一夫一妻の家父長制を、贈与により克服せよ

映画「ポゼッション(原題:Possession)」を観た。

この映画は1980年のフランス・西ドイツ合作映画で、映画のジャンルはカルト・ホラー・サスペンス・不条理スリラー映画だ。

ドイツのベルリンの壁が崩壊したのが、1989年の11月9日なので、この映画が製作された1980年にはまだドイツは東の共産主義側・ソ連側と、西の資本主義側・アメリカ側に、ベルリンの壁に象徴されるように分かれていた。ベルリンの壁は、ベルリンというドイツの都市を西と東に分けていた。この映画の製作には、フランスと西ドイツがあがっている。西ドイツは前述したように、資本主義側・アメリカ側に占領されている地帯だ。

この映画の主人公は、夫マルクと妻アンナで、この夫婦にはボブという子供がいる。この映画は、夫マルクが東ドイツにスパイに行って、西ドイツに帰ってきたところから始まる。映画の冒頭では、ベルリンの壁際の道路をマルクが車に乗せられて走り、自宅の前でスパイ活動=表向きの出張から戻って、大きな荷物を持って、アンナと話し合いをする。その時マルクは苛立っており、妻アンナに対する口調は荒々しい。アンナは夫マルクを自宅に入れることに戸惑っている。そして、マルクとアンナは、マルクが出張から帰って久々のセックスをしようとするが、マルクが勃起せず、2人の間には不穏な空気が流れる。アンナはマルクに、「浮気したんじゃないの?」と問いただすと、マルクは「したけど、たいしたことじゃない」という。マルクは馬鹿正直に、結婚上の嘘の合意から降りたということだ。アンナが、わざわざ女性差別をする男の作った家父長制のルールにのっているのに、マルクは男が作り出した家父長制のルールを、男でありながら破った“告白”をする。それは、アンナには耐えがたいことだ。

ポゼッション Possession 1980年 フランス、西ドイツ合作 Cinefil Imagica 2:43
勃起しないマルクに不満なアンナ

マルクは東ドイツへの表向きの出張=内密のスパイ活動の際に、浮気をしている。アンナは、マルクとセックスができないこと、マルクが浮気を“告白”したことで、ショック状態になり、アンナは結局家を出ていくことになる。アンナも、浮気をしていて、浮気相手のところにアンナは行ってしまう。アンナは、男たちが率先して維持する、男性中心的な家父長制の体裁を保つ努力をしていたのだ。すると、マルクはアンナがいなくなることで、精神的にダウンしてしまう。

浮気はしたけど、アンナとボブと一緒に、もう出張=スパイ活動はせずに、これからは家庭的に生きると、アンナを呼び戻すためにマルクは言うようになる。がしかし、マルクのその態度は、アンナにとって束縛でしかない。浮気をしておいて、勃起せずにセックスができず、結婚を維持するための嘘もつけないマルクは、アンナにとっては夫失格だからだ。そしてアンナは、マルクが象徴するもの、つまり家父長の拘束のせいで気が狂いだしている。アンナは、家父長制に拘束されて発狂しかかっている。

家父長制とは、男性を家族のボスの家長として扱い敬い慕い、妻は家長である夫に従い、セックスをして、子供を作り、子育てをして、家事と、介護をする仕組みのことだ。基本的には、家長である男性は、外で働き、お金を稼いで、家事は女性に任される。女性とその子供は、家長である男性に忠実に従う。男性の資産は、子に相続される。家父長制とは、男性による家族支配だ。そして、その家族を統治するのが国家だ。家父長制は、国家の運営のために、国家に都合よく作られている支配のための道具だ。家族を父親が統治して、その家族を国が統治する。それが、家父長制を用いた支配体制だ。

マルクの妻アンナは、家父長制のもとで発狂しかかっており、結局は発狂する。家父長制の何が問題か? それは、家父長制が女性を家庭の中に留めて家事ばかりをさせ、女性を性の従属者として夫以外との性行為を許さないことだ。この映画のように、夫がインポテンツの場合、妻は性欲の発散ができずに苦しむことになる。夫という男性と一緒に一つの家の中で生活して、夫の性器の存在を感じて、夫と同じベッドで寝起きするのに、その夫は立たないとなれば、妻は男性性を夫から感じながら、セックスを取り上げられている状態になる。

ポゼッション Possession 1980年 フランス、西ドイツ合作 Cinefil Imagica 1:15:47
一夫一妻の家父長制の束縛により発狂するアンナ

妻が家庭に拘束されて家事しかできずに、自分の職業選択の自己決定の機会を奪われ、なおかつ性的欲求の解消の相手の相手が限定されて、その夫がインポテンツで性欲を解消できないとなると、妻は発狂する。また、家父長制のそのような仕組みを知ったことにより、束縛感が増加して、妻の発狂に拍車をかけることもありえる。また、キリスト教的家父長制の厳密な一夫一妻制のもとで、発狂するのは、妻だけではなくて、夫も家父長制の負担により、精神的に発狂することもある。それは、家父長制の男らしくあらねばならないというプレッシャーによるものだ。家父長制の下で、夫は夫らしく、妻は妻らしくあろうとすることにより、夫も妻も発狂していく。

家父長制は、男女の性欲をうまく利用して作られている。夫婦とは、セックスの相手を保障する長期契約であり、労働力の獲得のための契約だ。この映画では、家父長制と、フロイトが言った人間の本能としての性欲との対立が描かれる。

