ヴィクトリアン・モラル

映画「西鶴一代女(読み:さいかくいちだいおんな)」を観た。

この映画は1952年の日本映画で、映画のジャンルはドラマ時代劇映画だ。

この映画の主人公はお春という女性だ。この映画はお春の人生を辿る形で進行していく。

この映画を観て最初に頭に浮かんだのは、家父長制という言葉だ。その家父長制とは、ヴィクトリアン・モラルを基軸とした、現代日本にも根深く存在する制度だ。その制度を簡単に言ってしまえば男と女からなる世界で、人間は男だけというものだ。

この映画の原作は井原西鶴の「好色一代女」という浮世草子だ。この原作が書かれたのが1686年だ。前述したヴィクトリアン・モラルが誕生したのは、19世紀イギリスのヴィクトリア時代に当たる期間の1837年から1901年だ。

つまりこの映画の原作は現代の家父長制の始まりとなったヴィクトリアン・モラルの生まれる前に書かれたことになる。現代の家父長制の始まる前から性的に奔放だった日本にこの映画のような性規範や家父長制があったかは、はなはだ疑問だ。

原作は「好色一代女」というタイトルで、この映画は「西鶴一代女」となっている。つまり映画のタイトルでは好色が消えて、西鶴になっている。なぜかと言えば、この映画の主人公が性的に淫乱で身を崩したことになってしまってはこの映画は成り立たないからだ。

ヴィクトリアン・モラルでは、自由恋愛をした女性は結婚後貞節になる。そして、家の中で子供を産むことのみを期待されて過ごす。いわば籠の中の鳥だ。籠の中の鳥に自由はない。あるのは、結婚という束縛だ。

この映画ではヴィクトリアン・モラルとは違って、自由恋愛が許されていない時代だ。主人公のお春に身分差を越えて恋をした男はこう言って死ぬ。「お春さんは自由に恋をしてください!!」と。

つまりこの映画は婚前多交渉・婚後貞節というヴィクトリアン・モラルの前提が否定されている。しかし、この映画の中で描かれる家父長制の世界はまさにヴィクトリアン・モラルそのものであるとも、ある部分では言える。そう、女性は籠の中の鳥でなければならない。

ヴィクトリアン・モラルでは結婚後の女性の貞節は固く守られなければならないものだ。それは女性の過去の詮索につながる。なぜか?それは女性の子供が男性から財産を奪わないようにするためだ。

ある男性と結婚していて、実はその男性以外との間にも子供を作っていて、その子供に遺産を相続するように申し出られたら、その妻子のある男性は財産を実の子供に多く残すことができなくなってしまう。つまり、財産が小さくなってしまう。

ヴィクトリアン・モラルを規範とした家父長制は、男性の財産を守ろうとする。それは、男性の財産が減ることを何よりも恐れる。そのため貞節でない妻は徹底的に差別される対象になる。

男性が財産を守ることに必死になれば、女性のすべての交友関係が問題となってくる。女性が子供を多く、今ある結婚以外で持っているのは嫌われる。財産が分割されてしまうからだ。財産を長子以外に渡す可能性が出てくる場合はすべて排除されなければならない。

しかし、この映画の男性の身勝手な振る舞いを観ていると、男性はそこまで家父長に対して合理的に動いてはいない。なぜなら男性は浮気をするからだ。浮気は財産分与の機会を多くしてしまうので浮気は家父長制に対して合理的ではない。

しかし、下劣な男性は家父長制の辻褄を合わせるために、自らの違反をなきものにする。それが一夫多妻だ。男性は多くの女性を抱えることができるというのが一夫多妻だ。一夫多妻はしかし、男の財産を分割してしまうのだが…。

性愛は合理的には進まないものだろう。そうでなければこの世界のいざこざが少なくなっているはずだからだ。愛欲のもつれの問題は今もある。性愛とは、誰かが誰かをコントロールするものなのだろう。だからそこに軋轢が生じる。