最適化の陥穽

映画「マッチ工場の少女(原題:The Match Factory Girl)」を観た。

この映画は1990年のフィンランド映画で、映画のジャンルはコメディ・ドラマ映画だ。

この映画の主人公は、イリスというマッチ工場で働く少女だ。イリスは、母親と義理の父と同居をしており、兄も近くに住んでいる。イリスの母親と義父は、イリスを工場で働かせて、イリスの少ない給料の収入で、家族は生活をしている。母親と義父は、仕事しないし、家事もしない。イリスが仕事をして、家事もこなす。イリスが、母親と義父を養っている。イリスの兄は、母親と義父が嫌で、家から出ている、ロックな容姿の、レストランで働くイリスには優しい兄だ。”Economic Crisis and Social Policy in Finland in the 1990s”というHannu Uusitalo によって書かれた1996年10月の論文では、フィンランドは1980年代は福祉国家で好景気で、1990年代に入って不況に陥り、経済政策も新自由主義的なものに舵を切ったとある。この論文の2ページのグラフを見ると、フィンランドの経済成長率が1989年には6%ほどだったのが、1991年にはマイナス7%ほどになって、約13%も経済成長率が落ちていることがわかる。このグラフは1985年から1995年までの経済成長率の統計を示しているが、このグラフの最高点が1989年で、最低点が1991年だ。フィンランドの経済成長率は、1989年と1991年の間に、その10年の最高値から最低値に落ちたことになる。この映画「マッチ工場の少女」は、1990年のフィンランドの景気が一気に下降していっている時に発表された映画だ。1990年のフィンランドの経済成長率は、だいたい0%だ。だが、映画は映画が発表される2年ほど前から制作が始まるので、1988年の経済成長率がこの映画「マッチ工場の少女」には反映されていると考えられる。1988年の経済成長率は、5%ほどだ。つまり映画「マッチ工場の少女」では、好景気の中の貧困が描かれている。この映画監督のアキ・カウリスキマの他の映画には、1986年の「パラダイスの夕暮れ」、1996年の「浮き雲」などがある。1980年代は福祉国家で好景気だったと、この先の論文で述べられているが、映画「パラダイスの夕暮れ」が発表された2年前ころのデータは、この論文からはわからないが、1985年のフィンランドの経済成長率は2%ほどだ。1980年代は好景気だったと論文で述べられているので、映画「パラダイスの夕暮れ」で描かれているのは、好景気のフィンランドにも経済格差つまり不平等が存在していた、ということだろう。1996年の映画「浮き雲」では、経済成長率が回復していたころに出された映画だが、映画は発表年の2年位前から制作が始まり、その1996年の2年前1994年のフィンランドの経済成長率は2%台まで回復をしている。だが映画「浮き雲」で描かれるのは、仕事を失って貧困に陥る家族の話なので、映画「浮き雲」は、1991年直後か、その余韻が残る時期の、フィンランドの状況を描いていると考えられる。1986年の「パラダイスの夕暮れ」、1990年の「マッチ工場の少女」、1996年の「浮き雲」と、どの映画でも、フィンランドが好景気でも不景気でも、監督アリ・カウリスマキは、貧困に焦点をあてて映画を作っていることがわかる。アリ・カウリスマキは、映画「マッチ工場の少女」が発表された1990年に映画「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」が世界中でヒットして、有名になった。この映画「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」では、ツンドラの厳しい環境の貧しい農村に住むバンドをやっている人たちが、バンドの成功を夢見てアメリカに渡る、というところから映画は始まる。ここでも、アリ・カウリスマキは貧困をテーマとしている。先の論文を読むと、1986年から1994年の間にも、フィンランドでは移転所得があったとある。移転所得とはつまりは、年金、病気の人に対する保険、失業保険などの、再分配のことだ。1980年代のフィンランド福祉国家だったので、この所得再分配がしっかり行われていた。この映画「マッチ工場の少女」の製作開始時と思われる1988年には、この移転所得と呼ばれる再分配が行われていた。イリスの母は多分病気がちの母親で、失業しており、おそらく失業保険の対象かもしれないし、何らかの再分配を受けていてもおかしくはない。義理の父親の方も、失業保険か他の何らかの再分配を受けていてもおかしくはない。ただ、この2人、イリスの母親と義父が、再分配制度の落とし穴に嵌っていることも考えられる。再分配制度の網からこぼれ落ちているのが、この母と義父で、だから2人はイリスのマッチ工場で稼いだ給料に依存せざるおえない状況になっているとも考えられる。映画の後半で、イリスに義父が「お前の母親は病気になった」と言うので、その時点で、イリスの母と義父は、イリスの母の傷病手当のような再分配を獲得したということだろう。また、その時点でイリスは家から追い出される。つまり、傷病手当があるから、イリスの稼ぎがいらなくなり、口を減らすということだろう。

この映画「マッチ工場の少女」で描かれるのは、貧困と社会福祉とおそらく社会福祉からこぼれ落ちてしまう人たちのことだ。山本譲司の「累犯障害者」という本があるが、その本には、日本の社会保障からこぼれ落ちてしまう人たちの存在も描かれていた。この本からではないが、例えば、日本の知的障碍者入所施設では、入所者は、狭い個室を自室として、風呂、トイレを共同で使い、食事は食堂でみんなでとる。こういった知的障碍者施設にプライバシーはない。入所者=知的障碍者は、生活支援員=施設の従業員に、生活を管理監視される。まるで、ミシェル・フーコーが本の中で引用したパノプティコンだ。資本主義は、すべての人を“普通”“健常者のような生活”にあてはめようとする。よって、生じるのは、そのシステムで障碍者とされる人たちの誕生であり、その障碍者と呼ばれる人たちの間の強いストレスだ。アマルティア・センの“ケイパビリティ”という思考がここで重要になってくる。人には、それぞれ異なった能力・無能力が存在しており、均一なサービスを提供しても、それは悪平等で、ある人はその均一なサービスで暮らすのに十分だが、ある人は均一なサービスでは足りないことになる。均一なサービスは、結果の不平等をもたらす。そのケイパビリティの考え方に、資本主義の押し付ける“健常者並”という思考を排除する思考を足せば、前述した入所型知的障碍者施設のパノプティコンを壊すことが可能ではないか? そう思えてくる。

資本主義が作り出す“健常者”。そこから外れた人への再分配。その再分配からもこぼれ落ちる人たち。再分配の齟齬が生み出すストレス。福祉国家フィンランドでも、資本主義の問題と同じ問題が起こっている。それは、フィンランド福祉国家でも、資本主義と通じるものを持っていたからだろう。資本主義は、福祉国家をも浸食しているのかもしれない。