社会的個人

映画「フォードvsフェラーリ(原題:Ford v Ferrari)」を劇場で観た。

この映画は2019年のアメリカ映画で、映画のジャンルはレーサーもののドラマ映画といったところだろうか。

この映画の主人公は2人いる。1人はカー・レースのレーサーであるケン・マイルス。そしてもう1人は、元カー・レースのレーサーで、カー・レース・チームのリーダーとなるキャロル・シェルビーだ。

マイルスとシェルビーは、フォード社のレース・チームのレーサーとチーム・リーダーだ。フォード社はフェラーリフィアットの買収で恥をかかされる。

フォード社はフェラーリを買収しようとしていたが、フォードがフェラーリに買収されることがフィアットが知ると、フィアットフェラーリを買収することが決まる。フェラーリは自社の価値を高めるためにフォード社に買収される話をしておいて、フィアットフェラーリを高く買わせた。

この事実にフォード社の社長であるヘンリー・フォード・2世は激怒し、「ル・マン・レースで、フェラーリを叩き潰せ」と社員に命じる。そしてフォード社の社員の役員の1人であるリーという人物が、キャロル・シェルビーをフォード社のレース・チームのリーダーにして、フォード社のレース・チームを作り上げる。

この映画でポイントとなるのは、企業というチーム・プレイの世界と、レーサーという個人主義の世界だ。

フォード社はレースの勝者となるのは、フォード社の車だから意味があるのであって、レーサーにはレーサーで表彰台に立つことを求めてはいるが、レーサーの栄光よりも会社の利益を優先に考えている。

つまりフォード社にとってレースは自社の利益のための道具でしかない。

しかし、一方レーサーにとってレースは自身の成功のための舞台だ。テスト走行を繰り返し、マシーンの欠点を洗い上げて、レースに勝てる車を作り上げていく。その一員としてレーサーは自分の技術をかける。

会社よりは、レーサーにとっては自分のチームのためという狭い範囲での戦いだ。車の良し悪しを判断するのは、レーサーのテスト走行となってくるので、レーサーは周囲からも尊重される存在だ。

会社の利益と個人の栄光。この2つの間でのせめぎあいが、この映画の見どころだ。

この映画のラストでは、ケン・マイルスという一個人が、会社というチーム・プレイのために自らの栄光を退く姿が見られる。映画の中でさんざん自己中心的に振舞ってきたマイルスが、会社の利益を優先させる。

マイルスにはピーターという息子とモリーという妻がいる。家族の生活を考えるならば、個人の欲望に従って生きているだけではいけない。家族のために利益を上げなければならない。それがアメリカン・ウェイを行く家庭の理想像だからだ。

会社や家族といった社会の理想像とは少しずれた位置にいるのがカー・レーサーという職業かもしれない。そして時にレーサーにも社会からの恩恵が与えられるのだ。