貧困を作り出す

映画「孤狼の血 LEVEL2」を観た。

この映画は2021年の日本映画で、映画のジャンルは警察・ヤクザ映画だ。

この映画の主人公は日岡秀一という、広島大学出身のエリート警察だ。ただ、日岡は大上章吾という刑事に影響されて、ヤクザの抗争を、ヤクザ内部の情報や、警察の上層部の弱みを握ることで、抑え込んでいる。

この映画の舞台は、暴力団対策法が1992年に施行される直前の広島県だ。この映画は、フィクション映画だ。大上や日岡が糸を引いて、広島で対立していたヤクザの五十子会と尾谷組の抗争が抑え込まれて、広島はヤクザの抗争がない地域になっていた。

大上はヤクザの抗争を抑え込むためにヤクザの反感を買い、ヤクザに殺された。その後を、日岡が継いでいた。日岡は、スタンド「華」のママである近田真緒を恋人にして、その真緒の弟の五十子会の近田幸太からヤクザの情報をとっていた。

日岡はそのようにヤクザから情報をとることによって、ヤクザ間のバランスをとっていた。しかし、そこに五十子会の組員だった上林成浩(しげひろ)が刑務所から、警察の上層部の意向で出てくる。警察の上層部は、広島のヤクザの抗争を再燃させるのが狙いだった。警察の上層部は、ヤクザと日岡を全滅させるために、上林を娑婆に返した。

上林は、実の両親を殺している。その時上林は、母親の目をくり抜いている。なぜ上林は両親を殺したのか? それは、上林の父はアル中で子供だった上林を虐待して、それを母親は見て見ぬふりをしていたからだ。

上林は朝鮮系の血筋を引いている。そして、上林の家庭は貧困のどん底だった。朝鮮系で貧困家庭。日本で朝鮮系として差別されてろくな仕事にもつけず、人生に挫折してしまったのが上林の父親だ。

上林は言う。「このままでは父親に、自分が殺されると思った。母親は、父親からの虐待を見て見ぬふりをしていた」と。上林が覚醒剤にはまり、凶暴な殺人を犯すのには理由があった。それは、上林の貧困と暴力の体験から来ている。

上林は、真実を見て見ぬふりをしていた人の目を潰す。その目が見ていたことを無視していた者への復讐心からだ。ヤクザの親分の妻の目を、ヤクザから情報を警察に密告していた近田幸太の目を、刑務所でさんざん暴力をふるった看守の妹のピアノ教師の目を、上林はくり抜く。

ヤクザの妻は、ヤクザの夫が罪を犯していても見て見ぬふりをしていた罪。近田幸太は、ヤクザの実態を見ていながらそれを正すのではなく見て見ぬふりをしていた罪。ピアノ教師は、兄の仕事の内容を見て見ぬふりをしていた罪。

上林は、気に入らない者はすべて殺す。警察でも関係ない。ヤクザなら当然だ。上林は貧困の家庭に生まれた。だから貧困を脱することには興味がある。しかし、金に執着しすぎない。貧困の社会を見て見ぬふりをしていた人間に対して、上林は強い憎悪を抱いている。

上林には教養がない。速度が遅い貧困のための活動にも、興味がない。上林はただ、憎悪に自分を受け入れなかった社会に対する憎悪に突き動かされている。上林は裏も表もない、復讐に駆られた人間だ。

この映画の中で、裏も表もある人間が登場する。それが警官だ。日岡をはじめ、広島県の警察には、善良な市民の味方としての警察としてのイメージという表と、実は立身出世しか考えていないただの俗物という裏がある。

この映画の中には、公安警察が登場する。公安警察は、政治家などを相手にする警察だ。公安警察は、国家の秩序と安全のために働く。国家のためならどんな汚いことをするのが、この映画での公安警察の在り方だ。公安警察日岡よりも数段上手で、日岡よりも狡猾で、ヤクザよりもたちが悪い。

この映画の中に、瀬島という公安警察から広島警察にやってきたスパイが登場する。瀬島はいかにも人畜無害な感じの人間だ。しかし、実態は、上層部の内実を知る日岡を貶めるために公安からやってきたスパイだ。

瀬島は日岡を騙すために、マンションの一室に子供に死なれた警察の夫と妻からなる昭和の家族を作り上げる。その場所に連れ込まれた日岡は、自分の知っていることを瀬島に話す。それにより、日岡が弱みを握られる。日岡の弱みとは、心の安らげる場所がないことだった。

日岡は、本当に心の安らげる場所を見つけることができるのか? それは、映画のラストで観ることができる。日岡は自分を危険にさらす情報の有害性を、情報を告白することで無害化する。そして、田舎に駐在する。そしてそこで、絶滅したはずの日本狼を目撃する。日岡の中の狼は、まだ死んでいないというかのように。

アメリカでは、警察の黒人に対する暴力が頻発している。そのため、警察を廃止するというような運動も見られる。アメリカの保守派は、国家の存在を否定する。アメリカの保守はある意味アナキズムだ。

警察に対するプロテスト運動が行われているアメリカと、警察を廃止しようとする動きのない日本では温度差がかなりある。それほど、日本の警察は国民に対して良いイメージを振りまくことに成功しているのだろう。

しかし、その警察の実態はどんなものなのだろう? 警察の人間も所詮は俗人だ。地位と権力と名声と家族と性愛対象者が欲しい。エリート警察ほど身の安全を守りながら、出世しようという意思があるのではないのか?

そこにあるのは「トップを目指せ!!」という子供時代の受験勉強によりもたらされる、ランク付け衝動以外のものではない。そして、その「トップを目指せ!!」という動きが貧困を解決する方向に向かっているようには見えない。

エリートは下位の者を必要とする。つまり、県警のエリートの地位を確立するために必要なのが、上林のような貧困の者たちなのだ。エリートが「トップを目指せ!!」競争をしているうちは、貧困はなくなるどころか、競争は貧困を加速させる。

県警のエリートと貧困というよりも、社会のエリートと貧困と言った方がわかりやすいかもしれない。県警のエリートも、社会の金を奪っていくエリートの一員だ。その点で、警察のエリートも、世界の大富豪も似たようなものだ。

ただ、世界の大富豪と比べて、県警のエリートは金を持っていない気がする。しかし、世界のエリートは公権力によって守られる。なぜなら、国家をコントロールしているのが、世界の金持ちの金だからだ。

軍産複合体は戦争を、国家を操作することによって作り出す。産獄複合体は、犯罪者を作り出し、刑務所を民営化して劣悪な環境にする。農産複合体は、第三世界の現地民を平均年収よりも安い賃金で、なおかつ劣悪な環境で働かせる。その際児童労働も行われる。

エリートを守るのが警察エリートだ。なぜ貧困を作り出す仕組みは見過ごされるのか? 貧困を作り出した犯人を、捕まえるべきではないのか?上林の強い怒りは、ただ見せかけが派手な残虐性として、観るものの胸に突き刺さるべきなのだ。それが、新しい社会を作り出すきっかけになるのなら。