未規定性を求めて

映画「華麗なる賭け(原題:The Thomas Grown Affair)」を観た。

この映画は1968年のアメリカ映画で、映画のジャンルはアクション・コメディだ。

この映画の主人公は、トーマス・グロウンという、裁定取引などの仕事をやっている、超お金持ちで、仕事もできて、ハンサムで、女性にもてる、36歳の男だ。トーマス・グロウンは、もうひとつの名前を持っている。その名はチャーリーだ。

なぜ、トーマスはチャーリーという、2つ目の名前を持っているのか? その2つ目の名前は、トーマスが、銀行強盗を行う時に使う名前だ。トーマスは500万ドルの資産を持っている。そのトーマスが、なぜ250万ドルの銀行強盗をするのか?

それは、この映画の中の警察によると、それはスリルを求めるためだ。金も、性的対象にも、何にも苦労していない男、トーマスが心から渇望するもの、それは刺激だ。つまりトーマスは、日常の仕事が、自分の想定内に運ぶ意外性のなさに退屈している。

銀行強盗をすれば警察が動く。しかし、トーマスは警察には捕まらない。トーマスにとっては警察の動きも、想定の範囲だからだ。だから、銀行強盗するにも、トーマスは完璧な計画を立てて、警察には捕まらない。

トーマスの銀行強盗に、トーマスは直接参加しない。トーマスは、人選をして、その人間に、銀行強盗をさせる。トーマスは銀行強盗の指示を出すだけで、トーマスは直接には銀行強盗をしない。経営者であるトーマスらしいやり方だ。

トーマスが銀行強盗をすると、警察が当然のように動くのだが、警察と同時に、銀行強盗の被害にあった銀行の保険屋の保険調査員も、犯人を捜して動き出す。その女性調査員の名前は、ヴィッキー・アンダーソンだ。

ヴィッキーは、この映画が作られた1960年代後半のフリー・ラブの時代背景通り、気に入った相手がいたら、セックスをする、性に対して開放的な女性だ。ハリーと一緒に行動する、マローン警部補もハンサムな男性で、ヴィキーと性的関係にあるようだ。

ヴィッキーは、なぜだか、犯行の犯人が、トーマスであると、警察から犯人の写真を見せられた時に、わかってしまう。ヴィッキーは、トーマスが主犯であると直観するのだ。この銀行強盗は、頭の切れる男がやっていると。

ヴィッキーはトーマスに、自分がトーマスの性的対象であることを利用して近づく。2人が出会うのは、がん患者へのチャリティのオークションでだ。ヴィッキーは、トーマスと、オークションで競り合う。そして、トーマスが500ドルで、商品を競り落とす。

そして、トーマスはその競り落とした商品を、「適正価格だった」と言って、ヴィッキーに譲る。それが、2人が親密になるきっかけとなる。お金持ちで、ハンサム、女性に対して優しく、女性に貢ぐ金はおしまない。それは、2人が親密になるきっかけに、この場合適当なものだ。

もう1つ、トーマスがヴィッキーと親密になる原因がある。それは、ヴィッキーが、トーマスに堂々とこう発言するからだ。「あなたは銀行強盗の犯人ですね」と。トーマスにとってヴィッキーは刺激をくれる存在であることを、ヴィッキーは証明したことになる。

トーマスは、仕事を完ぺきにこなす。合法な範囲内で。女性とも、同時に多交渉する。しかも、どうやらトーマスは女性に恨まれてはいないようだ。トーマスは、違法に銀行強盗をする。完璧な銀行強盗を。

トーマスが銀行強盗をするのは、刺激を求めているのと、自分の能力を示すためだ。お金には興味がない。銀行強盗して奪ったお金は、足が着くので、使うことはできない。つまり、トーマスの銀行強盗はお金のためではない。

トーマスは自分の能力、コントロール能力を示すために、銀行強盗をする。刺激を求めるのと同時に。社会のルールをはみ出すことで、意図的にコントロールの支配感を得る。社会のルールは自分の想定内で、そこからはみ出しても、犯罪者として捕まることはない。

なぜなら、トーマスはルールを完璧に理解しており、そのルールの社会の支配者を、自分のコントロールの下に置くことができるからだ。銀行強盗は、トーマスの完璧さの証明だ。そして刺激だ。ただ、トーマスは、銀行強盗にも飽きてきているようだが。

