最低限の生活と仕事と幸福

映画「浮き雲(原題:Kanas plivet karkaavat、英題:Drifting Clouds)」を観た。

この映画は1996年のフィンランド映画で、映画のジャンルはドラマだ。

この映画の主人公は、イロナ・コポネとラウリ・コポネンという幼い子供を病気か事故などで失ったと思われる夫婦だ。イロナは38歳、ラウリは40代だ。

イロナは高級レストランの給仕長として、ラウリは路面電車の運転手として働いていたが、2人とも仕事を首になる。

路面電車は、車や地下鉄との競争で利用者が少なくなり、ラウリはリストラされてしまう。イロナは勤めているレストラン支配人が変わり、店長がローンの完済を迫られるようになり、結局チェーン店にレストランを売ることになった。

この映画の舞台の頃のフィンランドは、それまでのロシアに自国製品を輸出していた社会主義路線から変更し、西欧のネオリベラリズムに飲み込まれて、金融緩和が行われ、市場ベースの社会になっていた。

ネオリベラリズムの市場中心主義を世界に推し進めたのは、アメリカのロナルド・レーガンと、イギリスのマーガレット・サッチャーだ。当時のイギリスでは、労働組合が潰され、大量の失業者が生まれた。アメリカも1950年代の、福利厚生が手厚かった時代は、終焉を迎え、競争原理に社会が飲み込まれていた。

フィンランドはその金融緩和、市場中心主義という世界の流れに取り込まれていった。

金融が世界を支配するとどうなるか? それは2008年の世界金融危機を見ればわかることだ。アメリカでは、サブプライム・ローンというローンが低所得者に売られた。家を買って家を転売することで利益を得ていくこのローンは、家の価格が上がることが前提として作られたローンだった。

しかし、そのサブプライム・ローンのマジックは弾ける。家の価格が上がり、家を転売することで成り立っていた仕組みが崩れると、ローンは一気に負債になった。サブプライム・ローンは、家の価格が上がることで成り立っており、家が売れなくなれば、借金が残るのみだ。

家を買って、その家の価値で、別の家を買って、またその家の価値で、家を買って、を繰り返す。つまり、最初の家を買って、家を元値以上売った時に、その次家を買わなければ、その時にお金は手に入り、そこで家を買えるだけの金は自分たちのものになったはずだ。

しかし、ローンを組ませようとする人たちは、顧客に家を買わせることをすすめた。どんどん買って売って買ってを繰り返せ!! それがこのローンの額をどんどん膨らませ、最終的に、ローンは破綻した。それにより、多くのアメリカ人が、家を失うことになった。その様子は映画「ドリームホーム 99%を操る男たち」に描かれている。ちなみに、「99%」とは、アメリカの1%の富裕層以外の、庶民のことだ。

金融緩和では、このような不正な取引がまかり通るようになる。金融緩和とは詐欺のような状況を作りだしてしまう。そして、このような詐欺のような要素を持った金融緩和がフィンランドでも行われた。

そして、市場中心主義というのは、それまでのフィンランド社会主義とは全く異なるものだ。市場中心主義では、大企業が優遇されて、経営が少数者である特権者のために行われるようになる。

市場中心主義とは、自由競争が行われる公正な社会のような気もするが、実はそれは全くの勘違いだ。市場中心主義で行われるのは、市場による自由競争ではない。市場中心主義とは、1%のリッチが儲かるようになる市場の仕組みのことだ。

市場中心主義とは、自由競争ではない。

フィンランドはもともと社会主義国だった。そこでは、ロシアとの貿易が行われ、フィンランドの製品はロシアに輸出されていた。ロシアは専制的な社会主義国だが、一応社会主義だ。ネオリベラリズムに転向する前の、新自由主義の前のフィンランドは、国の労働者を守る方向に動いていたのだろう。

だが、ネオリベラリズム=新自由主義になったフィンランドでは失業率が10%になった、10人に1人が失業者になったことになる。その新自由主義のあおりを受けたのが、ラウリとイロナの夫婦だ。

このように書いているとこの映画は暗いだけの映画かと思われるかもしれないが、映画の序盤はこの映画はコメディだ。ただ、映画が進むとこの映画の背景、新自由主義に国が変わって失業者が増えていくという暗い部分が見えてくる。

このフィンランド第三世界であるという記述もあるが、当時のアフリカやラテン・アメリカ、アジアと比べれば、工業化が進んだ社会だ。この表現には、西側に取り残されたという意味合いがあるのかもしれない。

第三世界といえば、その国の特権階級が西欧の企業や世界銀行国際通貨基金と繋がり、一部の人たちだけが、つまり1%の特権階級だけが利益をむさぼる社会が出来上がっている。第三世界でも残りの99%は貧困の中にある。

第三世界にやってきた世界銀行国際通貨基金(IMF)御用達の多国籍企業が、その国に工場を建てる。しかし、工場には一部の人たちしか雇われない。現地の人は土地や水を多国籍企業に奪われ、工場の汚水は下水施設のない川に流されて環境が汚染される。

現地の人は食べるものがない。なぜなら、多国籍企業の工場や、多国籍企業によるアグリビジネスの巨大農場に土地が奪われるからだ。そして、現地の在来種に変わって、多国籍企業は種の特許をとることにより、自給自足の農業を奪っていく。

この映画で描かれる、フィンランドの不況は、このような特権階級の横暴と関係していることは明らかだ。新自由主義とは、世界を支配するスーパーリッチのための政策だ。政府は国民のためにはない。政府は1%の特権階級の道具だ。

国民のための政策とはなにか? それは簡単だ。その政策とは再分配だ。偏った富を、再分配して均す。それが再分配の機能だ。それを、今の世界でやらなければならない。お金持ちになればオッケーだから、お金を稼ぐことだけを考えればいい!! という思考停止をやめなければならない。

お金を稼ぐことは生活に必要だ。それはこの映画「浮き雲」でもしっかりと描かれている。だが、生活するためにお金を稼ぐのと、お金持ちを崇拝するのとは別だ。憧れの目で雑誌「フォーブス Forbes」を眺めているのでは、それはただの思考停止だ。

仕事が手に入って幸せ。確かにそうかもしれない。お金持ちになって幸せ。それは大きな勘違いだ。仕事と生活と、拝金主義は分けるべきだ。仕事をして中流の生活をして、それ以上は求めない。余った時間は、社会から取り残された人のために使う。それが、理想的なあり方だろう。ただ、大量採取、大量生産、大量消費、大量廃棄の消費社会に依存していては未来はないが。