共存の作法

映画「マイスモールランド」を観た。

この映画は2022年の日本・フランス合作映画で、映画のジャンルは難民ドラマ映画だ。

この映画の主人公は、主に日本で非常に難民申請が通過するのが難しい、クルド人家族の4人だ。この家族の母親は死んでおり、父親のチョーラク・マズルム、長女のチョーラク・サーリャ、次女のチョーラク・アーリン、三男のチョーラク・ロビンが、一緒に日本の埼玉県に住んでいる。

ウィキペディアの情報では、クルド人とは、西アジアクルディスタンの山岳地域に住む、イラン系のネイティブのイラン系民族だ。クルド人が住む地域は、トルコの南東、イランの北西、イラクの北、シリアの南だ。

クルドの人々は、中央アナトリア、ホラーサン、コーカサス、西トルコ(特にイスタンブール)そして、西ヨーロッパ(主にドイツ)に、飛散地がある。クルド人の人口は、約3000万人から4500万人とされている。

クルド人の話す言語は、クルド語、ザザ-ゴラニ語で、イラン系の言語の西イラン語派に属している。

第一次世界大戦の後、オスマン帝国・トルコ帝国に勝ったフランス、グレートブリテン及びアイルランド連合国家、ロシア、アメリカ合衆国、イタリア、日本からなる西側の同盟国が、1920年のセーヴル条約でクルド人国家を、クルド人に用意した。

しかし、3年後この条約は破られる。そのローザンヌ条約では、現代トルコの範囲が決められ、クルド人国家の用意は取り消された。残されたクルド人は、新しい国々のすべてで、マイノリティーとなった。

最近のクルド人の歴史では、多くの虐殺と反乱があり、トルコ人と、イラン人、シリア人、との、そしてイラククルディスタンでの武力対立は続いている。クルド人は、イラク、シリアで自治権のある地域を持っていて、その間に、クルディスタンでの、より優れた文化的権利、自治権、独立を、クルドの運動を通して求め続けている。

クルド人は、西側諸国によって、自らの民族の国を持つことを保障されたが、その約束は3年で破られた。その時の西側諸国には、日本も含まれている。これは、日本がクルド人国家を認めた証拠だ。だから、国を持たないクルド人は、難民申請が難しい日本にやって来る。

つまり、クルド人にとっては、自らの民族の国を認めてくれた国として、日本は存在している。しかし日本は、クルド人難民申請をほぼ受け入れない。つまり、クルド人は命を懸けて、クルド人の国を勝ち取れということだろうか? 日本人はクルド人の国家を認めながら、クルド人を差別している。難民申請を受け入れないという形で。ローザンヌ条約で、クルド人の国は否定されてしまったのだが。

クルド人は反乱もしているが、虐殺の対象でもある。クルド人に対抗する勢力は、クルド人を虐殺する。そのような状況に、クルド人を送り還そうとするのが、日本の在り方だ。つまり、日本は「国を勝ち取れないなら虐殺されてもやむなし」、と言っていることになる。

世界は現状、グローバライゼーションが主流だ。グローバライゼーションとは、基本的に民族からなる国を越えて、経済的つながりを作り出すことだ。つまり、グローバライゼーションは、ワシントン・コンセンサスで決められた、新自由主義ネオコンを推進する。

新自由主義は国の中に格差・不平等を作り出す。よって、国民と経済的グローバライゼーションは、対立する存在だ。つまり、日本は欧米が経済的グローバライゼーションをとり、国の存在を否定する中で、基本的に民族の集まりである国と、その民族のである国民を虐げている。ただ、グローバライゼーションに民族・国家対立は貢献しているのだが。

経済的グローバライゼーションは、国を超える。そして、各国の国民には不平等と格差が襲い掛かる。なぜなら、経済的グローバライゼーションとは、国をまたぐエリートの存続のためにあるからだ。グローバルなエリートは、各国の国民を搾取する。