そんなトーマスにとっての、数少ない未規定性の一つがヴィッキーだ。コントロールの外にあるのが未規定性だ。つまり、トーマスにとっての刺激は、未規定性だ。それがヴィッキーという存在だ。

ヴィッキーは、自ら、トーマスに、「銀行強盗の犯人はあなたよ」と伝える。つまり、ヴィッキーは、トーマスのコントロールの外にいる、つまり、未規定な存在でもありえる。この場合、刑務所行きは避けたい未規定性だ。そんなヴィッキーという刺激に、トーマスは誘惑される。

トーマスにとっては、自分のコントロールの外にいるかもしれないヴィッキーの存在が、魅力的で仕方ない。自分のコントロールの下にいない女性。それはトーマスにとってのこの上ない刺激だ。

しかし、2人は関係を続けていくうちに、”普通の”付き合っている2人のようになっていく。そして、ラストシーンには、トーマスにとってのヴィッキーの在り方が示される。そのヴィッキーのトーマスにとっての在り方とは、「君は僕のコントロールの範囲に入るのか? それとも、一応僕のコントロールに収まらない人間でいるのか?」というどちらかだ。「僕のコントロールの範囲」とは、銀行強盗をヴィッキーが告発しないことだ。

トーマスに操られた銀行強盗の実行犯は、盗んだ銀行の金を、墓場のゴミ捨て籠に入れて、それをトーマスが回収する。その時、トーマスと実行犯は出会うことはない。その現場を待ち伏せているのが、ヴィッキーと警察だ。

実行犯が籠に、銀行から盗んだ金を入れて、それをトーマスが受け取りに来るのを待つのが、ヴィッキーと警察だ。だが、そこにトーマスは来ない。トーマスは、ヴィッキーや警察の思い通りには動かなかった。

ある男が、ヴィッキーにトーマスからの手紙を持ってやってくる。そこには「金を持ってくるか、それとも残るかは君次第だ」と書かれている。この時点で、ヴィッキーはトーマスのコントロール下に置かれかけた。

トーマスが銀行強盗をすることを、知っているのは、今回の計画に関してはヴィッキーだけだった。つまり、ヴィッキーは、警察にトーマスのことを売った。なぜなら、それが彼女の仕事だからだ。

ヴィッキーは警察にトーマスが銀行強盗をするのを伝えずに、ヴィッキーがトーマスのもとへお金を持ち去ることもできた。だが、ヴィッキーは警察にトーマスを売った。お金は、ヴィッキーが、トーマスのコントロールのゲームに参加するチケットだ。

この手紙を、トーマスが書いている時点で、トーマスはヴィッキーを信じていないし、ヴィッキーの行動は、トーマスの銀行強盗を警察にヴィッキーが知らせるのも、知らせずにお金を持ってトーマスの所に行くのも、トーマスのコントロールの範囲内だ。

つまり、トーマスはヴィッキーという未規定性を、コントロールの範囲に置いた。しかし、恋愛関係という未規定性は、ヴィッキーの判断に委ねた。コントロールできない未規定性を、トーマスはヴィッキーに残した。未規定性は、二者択一を選択した時点で消えるが。

つまり、ヴィッキーはトーマスにとって未規定な存在ではなくなりかけている。ただ、ヴィッキーとの恋愛関係をコントロールの下には完全には置いていない。なぜなら、トーマスは、ヴィッキーとの関係を断つことも視野に入れているが、トーマスとヴィッキーの関係が続くことは未規定性の中だからだ。ただ、トーマスがヴィッキーと別れることも、トーマスの想定の範囲内だが。しかし、こうも言える。ヴィッキーの出す結論は想定内だが、ヴィッキーの判断は未規定性を持つと。

ヴィッキーとの恋愛関係の成立だけは、トーマスはコントロールの外に置いた。しかし、それ以外は、すべてはトーマスの想定の範囲内だ。トーマスは、刺激を求めている。トーマスは、また、刺激を求めるのだろうか? それとも、本当に引退してしまうのか?

ただ、トーマスにとって日常は、刺激がない限り、弛緩して、ものすごく退屈なものだろう。トーマスは、心のどこかで、次のヴィッキーを探しているのだろう。