家父長制を内面化する悲劇

映画「はるか、ノスタルジィ」を観た。

この映画は1992年の日本映画で、映画のジャンルはファンタジーだ。

この映画の主人公は、綾瀬慎介というペンネームを持つ小説家で中年くらいの年齢である男性と、その慎介の小説のファンである、はるかという女の子だ。綾瀬慎介の本名は、佐藤弘という。

慎介はリトル文庫という小さな出版社から小説を出している小説家で、その慎介の小説の挿絵を描いているのが、紀宮あきらという男だ。リトル文庫の編集長岡崎と慎介、そして紀宮は学生時代の同級生だ。

紀宮が、過労死で死んでしまったところからこの映画は始まる。紀宮は、岡崎と慎介に殺されたようなものだ。映画中ではそのように語られない。この時代は今のブラック企業と変わらず、体に鞭を打っても働かなければならいという価値観が一般的だったのだろう。

そして、その紀宮の死に後ろめたさを感じているのが慎介だ。慎介の小説は、北海道の小樽を舞台としたシリーズものだ。この小説の人気は紀宮の挿絵の人気が支えているようなものだと、岡崎も慎介も認めている。2人は、紀宮に負担をかけすぎていた。

そして慎介にはまだ、紀宮に対する後ろめたさがある。それは紀宮にとっては小樽は肯定されるべき故郷であるのに対して、慎介にとっては小樽は思い出したくない、忘れたい過去だということだ。

慎介=佐藤弘の父親は、アマチュアの小説家だった。父の名は、佐藤統策という。なぜ父が子供が生まれてからも、アマチュアの小説家であることを選んだのか?それは、統策がびっこだからだ。統策は、身体障碍者なのだ。

父親がお金を稼げないなら、誰がお金を稼ぐのか? そうそれは、母親の役目になる。統策の妻は、売春をしてお金を稼いでいた。そうつまり、弘の母親は売春婦だった。弘は母親のような女性を淫売として表現するが、それは弘の中に家父長制が内面化されているからだろう。

つまり、婚外子を持つ可能性のある子を産む可能性が高い女性は、遺産の相続人を増やし、家系の財産を分散させてしまう恐れがある。そこでその婚外子を身ごもる可能性の高い女性である売春婦は、家父長制価値観を内面化している者から、邪険にあつかわれる。それが、弘の母だ。

慎介の小樽を愛することのできない思いは、このような過去から来ている。しかしまた、慎介=弘の父親も、家父長制からの脱落者だ。なぜなら統策は身体障碍者であるために、家計にお金を入れることができないからだ。お金を稼げない男は、家父長制では役立たずだ。しかし、統策もまた弘と同じように家父長制を内面化している。

ここから、慎介を悩ますのは、家父長制的価値観であるのがわかる。過去を肯定できない慎介は、家父長の厳しい掟からはじかれたために、過去を肯定できなくなっている。この映画は、女性を肯定することのできない弘という男性の物語だ。

はるかは、慎介が小樽での学生時代に好きだった三好遥子という女性にそっくりだ。そして慎介は母親と同じように、三好遥子のことも肯定することができない。ある事情から、慎介=弘は三好遥子のことも淫売だと思っているからだ。

この映画の中で、慎介を救うのは、はるかなのだが、その設定がロリコン少女愛であることは隠すことができない。そして少女は女性であり、その女性は性欲を持つことも否定できない事実だ。

映画は、主にはるか演じる石田ひかりにスポットライトが当てられている。そして問題の家父長制は、石田ひかりのルックスの良さに隠れてしまう。この映画は、ただのロリコン映画であることになってしまいかねない。

しかし、この映画は少女の性愛を描いた映画でもあるし、家父長制の映画でもある。田舎には家父長制が色濃く残っているというのが、この映画の監督大林宣彦監督の「ハウス」という映画でも描かれていた。

映画「ハウス」では、少女たちが家父長制に飲み込まれていく姿が描かれていた。では「はるか、ノスタルジィ」で描かれる少女とはどういったものか? それは、家父長制を肯定するしかない中年のなぐさめでしかないのだろうか?

家父長制しか選択できない男の情けなさのようなものが描かれているのが、この「はるか、ノスタルジィ」という映画のように感じられる。まるで、この映画は家父長制を肯定しなければ生きていけない男性の物語であるかのようだ。

家父長制の存在感が強くて、家父長制ですべて覆われてしまっているのがこの映画だ。そこには家父長制の外部はなく、男は女のために稼ぐことを生業としている。紀宮も家父長制の従属者だった。家族のために稼ぎ、紀宮は死んでいった。

ならば慎介が紀宮を認められないのは、慎介が家父長制と折り合いをつけていなかったからだ。そしてそのために慎介は、苦しんでいる。家父長制を認められない男は、苦しまなければならないのか? それは、この映画を観ていて思うことの一つでもある。

家父長制を内面化して、尚且つ家父長制を肯定することができない男性の苦しみがこの映画だということができる。慎介は家父長制を内面化することを避けられない世代に生まれた、不幸な家父長制脱落者だったということができる。

そしてその慎介を救い出したのは母子家庭である、家父長制から脱落しかけている家庭の子供だった。はるかの存在は犠牲者的であるとともに、救済者でもある。そして、脱落者同士の支え合いがこの映画では描かれているのだ。