国は基本的に民族の集まりだ。しかし、国は単一民族の集まりではない。例えば、アメリカ合衆国アメリカには、白人も、アフリカ系も、ラテン系も、アジア系も、中東系などの様々な民族が住むが、それでも単一の国だ。つまり、アメリカは多民族国家だ。

つまり、国が単一民族である必要はない。それを受け入れられないのが、今のクルド人を取り囲む状況だ。クルド人はかつて単一民族として、一つの国を与えられた。しかし、今クルド人は、単一民族国家というイデオロギーでは、生きていくことはできない。

なぜなら、難民化したクルド人は、多民族国家という建て前を否定すれば、自分の住む場所が奪われてしまうからだ。クルド人は、単一民族国家を持ちたいのか? それとも、多民族が共存する国家を持ちたいのか?

世界のエリートは、経済的グローバライゼーションを形上、進める。そこでは国の存在が、邪魔になる。しかし、民族が対立を生むのなら、グローバライゼーションがもし格差や不平等や民族差別を含まないのだったら、国の存在はあまり好ましいものとも言えなくなる。

近代化とは均一化のこととも言える。国を越えてグローバルに繋がろうとするのが近代化とも言える。国の中でも近代化が進む。均一化は、民族を消し去るのか? するとそこに、民族自決が主流とされる流れが反抗することになる。

均一化ではなく、共存、これが私たちの進むべき道だ。そして、共存して連帯する、それが、グローバルに飛び回るエリートが作り出す格差・不平等・貧困に対抗する方法だ。国はあってもいい。ただし、他民族に、多民族に開かれた国が、これからの国の世界の在り方ではないだろうか?

住む場所がない人に、住む場所を与える。それが人として共有される普遍的価値観だ。民族が対立するのならば、その民族たちに問いたい。民族は、多民族を排除することまでして成り立つ必要があるのかと。

民族が消えることを恐れる必要はない。なぜなら、私たちは人間だからだ。誰もが人権を持つ人だ。それを認めれば、民族同士の争いは無くなるだろう。他者を認めること。これが今必要とされていることだ。

この映画「マイスモールランド」は、難民問題を扱う映画の内の一つだ。戦争により難民は生まれる。民族自決を掲げて行われる戦争が、難民を作り出す。戦争のもととなる対立は、民族同士の対立と言っていいかもしれない。

民族の誇りを消し去れとは言わない。民族という他者同士の共存のために、他者を認めあうのが、これからの民族が生きていく方法だ。さもなければ、虐殺は終わらない。そして、民族対立を好ましく思うのは、軍産複合体軍産複合体から利益を得る既得権益者、それに担がれた独裁者たちだ。つまり、グローバル・エリートや軍事的エリートなどが、民族対立を利用する。

つまり、エリートが、経済的グローバル化を進めるエリートが実は、民族の対立を利用している。そのエリートの横暴に、民族自決を叫んでいる人々は気付くべきだ。私たちはエリートに利用されていると。

エリートは、グローバル化を推進し、近代化による均一化を推し進めるように見せながら、民族からなる国の存在を利用して戦争を起こし、そこから利益を得る。その国には、不平等と貧困と差別と格差が、エリートによって引き起こされる。ナオミ・クラインの言うショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)が、起こっている。

サーリャは17歳だ。大学にも行っていない。そのサーリャの家族に日本での居住が認められて、家族が人間としてその尊厳を認められること。それが、今、当たり前に必要とされていることだ。

 

 

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Kurds

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Khorasan_province

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Zaza–Gorani_languages

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Ottoman_Empire#

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Sèvres

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Lausanne#

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Dersim_rebellion

https://www.sciencespo.fr/mass-violence-war-massacre-resistance/en/document/dersim-massacre-1937-1938.html

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Iraqi_Kurdistan

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Allies_of_World_War_I

すべて、2023年5月6日閲覧