癒し

映画「精神」を観た。

この映画は2008年のアメリカ・日本合作映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画の舞台は、日本の岡山県にあるコラール岡山という精神病院だ。この映画には「精神0」(2020)という続編があって、その続編ではこの精神科の病院からこの映画で登場する主治医の山本先生が引退する様子が描かれる。

この映画「精神」では山本先生が登場するものの、中心は山本先生のところに集まる患者たちの語りだ。病院での問診、患者へのインタビューによってこの映画は構成されている。この映画は、いわば患者の語りで構成されるといっていい。

この映画が撮られた時期というのは、障害者自立支援法が成立しようとしていた時だ。障害者自立支援法というのは、いわゆる福祉切り捨ての法律で、障害者の自立を促すという名目で、障碍者への支援を大きく縮小するという法案だ。

障害者自立支援法というのは、新自由主義の下でとられた政策だ。多国籍企業の治める税金で国を回していくのではなく、国民一人一人の負担で、例えば消費税で国の予算を確保しようとする政策の一環として障害者自立支援法はある。国民が、貧困に陥っていても。

多国籍企業は、莫大なお金を持っている。そのお金を多く税金としてとって国の予算に回せば、障害者自立支援法がなくても国はやっていける。しかしだ、国が多国籍企業からお金をとろうとすると、多国籍企業は国から逃げて行ってしまう。

だから日本政府は、日本にある多国籍企業からお金をとることができない。多国籍企業はどこに逃げるのか? それはタックス・ヘイブンと呼ばれる、税金の安い発展途上国だ。その発展途上国でも税金がとれないので、国の予算が足りないという事態が起きている。

先進国でも発展途上国でも、同じ事態が起きている。その事態とは、先進国でも発展途上国でも1番お金を持っているはずの多国籍企業からお金がとれないという事態だ。そして納税の被対象者には、お金を持っていない99%の国民がなっている。

そのような背景を持つ障害者自立支援法を、バックグラウンドとしてこの映画「精神」は描かれる。患者と患者に直接かかわるスタッフの姿が、この映画の中で描かれる。ブレーンとしての精神科医山本先生ではなく、病気の当事者、そして手足となる病院施設スタッフがこの映画のメインだ。

山本先生の精神病院は、とにかく古い。木造建築で、しゃれた病院とは程遠く、病院内の標識も紙で手書きで書かれている。新病棟を建てるという経済的余裕もない。山本先生は以前は無給で働いていたが、現在では(映画撮影当時)月10万円の給料と年金と講演料をもらっている。

講演料と言っても、他の医者が断るような講演料の公演を引き受けて公演をしているので、その料金は知れたものだという。それでも山本先生は働くのだ。患者ために。病院のスタッフのために。

患者には様々な人がいて、大学を出ているインテリの人もいるし、リストカットの跡が腕にある人もいれば、ストレスから自分の生後1ヵ月の子供を殺してしまった人もいる。インテリの人の中には、東大に受かって中退したという人も登場する。

その中の人には、健常者と精神病者の間にあるカーテンに悩んでいる人もいる。そのカーテンというのは、いわゆる健常者には障碍者に対する偏見があるのではないかというものだ。それに対して山本先生はこう言う。「たいした違いはない」と。

何十年も山本先生の元に通う患者の一人は、こう語る。「私は健常者と障碍者の間の壁をなくすことを考えて、行動するようになった。私は病気を経験したので、健常者にも完璧でないところが見える。そこを私はフォローするのだ」と。

また、別の患者の一人は言う。「人は自分の傷を癒そうとして、自分の手に包帯を巻いていてはだめだ。相手の傷を見つけて、その傷に包帯を巻くことで、その相手も自分も傷を癒すことができるのだ」と。

この「精神」という映画を観ていると、気づきの連続が映画を観るものに訪れる。映画に登場する人物が病気を、現状を語ることによって癒されていくかのように、そして映画を観るものもこの映画を通して癒されていく。