家父長制という檻の中の小鳥

映画「少女バーディ 大人への階段(原題:Catherine Called Birdy)」を観た。

この映画は2022年のイギリス映画で、映画のジャンルはイギリス時代劇だ。

この映画の舞台は、13世紀イギリスのリンカン ストーンブリッジ村だ。その村の領主の家族が、この映画の中心となる。

この映画の主人公は、ストーンブリッジ村の、経済難に陥っている領主の娘であるキャサリンだ。キャサリンは、自分のことを皆に“バーディ”と呼ばせている。この映画の原題の“キャサリンはバーディと呼ばれた(Catherine Called Birdy)”は、このことを指しているのだろう(映画「レディ・バード」の主人公みたいに、自分を自分のつけた名前で呼ばせている)。

14歳のキャサリンの父ロロ卿41歳は、利益をよく考えない無謀な浪費で、経済難に陥っている。お金が無くなっても、ロロ卿は言う。「私は農民のように、パンと水だけで暮らすのは嫌だ」と。

つまり、ロロ卿は、領主の名に恥じない浪費をしている。豪勢な暮らしをして、農民と差をつけて、我儘に生きていく、それが、ロロ卿の生き方だ。

しかし、浪費というのは、経済的に良くないことなので、ロロ卿の財産はどんどん少なくなり、娘のバーディをお金持ちの男に嫁がせて、お金を貰おうと考えるようになる。酒を飲みながら、ロロ卿は娘のバーディを金持ちに嫁がせる判断をする。

ただ、結婚をするなら子供を産まなければならない、というのがこの時代の社会通念だった。子供を作るのが結婚であり、結婚するならば子宝に恵まれるのが当然、という考え方だ。つまり、非常に、女性にとっては狭苦しい社会だ。

当時の、女性の職業の選択の自由はほぼなかった。女性は、結婚して子供を産むのが唯一の道というくらいに、女性に生き方の、職業選択の自由はなかった。バーディを、金持ちの男の所に嫁にやるというのは、当時としては当たり前の考え方だった。

そして、13世紀の、女性の運動なんてない時代のバーディは、この時代の通念に馴染むことができなかった。バーディは、職業選択の自由を望んでいた。バーティは、かっこいい母親の弟のジョージ叔父さんのように、戦士として十字軍の遠征に出ることを夢見ている。

バーディは、十字軍に遠征するジョージ叔父さんに憧れているが、ジョージ叔父さんの方は、遠征に疲れ果てているようだ。遠征によって出る、死傷者のことがジョージ叔父さんの心を蝕んでいく。

結果的に、ジョージ叔父さん28歳は、20年も歳の離れた金持ちの未亡人の所に、婿に行く。そのジョージ叔父さんの姿は、結婚しか選択肢がないような、バーディのような女の子と変わらなく悲惨な感じが出ている。

バーディは、ジョージ叔父さんに尋ねる。「叔父さんは、妻が好きなの」と。するとジョージ叔父さんは答える。「好きになれるように、努力はしている」と。つまり、ジョージ叔父さんは、十字軍の遠征でPTSDになって、仕方なく金持ちの所に婿に行ったということだ。

中世の貧乏人に、選択肢はないということだ。領主でも男でも金がなければ、自分の意思とは違うことをしなくてはならない。それは、現代の労働者の子供が、両親同様に安月給の仕事に就かなければならないのと似ている。貧乏人に自由はない。

男でも自由はなかった時代、当然のように女性にも自由はない。もしかしたら、これは実は、今の時代も同じことなのかもしれない。お金持ちが、世界を支配している。そのような図式は、中世も現在も同じなのではないか?

バーディは14歳になり、子供が産める体になる。つまり、月経がバーディにもおとずれる。バーディは、自分の知らない、しかも歳の離れた、男と結婚するのが、当然のように嫌なので、月経が来たことを隠そうとする。

それを見つけた母親は、激怒する。「あなたも社会が敷いた生き方に乗りなさい」と母は言う。バーディの母親レディ・アシュリン36歳は、何度も子供を身ごもっては流産している。「この疲れをとって」とアシュリンは、バーディにぼやく。

バーディの父親のロロ卿は、妻であるアシュリンに、何度も子供を身ごもらせている。そして、流産するたびに、アシュリンは疲れ果てていく。精神的にも、肉体的にも。そして、その様子を、バーディは観ている。“自分もいつかこうなる”と。

この映画はコメディだ。流産のために死んだ赤ちゃんの話が、暗く語られることはない。死んだ赤ちゃんたちのことを、バーディは恐れていない。バーディは、赤ちゃんのことを、自分の血を分けた兄妹だと考えているようだ。

何度、妻のアシュリンが流産をしても、ロロ卿は子作りをやめない。まるで、何かに憑りつかれているみたいに。おそらく、当時の社会通念が、ロロ卿を駆り立てているのだろう。”領主は子供を多く作れ”、のような。

バーディの母アシュリンを観て、バーディはどう思っているか? 母親は、父親といつもセックスをして、なんだか幸せそうだ、と思っているのか? それとも、母親はなぜあんなに子供を作り続けるのだろうか? だろうか?

おそらくバーディは、その両面をとらえている。物事は、簡単に白黒分けられるようなものではない。バーディはそう思っている。そう、女性は子供を産んで育てるのが、生きている意味、みたいに、明白に言い切れるものではないのだ。

バーディは、羊飼いのパーキンという男の子も好きだ。ジョージ叔父さんも、好きなのだが。つまり、この点でもこの映画は良くできている。そう、女性の好き嫌いは家父長制におさまりきるものではない。

家父長制は、近親婚を禁じて、女性の役割を再生産(つまり子供を身ごもって、子供を産み、子供を育てること)に限定して、財産の相続を子供にだけする、というようなルールを持っている。

その家父長制は、人間の趣向というよりは、支配力を持つ男が後付けで作り出した、人工の制度だ。よって、家父長は、多くの人にはなじまないものだ。それは、バーディにとってもそうである。

家父長制は、バーディに結婚するように迫る。そのために、職業選択の自由は、バーディにはない。バーディは、家父長制という檻の中に囚われた、まさしく“鳥”だ。バーディは籠の中の鳥だ。

バーディの人生を決定するのは、暴力的な力を持っている父親だ。つまり、家父長制は男の肉体的強さによって成り立っている。それを、示すのが、この映画でも見られる、決闘だ。つまり、力と技量があるものが、世の中を支配しているのだ。

バーディはまだ14歳だ。親の保護のもとで生きている。ただ、その親の信じる世界が、作っている世界が、間違ったものだとしたら…。その世界は、その世界観は、バーディを縛り続けるだろう。バーディの内から。そして外から。