未来は愛すらも支配する?

映画「時をかける少女」を観た。

この映画は1983年の日本映画で、映画のジャンルはSF恋愛ドラマ映画だ。

この映画の主人公は、芳山和子という16歳の女の子だ。そして、和子には親しい男の子の友達がいる。それは、堀川吾朗という少年と、深町という少年だ。映画の舞台は、和子たちが住む町とそこにある和子たちが通う学校だ。

この映画の最初の辺りに、学校での授業のシーンがある。女性の教師が生徒たちに授業をしている。そこで女教師は生徒たちにこう言う。「あなたたちの体は成熟しています。その体にふさわしい心をも持ちましょう」と。

この女性教師の言葉が、この映画の内容をよく示している。和子たちは、成熟した体、つまり肉体的に大人になっている。大人の体とは、何を意味するか? 大人の体とは、性的な体のことだ。単純に言ってしまえば、セックスのできる体になっているということだ。

だがしかし女性教師の言い分では、肉体に精神が追い付いていない。成熟した肉体に、未成熟な精神が宿っているというのがこの映画の状況だ。和子は成熟した肉体の中にある、未成熟な精神により悩むことになる。

その悩みというのが、恋だ。しかし、和子はそれが恋だと気付いていない。和子は、その自分の気持ちに映画一杯をかけて気づく。そうこれは、和子の成長の物語だ。和子が恋に気付くことが、この映画のテーマになっている。

和子の恋をする相手というのが、深町という男の子だ。この深町の存在が、この映画にSFの要素をもたらす。なぜなら深町は、未来から来た少年だからだ。深町は薬学博士として未来の世界を救うためにやって来てのだが、このSF要素はおまけと言っていい。

しかし、深町が未来の価値観を持っているというところが、この映画のキーにもなっている。深町が未来から来た少年のわりに、80年代の女性に対して支配的な男を演じているところがあるにしても。

和子と堀川吾朗は幼馴染で、吾朗は和子のことが好きだ。和子も吾朗のことが、好きなのかもしれない。その2人の間に割って入るのが、未来から来た深町だ。深町は、未来に発達した超能力の力で、出会う人すべての心に自分が幼いころからいたという記憶を植え付ける。

その方法で深町は、和子の記憶の中に侵入する。その時深町は、和子の吾朗に対する思い出を利用する。和子は、深町と子供のころからずっと親しかったと思い込む。深町は、和子の思い出を利用する。恋愛が、相手の気持ちを利用するように。

映画の中に、和子と深町が歌う歌がある。出だしは「ももくり3年かき8年」なのだが、その歌の後半に深町の作った歌が付け加えられる。「愛の実りは海の底」。海は無意識を指し、愛の実りとは愛の果実つまりセックスでできる子供やセックス自体を言い表していると思われる。つまりこの映画のテーマは、性欲の目覚め、言い換えれば、恋愛の目覚めだ。

和子と吾朗の記憶を利用して、深町は和子の恋心を吾朗から奪う。記憶は恋心ではないが、記憶が恋心のきっかけとなっているのは事実だ。それは深町が、和子の心をコントロールしていることになる。

吾朗は、代々続く醤油屋の跡取りだ。いわゆる、家父長制を色濃く残す家の子供だ。それに対して深町は、未来の発達した教育のものによる天才的な子供だ。この深町のいる未来は発達した科学と、人口の爆発的な増加が問題となっている。

深町のやってきた未来に、格差はないのか? それが気になるところだ。深町がやってきた未来は、西暦2660年だ。そこではどんな未来があるのか?そこからやってきた深町が、上から目線の男の子であることは何とも残念な気もする。

性欲への目覚め、恋への目覚め。それがこの映画の核だ。人は、体が成熟するとそれにつれて、精神も成熟への道をゆっくりと時間をかけて進んで行く。女性の性欲と男性の性欲。特にこの映画では前者の性欲を描いていると言えるかもしれない。