少年のロックンロールと、人間的成熟と

映画「愛しのタチアナ(原題:Pida huivista kiinni,Tatjana、英題:Take Care of Your Scarf,Ttjana)」を観た。

この映画は1994年のフィンランド映画で、映画のジャンルはロードムービー・恋愛ドラマ映画だ。

この映画に登場するのは、フィンランド人のヴァルトとレイノという中年の男性と、エストニア人のタチアナ、ロシア人のクラウディアという2人の女性だ。

この映画の舞台は、1960年代のフィンランドだ。

1953年に公開された映画「乱暴者」では、バイクに乗る暴走族が取り上げられ、暴走族のリーダーをマーロン・ブランドが演じた。革ジャンを着込んで、バイクを乗り回す姿が印象的な映画だ。

また、その翌年1954年にはビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が発表された。「俺たちはロックしたいんだ」と歌うこの曲は、2000枚を売り上げた大ヒットシングルで、映画「暴力教室」の主題歌にもなった。

1960年代の北欧では、ロックンロール、リーゼント、オートバイを愛好する人たちがいた。まさに1950年代のアメリカの文化の影響が、北欧にも伝わってきていた。そして、そのアメリカ文化の影響を受けたうちの2人が、この映画の登場人物のヴァルトとレイノだ。

映画の冒頭では、バイクに乗った男女が、道路を疾走する映像が映し出される。ここから、この映画は、ロックンロールで、バイクで、不良で、アメリカ文化の影響を受けているとわかる。

またヴァルトとレイノも髪をリーゼントにしている。ヴァルトは中年になっても親元で暮らし、ミシンで子供服を作って生計を立てている。ヴァルトはコーヒーばかりを飲んでいる。そして、煙草をこよなく愛する。

レイノもヴァルトと同じように結婚しておらず、子供も持たず、酒を飲んでは、馬鹿話をしている。レイノは自動車の修理工の仕事をしているが、その仕事の技術はでたらめだ。ヴァルトの車の修理をしてなぜか、車のエンジンに換気扇をつけている。

この映画はコメディだ。ヴァルトは母親のコントロールの影響にあり、ヴァルトと母親の掛け合いは、ヴァルトの年齢に合わない子供っぽさが現れていて、どこかクスっと笑える。レイノの話も、どこか調子はずれで、情けない感じが出ている。2人はリーゼントとスーツと革ジャン決めた、ロックンローラーなのに。

ロックンローラーは反抗する者だ。反抗する者には、反抗する相手がいる。その相手とは、一般的に親世代とされる。つまり、いつまで経っても親に反抗しているロックンローラーは、大人になるのを拒否する。ロックンローラーはある意味子供でいることに執着する。

ヴァルトは、レイノに車の修理をしてもらい、その車で2人でちょっとした旅に出ることになる。それはフィンランドの首都ヘルシンキまでの旅だと思われる。

ヴァルトとレイノは、車の旅の途中に、タチアナとクラウディアという女性を車に乗せる。その2人の女性が、「私たちは故郷タリンに帰るところなの」と言う。

フィンランド湾に面する主要都市には、フィンランドヘルシンキ、ロシアのサンクトペテルブルクエストニアのタリンがある。彼女たちは「タリンへ帰る」と言うので、4人は、フィンランドヘルシンキの向かい、タチアナとクラウディアはヘルシンキの港から、エストニアのタリンの港に向かおうとしているのだろうと推測できる。

タチアナはエストニア人の女性で、クラウディアはロシア人だ。4人が出会った当初、ヴァルトとレイノは、2人がフィンランド語を話さないので、タチアナとクラウディアを馬鹿にする。

その前にも、レイノは馬鹿話の中で、北欧のラップランドのことを馬鹿にしている。「あそこにはトナカイしかいない」と。ラップランド人について描いた映画には「サーミの血」がある。ラップランドとは差別語だ。ラップランド人と呼ばれたサーミの人々の暮らしがわかるのが、映画「サーミの血」だ。

サーミの人たちは、北欧で差別されてラップランドに住むラップランド人と呼ばれた。サーミの人たちは、北欧の先進国の作った学校に通わされ、サーミ以外の言葉を強制され、“ラップランド人の標本”として裸にされて写真を撮られ、北欧のサーミ以外の人たちから差別された。

レイノは、はっきりとラップランドへの差別感を現わす。レイノはつまり嫌な奴だ。レイノはエストニア人のタチアナのことも最初は馬鹿にしている。「俺はフィンランドの女しか興味がない」というように。

しかし、映画の最後で、レイノはタチアナに恋をする。そして、タチアナと一緒に暮らすことを決める。そしてこう言う。「俺は作家になる」と。レイノが、作家になるのは、とてもありそうにないことだ。ロックンロールと酒を愛してきた教養のない男が、作家になると言う。しかし、そこには変わろうとするレイノの決意がみられる。

一方、ヴァルトはクラウディアを愛することはない。ヴァルトは映画の終わりまで、母親の子供だ。反抗することを止めない。レイノは作家として闘う人間になるのかもしれないが、ヴァルトは反抗する少年だ。

ロックンロールは社会運動と結びつくのか? ロックンロールは、ただ暴力で意味もなく反抗しているだけの存在なのか? レイノが作家になるというのは、大人として社会の現実に対するという決意のように受け止められる。

ヴァルトは母親のもとで、ミシンで女の子の子供服を作り続ける。煙草を吸って、コーヒーを飲みながら。母親の支配から抜け出すことができない。だからきっとヴァルトはこのままでは永遠のロックンローラーだ。

昔、音楽評論家の渋谷陽一が、老いていくローリング・ストーンズなどの、60年代に生まれたロックバンドのことを「老いてこそロック」と評したが、まさに、ヴァルトは老いてこそロックの地を行こうとしているのかもしれない。

「老いてもロックなんかやって成長しないね」という意見もあるのかもしれない。ただ、ロックンローラーでも社会貢献ができる。自立した個人ではないかもしれないが、個々の貢献を社会に生かすことをロックンローラーもすることができる。

老いてこそロックなのなら、老いがロックの定義にはまって、矮小化してしまう気もするが、ロックの新しい姿を生み出したのが、60年代の政治的ロックだったように、ロックがただの子供の大人への反抗という子供じみた場所から解放されるのも難しいことではない。

60年代のロックは明らかに、政治的意向を持っていた。政治的意向はロックを一人前のものにした。大人は少年よりも糞かもしれない。それでも少年では頼りない。政治を志向する、一人前の人間。それは少年でも、大人でもなく、第3の人間の在り方なのかもしれない。