夢と荒唐無稽

映画「スパイの妻 劇場版」を観た。

この映画は2020年の日本映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画は、2020年の6月にNHKのBS8Kで放送されたものの、スクリーンサイズや色調を変えたものを劇場版として劇場公開したものだ。監督は「CURE」や「散歩する侵略者」などで知られる黒沢清だ。

映画の舞台は、第二次世界大戦末期の日本だ。主人公の福原聡子は、夫の福原優作の妻で主婦だ。聡子と優作の家は、召使がいるようなお金持ちの家で、優作は貿易関係の仕事をしている。

優作は趣味で、映画作りをしている。映画のカメラやフィルムは、当時は一般庶民の手に入るようなものではなかっただろう。ましてや、戦時中だ。物が不足している時代に、映画のカメラなどを趣味でもてる人間がどれほどいたのだろうか?

その劇中劇となる映画のヒロインは聡子だ。聡子は、金庫を開けようとしてそれが見つかり逃げようとして拳銃で撃たれて死ぬ。簡単に言ってしまうと、それがその映画のあらすじだ。そしてこの映画のあらすじが、映画本編のあらすじと重なることになる。

聡子は、妻という役割に熱中している妻だ。つまりそれは、現実をみていない妻としてこの映画では描かれる。妻という役割に没頭するあまりに現実から離れて妻の役割を自分の都合よく作り上げてしまう、それが聡子だ。

聡子の理想とする妻とは、一体何か? それは夫に愛され、夫と同じものを共有して、夫とだけと、できればスリリングな人生を楽しむ、といったものだ。そこに現実の悲惨な世界がからんできても、それは優作と聡子のための演出ぐらいの意味しか持たない。

それに対して、優作の持つ人生観とは何か? それは結婚よりも、コスモポリタン世界市民として、正義のために生きるというものだ。その正義は大義と言い換えてもいいかもしれない。つまり優作は、大義のために生きて、正義のために生きてはいないかもしれない。

映画の最後の辺りで、聡子は精神病院に入る。それは夫、優作の持っていた、日本の極秘資料を軍に渡すといって、映画のフィルムを渡したものの、その夫から譲り受けたはずの極秘資料=夫と聡子の共通の秘密=夫との親密性を現わすフィルムが、夫と撮った自主映画になっていたからだ。

それにより聡子は、夫の愛を失うことになり、夫と一緒に亡命してアメリカのサンフランシスコで暮らすはずの未来の約束がふいにされ、軍にでたらめな情報を流したためでもあるのか、聡子は精神病院に入ることになる。

精神病院にいる聡子は、精神病院に訪ねてきた優作の知り合いの訪問者にこう言う。「私は狂っていません。この世界が狂っているのです」と。

聡子は狂っていない。夫を愛し、良妻賢母として夫に仕えている。しかも日本の極秘機密を知っている。日本の極秘機密を聡子が知っている部分は、明らかに聡子は狂っていないといえる。

しかし、良妻賢母で夫のために尽くそうとする聡子は、明らかに家父長制に狂っているように思われる。それは家父長制が、男のための幻想だと信じている者ものにとっての聡子の狂いなのだが。

つまり、聡子は、家父長制を信じる者には狂っていないように思える。だがしかし、聡子は、精神病院にいる。それは軍事機密を知っていると狂言を言っているかのようにとられたせいではあるのだろうが、聡子があまりに妻という役割に没頭しているのもどこか狂っているように思わせる部分もこの映画にはある。

聡子は、最後字幕で、戦時中に消息を絶ち、しかしその死亡届に偽装がみられる優作を追って、きっと優作が生きて逃れているはずのアメリカに旅立った、と説明される。聡子は、まだ良妻賢母の夢を見ているのだろうか? それとも夫の言った通り戦争で焼け果て負けた日本の状況を受け入れ、現実を知ったうえで、なおかつ愛に生きようとしているのか?

しかし、現実を知ったのならば聡子は優作のもとに旅立つ必要などないはずだ。現実とは良妻賢母の思想のように整っておらず、夫は大義のために妻を捨て、別の女を愛するからだ。ギリシア神話のゼウスのように。現実は、荒唐無稽なのだ。