母の喜びと悲しみ

映画「さびしんぼう(原題:Miss Lonely)」を観た。

この映画は1985年の日本映画で、映画のジャンルはファンタジー映画だ。

この映画の主人公は、井上ヒロキという高校2年生、16歳の少年だ。ヒロキの母親の名前は、タツ子という。ヒロキの実家は、寺だ。ヒロキの父親は、その寺のお坊さんだ。ヒロキには、好きな人がいる。それはヒロキとは別の、女子高に通うタチバナユリコという女の子だ。

この映画には、ファンタジーの要素がある。それは、映画中に登場する“さびしんぼう”と呼ばれる女の子の存在だ。そしてそのさびしんぼうの正体は、ヒロキと同じ高校2年生、16歳であるヒロキの母親のタツ子だ。

16歳のヒロキの前に、母親である16歳のタツ子が登場する。ヒロキの前には、41歳のヒロキの母親であるタツ子と、16歳のヒロキを産む前の、高校2年生のタツ子が存在する。そうこれが、この映画のファンタジーの要素だ。

41歳のタツ子はヒロキの子育てに必死で、ヒロキに勉強しなさいとしつこく迫る。また、女性の芸術的な(?)ヌード写真を見ているヒロキに対して「こんな写真ばかり見ていてどうしようもない子ねこの子」は、といった感じに言葉を吐き捨てる。

16歳のタツ子は、ヒロキに対して優しい。ヒロキの母親の子育ての厳しさに対して、「昔はあんな人じゃなかったのにね」と言ったりして、ヒロキのことを何かしら気にかけている様子だ。

映画の終盤で、こんなセリフがある。「母親は昔好きだった人のように、生まれてくる自分の子供を愛する」というような。それは、いつも何を考えているかわからない、ヒロキの父親の口からも確認することができる。

ヒロキは、ショパンの「別れの歌」をタツ子がなぜヒロキに練習させるのかと、父親に問う。すると父親は「それは昔母さんの好きだった人がその曲を弾いていたからだろう。お父さんはお母さんの、喜びも悲しみも含めてお母さんを好きなんだ」と言う。

ここでわかるのは、タツ子は好きな人と結婚せずに、お見合いをして結婚したという事実だ。映画のセリフの中にも、お見合いで結婚したことを示すセリフを父親が言う。そして、好きな人と結婚することと、お見合いをしてやむなく家父長制度のもとに継続的に組み込まれることの対比が、この映画の中でみることができる。

タツ子が結婚した1960年代当時、女性が自分から正社員として働いて、自立した生活をして、結婚をするかしないかを自分の意思で決めることは、ものすごくまれであった。女性は生まれて物心がつくと、家事の手伝いをさせられ、家長の機嫌をとり、自分はお嫁に行くものと教え込まれた。つまり当時の女性に、家父長の外はなかった。必然的に家父長制に取り込まれた。

この事実をふまえると、タツ子の抑圧された人生というものが見えてくる。自分で自分の仕事を選択することが、できない。自分の好きな男性と、結婚することができない。結婚は、両親の決定したお見合いでしなければならない。タツ子の人生に、選択の自由は少ない。

中東のイスラム圏の女性のように、生理が来たら嫁に行かされる。夫以外の人に、自分の肌を見せてはならない。妻の生殺与奪権は、夫が持っている。というようなことはないにしろ、1960年代当時の日本には家父長制の規律が色濃く残っていた。女性は、再生産に関わる仕事を生涯するものだという規範だ。

女性の再生産とは子供を産んで、子育てをして、年老いた親の介護をするということだ。女性の再生産という言葉を筆者が知ったのは、上野千鶴子の「家父長制と資本制」という本を読んだ時だ。

その本によると、女性は教育や家庭などによって、自らが再生産のために生まれてきたと思い込まされる。そして、女性は自らの心の悲鳴とは別の所で、再生産をする人間として日常の中に組み込まれる。

家父長制の中で、唯一女性が自由にできるもの。それは、自分の子供の再生産だ。それは、子供の子育てのことだ。タツ子も、自分の子供の再生産=子育てに自分の生きがいを見つけようと努力している。

さびしんぼうは、ヒロキに母親の子への愛情や、母親の子供の頃を思い起こさせる存在だ。そして、さびしんぼうと41歳のタツ子の現在とのギャップが、41歳のタツ子を発狂させ、16歳のタツ子であるさびしんぼうを悲しい気持ちにさせる。

この「さびしんぼう」という映画が描いているのは、家父長制の喜びと悲しみだ。それをひっくるめて、母親のことが好きだと言っている父親は、寛容に一見見えるが、実は寛容でもなんでもない家父長制の押し付けを無言で行う奴隷主だ。父親は、家父長制というシステムに抗うことはしない。

恋愛と結婚の両立という言葉が、この映画「さびしんぼう」を観ていると思い起こされる。しかし、この連想自体が馬鹿馬鹿しいものだとも思える。恋愛は恋愛で、結婚は結婚になってしまう現実。それこそが、真に重要なものだ。結婚のために、何かをしなければならない、そのパターンこそが問題だ。子供を持つために結婚? それはナンセンスだ。

恋愛と結婚の両立を馬鹿馬鹿しく感じるためには、女性の正規雇用という選択肢が全域に広がることが重要だ。そして女性が、建築物や社会構造などの構造的な女性排除の問題から解放され、女性に対する暴力からも解放されることも必要になってくる。

大林宣彦監督の映画を観ていると、女性の日本社会での立場といったものがありありと描かれている。大林監督は家父長制に飲み込まれてしまっている、男性、女性すべての人に対して家父長制を描くことにより、家父長制への違和感を抱かせる監督だと言っていい。

家父長制から解放された社会。女性のワーキングプアの危機的状況に聞き耳を立てているだけでも、それは今の日本(2022.1.15)でも可能になっているとは思えない。