資本主義の家庭像

映画「フェイシズ(原題:Faces)」を観た。

この映画は1968年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマだ。

この映画の中心となるのは、企業の代表取締役のリチャード・フォーストという、初老ぐらいの男と、その妻のマリア・フォーストだ。この映画は、2人の人間関係が崩壊するまでの様子を描いている。

2人は夫婦の間のセックスがなくなっていて、会話も引きつるような笑いが多く、ぎこちない関係になっている。夫のリチャードは、友達と一緒に、売春婦を買って、日常の生活の憂さを晴らしている。

妻の、マリアの方も、裕福だが、人間性の欠けた夫婦生活に嫌気がさして、友達と一緒に、クラブに行き、若い男を、自宅に連れ込む。

リチャードの浮気はしょっちゅうだが、マリアの浮気は、この映画で観る限り、1回ぐらいのようだ。この2人の夫婦生活は、破綻している。それは、ヴィクトリアン・モラルや、結婚における社会通念と比較してみた時のことだが。

結婚における社会通念とは何か? それは婚前は、いろんな性的対象と付き合って、結婚をして、結婚をしたら、1人の性対象と一緒に、死ぬまで過ごすということだ。婚前通時多交渉、婚後貞節というのが、結婚のルールだ。

婚前通時多交渉というのは、婚前共時多交渉とは違う。共時多交渉というのは、同時に複数の人と付き合うことを指している。通時多交渉とは、1人の人と付き合って、お別れして、また別の人と付き合う、恋愛パターンのことだ。

この映画では、婚前通時多交渉、婚後貞節が、結婚の理想形とされているようだ。それは、2人の憤りを観れば、2人が結婚生活に、満足をしておらず、また、結婚の理想からの逸脱を、不快に感じている様子がわかる。

ここで、疑問が生じるのはどうして、人は、婚前通時多交渉、婚後貞節のルールを守りたがるのだろうか? ということだ。それは、嫉妬とお金の問題からだと思われる。

浮気をするとする。浮気をしたほうは、浮気して相手に与える不快感から、自己嫌悪に陥る。浮気をされて知った方は、浮気相手への嫉妬が、自分を苦しめ、相手を憎ませる。

浮気をすると自己嫌悪、浮気をされると嫉妬。その根底にあるのは、感情よりも、損得だ。つまり、お金の問題だ。

社会主義国が成功した形で、浮気が問題になることはあるのだろうか? もちろん、この世界に成功した社会主義の国はない。社会主義の国が、婚後多交渉を許すのかと言ったらそれは、時代にもよるだろうが、よくわからない。

社会主義の個人の財までもが、皆で共有された状態で、浮気はそこまで問題になるのだろうか? なぜなら、結婚した2人の生活の不安は、解消されるはずだからだ。つまり、財産が共有されていれば、離婚しても生活の不安がないし、財産の半分が配偶者に持っていかれるということもない。

生活の不安がなければ、そもそも人は結婚するのか? という疑問も生じる。資本主義の社会で結婚するのは、女性の場合は特に、経済的安定のためだし、男性の場合は、セックスの相手欲しさと、家事労働のためだろうからだ。もちろん、女性にも性欲があって、男性との性生活を求めているのもある。

経済的な安定が、国により保証されていたら、人はそもそも結婚生活を長く続けるのだろうか? それは、資本主義における結婚の現状へのアンチテーゼにもなる。財が共有されて、経済的に安定していれば、人は結婚する必要がなくなるのではないか?

結婚がその場合残るとしたら、それは子育てのためなのかもしれない。子供に対する基本的な世話は、両親がした方が円滑に物事が進むのかもしれない。

しかし、育児放棄の問題もあるのかもしれない。しかし、結婚しなくても、生活が保障されている社会では、育児にそこまでプレッシャーはかからないのではないか? なぜなら、そのような社会では、育児サービスも保証されているだろうからだ。

この映画「フェイシズ」は、資本主義社会における夫婦生活を描いた映画だ。しかも主人公は、金融投資関係の仕事という、資本主義で1番成功している、お金を稼いでいる企業の、代表取締役だ。

つまり、この映画「フェイシズ」は、資本主義で最も成功した人物とその家族が、実は資本主義社会で理想と捉えられる家族というシステムに、適合していないということを描いていることになる。

つまり、この映画の結論を言ってしまえば、資本主義と結婚は両立しません、ということだ。それは、この映画を観る人には、理解できるのではないか?

夫はお金持ち、お金はある。しかし、夫の愛がない。つまり、離婚だ。となったら、再婚するにも結婚市場じゃ歳をとりすぎているし、離婚したら今の豪勢な生活からランクが落ちてしまう。

私は、企業の代表取締役で、お金はある、若い女も抱くことができる。離婚したら財産が半分になる。だがまた稼げばいい。家事は人を雇っておけばいい。子供はもういる。ただ、どの女も俺の理想通りではない。女の本性を見ると、女に幻滅してしまう。

なぜ、男は女の現実に失望するのか? それは男性が、女性の社会的立場を理解することができていないからだ。この映画に登場するジーニーという娼婦は、リチャードに対して理想的だと思われた。だが実際はジーニーは、つまらない家庭的な女だった。

家庭を築くことでしか、女性は経済的な安定を築くことしかない時代だ。それが1960年代のアメリカだった。娼婦という不安定な生活をしていれば、理想的な家族像を利用して生きようとするのは当然だ。娼婦以外の多くの女性たちと、同じように。

結局は、経済の安定なのだ。愛のある結婚は、資本主義社会が、再生産(子供を作り、産み、育てること)のために作り出した、幻想であると、この映画を観ていると思わざるえない。愛のある家庭は、資本主義の作り出したプロパカンダなのだ。

この世界を支配している金融のプロでも、結婚はうまくいかない。それがこの映画の描いている最高の皮肉だ。資本主義が存続させるためのプロパカンダを作り出しているはずの支配階級が、なぜだかプロパカンダに縛られている、というのが、この映画の持つ滑稽さだ。

アメリカの金融界、ウォール街は、世界を支配している。映画「ウルフ・オブ・ウォールストリート」では、金融界の人々がドラッグやりまくり、娼婦と仕事場で公然とセックスするような様子が描かれていた。

この映画「ウルフ…」でも、映画「フェイシズ」のように酒や売春に、金融界の人々は浸っている。金融業界は1960年代からやっていることが変わっていない。そして、今も金融業界の人々は、“幸せな家庭”を、望んでいるのだろうか? それとも「結婚なんて俺たちの作り出したプロパガンダなんだから知らないよ」なのだろうか?

ただ、好きになった女が、結婚生活を望むのならば、資本主義である限りは、男は家庭を築くのだろう。プロパガンダを作ることはできても、女性の安定を作ることは、定着した女性の理想像を壊すことは、女を好きになった男にはできないのだろうか?