性欲が家父長制の枠にとどまらないことがある、つまり、セックスの相手の獲得のための長期契約としての家父長制と、その契約外で性的満足を得ようとすることつまり浮気が、この映画の中の対立軸として存在する。そして、家父長制で獲得したセックスの長期契約対象者としての男性が、この映画ではインポテンツになっている。それが、マルクとアンナの結婚に亀裂を入れる一要因になっていると考えられる。

社会学者でもあり映画評論家でもある宮台真司は、著書「崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する」(2021,blueprint)の中の“『メビウス』男根に〈対他強制〉としての性を見出し、男根争奪戦を嘲笑する”(pp.225-233)の中で、男性器は勃起する時と、勃起しない時があり、女性が男性から快楽を得る、つまり勃起した男性器から快楽を得ることは、女性にとって不完全なことになる、というようなことを書いている。つまり、女性には性欲を満たすために、常に勃起する男性器が必要だ。そして、常に勃起している性器は一人の男性では不可能に近い。セックスが終わりすぐに勃起してを繰り返すことのできる男性など、そうはいないだろう。だとすると、勃起しない男という事実を克服するために、女性は自分の性欲を自分の望んだ時に満たすために、複数の男と同時に付き合う必要が出てくる。なぜなら、常に勃起している1人の男など存在しないからだ。そして、女性は自分の性欲を満たすために男性と複数人付き合うと決めているのならば、セックスの相手が結婚を境として急に男性1人となるのは、苦痛の原因にしかならない。というか、女性は性欲を満たしたいのならば、付き合っている人がインポテンツになったなら他の男性を探すほかない。それが、男性器で性欲を満たす簡単で合理的で唯一の方法だ。禁欲するという方法もあるが、それに耐えるのは女性にとって酷なことだと考えられる。

尽きることのない性欲に突き動かされているのは、女性だけではなくて、男性もそうだ。だから、男性も女性の気持ちを理解することが可能だし、女性も男性の気持ちを推測することは可能だ。キリスト教圏の女性の場合、禁欲とキリスト教が結びつく。禁欲して体に感じる性欲を神への愛として昇華させる方法もある。キリスト教の尼の神への崇高な気持ちというのは、この場合自身の性欲の昇華だ。キリスト教の神の神聖な感じとは、体に自然に沸き起こる性欲だと言うことができる。アンナは禁欲することができない女だ。つまり、アンナはキリストへの愛で生きる尼のようにはなることができない。アンナはつまり、家父長制の外に出ている。アンナは言う。「私は悪の方に堕ちた」。アンナが、キリストの像をみながらオナニーをした後に言う言葉だ。つまり、アンナは禁欲して性欲を神のために昇華させることに失敗したのだ。

ポゼッション Possession 1980年 フランス、西ドイツ合作 Cinefil Imagica 1:14:10
キリストの像を見ながらオナニーするアンナ

キリスト教は家父長制を推進する。それにより国家を支援する。そのキリスト教をアンナは拒んだ。アンナ自身の性欲の発散のために、キリスト教が使えなかったからだ。国家と家父長制と一夫一妻を重んじる宗教。性欲を利用して、国家と宗教は成り立つ。性欲と再生産、これが国家には必要だ。宗教も、神への愛の確認のために性欲の神の愛への昇華を必要としているし、宗教が永く繫栄するために再生産つまり子供を作って育てることは欠かせない。国家は労働力の維持のために性欲と再生産とそれを守る家族を必要とする。この社会では性欲は自動的に、国家に取り込まれ、同時に宗教に取り込まれる。性欲と国家と宗教は、切り離すことができないものだ。

先に上げた宮台真司の文章の中で、宮台真司は、セックスは、世界と繋がる方法だと述べる。この場合の世界とは、社会の外に広がる、人間の思っていることが全く通用しないもののことだ。人間はセックスを通じて、社会の外にある世界に出る。セックスを通じ社会の外に出て世界に入ることは、時に危険だ。なぜなら、社会のルールが通じない世界の不条理に浸っている人間は、自身の性欲のためにレイプをすることがありえるからだ。”俺の性欲のためにお前をよこせ”。

レイプは贈与の対極にある行為だ。世界を通じて、自身の満足を手に入れるためにレイプをするか、それとも世界に触れることにより社会の交換という概念から解放されて、贈与というひたすらつくすことに生きることに開かれるか。

社会の内側にとどまり、性欲を利用する国家や宗教に依存する限り、人間は戦争を繰り返す。戦争とはいわば、交換のなれの果てだ。”俺の満足のためにそれをよこせ”。“これをしたからあれが欲しい”。“これをしたら、何かが得られるはずだ”。戦争とはそういった所有欲のなれの果てだ。そのことが、この映画「ポゼッション」のラストに現れている。

社会のシステムの中にいれば、ほとんどの人間は、家父長制に取り込まれる。そしてそれは、国家、宗教に取り込まれることだ。社会の内部の支配者である、家父長制や国家や宗教から逃れるには、社会の外にある世界に出るしかないが、世界にも落とし穴がある。それは例えば、性欲を満たすためにレイプすることだ。世界を感じて所有ではなく、贈与に目覚めること。世界を感じて、社会の交換のルールから離れて、ただ贈与する、与えることに開かれること。家父長制の一夫一妻を克服するには、男も女も贈与することが必要だ。