経済の影と向き合う

映画「パラダイスの夕暮れ(原題:Shadows in Paradaise)」を観た。

この映画は1986年のフィンランド映画で、映画のジャンルはコメディ・恋愛ドラマ映画だ。

この映画の主人公は、ごみ収集車の作業員の仕事をしているニカンデルという男性だ。ニカンデルは、ある時、自分の自動車のエンジンがかからなくて、エンジンを修理する際に、左手首にケガを負ってしまう。そしてケガの処置をせずにスーパーに出かけて、スーパーのレジ店員であったイロナが、ニカンデルの腕の傷の処置をしてくれることになる。その時にニカンデルは、イロナをデートに誘う。そして、この映画は、この2人の恋の進行を、間の抜けたコメディ・タッチで描いていく。

この映画には、フンランドの社会状況、経済状況が、映画の背景に描かれている。イロナは、ニカンデルと出会った年に、3度目の就職をしている。イロナの故郷はスラムだ。この映画の撮られた当時のフィンランドは、福祉国家で景気も良かったことになっている。しかし、映画に描かれているのは貧富の差だ。つまり、1980年代の好景気のフィンランドにも経済格差が存在したと主張するのがこの映画「パラダイスの夕暮れ」だ。この映画の原題である、“Shadows in Paradaise”とは、直訳すると、“楽園の影”となる。では、楽園の影とは何か? 楽園で日の当たらないところ。それは多分、つまり、フィンランドの経済的発展から取り残されている人たちのことだ。つまり、イロナは楽園の影だ。つまり、イロナはフィンランドの好景気の経済的状況から取り残されている人たちの代表例だ。ニカンデルとイロナが出会ったスーパーで、イロナと同居してイロナと共に同じアパートに住んでいる女性がいる。イロナとその女性はルームシェアしている。なぜルームシェアをしているか? それは、女性が1人で暮らすことの安全性の低さと、何より家賃を安く抑えたいということに原因があると思われる。イロナやフィンランドの女性は、男性よりも弱い立場に置かれていることがわかる。ニカンデルは、1人暮らしをして、車を持ち、定職もある。ただし、仕事はゴミ収集車の運転手で作業員だ。ニカンデルは、イロナの3番目の就職先の洋服店の店主から疎んじられるというか、はっきりと入店を拒否される。それは、フィンランドにある差別だ。ニカンデルはゴミ収集作業時の作業服で、イロナが勤める洋服店に入り、イロナに話しかける。それを見ていた、店の店長は「あの汚い服を着た奴は誰だ?」とイロナに詰め寄り、ニカンデルの店への出入りを禁じる。洋服店の店長は、イロナに気があるというか、ちょっかいを出す気でいたのだろう。そこに、男が入ってきた。しかもゴミ収集の男だ。最先端の洋服店にゴミ収集車の男はふさわしくないと、店長は差別的判断をする。そして、イロナがニカンデルを洋服店に惹き入れたことは、イロナの洋服店の店長にとっての弱みとなる。イロナは、ニカンデルを勤め先の洋服店に惹き入れたこと、洋服店の店長に雇ってもらっていること、イロナはスラムの生まれで学がなくやっと仕事にありついていること、フィンランドの男社会で女性が生きていくには男性の援助が必要なこと、などの理由で、仕事場の洋服店の店長の支配下に置かれている。何より、店長はルックスも良く、お金を持っていてレストランに予約なしで入ることができて、多分インテリだ。イロナが生きていくためには、好条件な相手だろう。イロナが、ニカンデルを振る理由には、仕事場の店長はとても良い相手だ。フィンランドは経済的に1980年代は成功していたとされる。それは、マクロな見方だ。そこでは、ミクロな視点が見落とされる。つまり、イロナのような貧困の中で育った人たちが見落とされる。ニカンデルは仕事が終わって英語を習いに行っている様子なので、エリート大学で学んだインテリではないだろう。ニカンデルは男であるという理由だけで、好景気のフィンランドの社会にのっかることができている幸運な貧困層の男だろう。ニカンデルもそんなにいい部屋に住んでいるわけではない。そして、イロナは、好景気のフィンランドの状況から取り残された女性だ。つまり、好景気という言葉の内容は、実は経済格差が隠されているということだ。

フィンランドは1990年代に入ると不況になる。そこで、政府は新自由主義を連想させる政策をとる。財政出動を削り、規制を緩和して、金融市場に乗り出す。その様子は、この映画の監督であるアキ・カウリスマキ監督の映画「浮き雲(原題:Drifting Clouds)」にも描かれている。1990年フィンランドの不況がどのように、労働者の生活を危機に陥れたのかが、映画「浮き雲」では、2人の子供がいない夫婦の姿を描くことにより表現されている。映画「浮き雲」の浮き雲とは、移ろいやすい経済に翻弄される労働者たちの経済的に不安定な様子を表現した言葉だろう。映画「パラダイスの夕暮れ」では、映画「浮き雲」ほど、フィンランドの経済的状況は悪くないが、それでも好景気のフィンランドには、隠された格差があった。最近の日本の大手新聞社の記事を見てみると、日本は不思議なことに企業の収益が上がって景気が良いことになっている。これは、明らかなプロパカンダだ。2018年の日本の相対的貧困率、つまり可処分所得が平均の半分に満たない人の割合は15.4%だ。2018年の日本の人口は1億2680万人なので、その15.4%は、1952万7200人だ。つまり、2018年時点で日本の人口の1952万7200人は相対的貧困だ。今現在(2023年12月9日)の時点で、相対的貧困者数が減ったという報告はまだ見たことがない。この数字を見て驚きはしないだろうか? それとも「ふーん」だろうか? 「ふーん」という態度のことを無関心とか思考停止とか呼ぶ。つまり、同じ日本人でも、自分さえよければ関係ない。ましてや、アフリカやラテン・アメリカの貧困のことなど関係ないという態度だ。この日本で一番思考停止しているのは、日本政府と呼ばれる日本の既得権益者たちだろう。アメリカのスーパーリッチや、アメリカのスーパーリッチのケツ舐めの経団連や、その経団連と意見を同じくする日本政府。つまり、金持ちは自分たちの手持ちのお金のことしか考えていない。最近のイスラエルパレスチナ虐殺も、アメリカの軍産複合体は自分たちの利益のことだけを考えている様子だ。イスラエルに、アメリカが軍事援助をするというのは、スーパーリッチたちの利益でなくて誰の利益だろう。格差の問題は、世界中に存在して、そこでは理不尽に人の命や生活が踏みにじられる。フォーブスを見て、金持ちを羨んでいる場合ではない。