馬鹿で、頓馬な、大企業

映画「フロウ ~水が大企業に独占される!~(原題:Flow  For Love Of Water)」を観た。

この映画は2008年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。なお、この映画についての文章を書くのは今回で2回目だ。

この映画は、世界各地、特に第三世界で、水が大企業に独占されて、水不足や水の汚染で、世界各地で死者が出ている状況を描いたものだ。

まず映画の冒頭の後でおさらいされるのは、水の循環だ。大陸には血管のように河川がはりめぐらされていて、水がそこを通って地球の心臓である海に流れていく。海から蒸発した水は、雨となって大陸にも降り注ぐ。

しかし、そこで問題がある。この水循環の間に、人間が作り出した化学物質が入り込んで、私たちの飲み水を汚染している。工業薬品、ロケット燃料、農薬、牧場や下水処理場で使われる薬品、等の化学物質が、水循環に入り込んでいる。

これらの化学物質は、風邪や腹痛の原因となる。これらの物質は、水道水にも含まれている。

人間の肝臓で除去された化学物質は、トイレにから下水処理場へ行き、河川を流れ、また水道としてくみ上げられる。先ほど、示した水循環の途中にこの工程は含まれる。つまり、一度、化学物質が入り込むと、水循環から除去されないのだ。

化学物質の数は11万6千種類ある。これらの、化学物質が、水循環のうちに取り込まれている。

だから、ボトルの水を飲んでも同じことだ。ボトルの水も、水循環している水のうちの一つだ。その水循環には、化学物質が入り込んでいる。

 その影響として、メキシコの農業地帯で先天性異常の子供が増加、ヨーロッパの農業使用地域で不妊が増加、農薬の使用でタスマニアのガン発生率が倍増、セーヌ川の魚のメス化、テキサスで魚の細胞から高濃度の抗うつ剤検出、北極圏では動物だけでなく、イヌイット族の母乳からも汚染物質が検出。世界中の水に化学物質が入り込んでいる証拠だ。

例えば、ベトナム戦争で使われた枯葉剤も、水の循環に入り込んでいる。地球上で使われて、廃棄された化学物質が、世界中の水循環に入り込んでいるのだ。つまり、世界中の水は汚染されていて、その影響を地球上の生物が受けている。

化学物質を作り出したのは大企業だから、つまり水を汚染しているのも大企業だ。その大企業が、汚染されている水から人々を守るために、水道事業をしますと言ってきた。そして、その水事業は偽善的なものだった。

第三世界には、下水処理のシステムが整っていない。そこに大企業が工場を建てて、廃棄物を流せば、河川の汚染が起こる。この映画でも、魚の加工工場らしきところから、魚の血や内臓が河川に流されている映像がある。

だから、そこで西洋の大企業が、水道事業をして、下水処理設備などを整理します、と言ってきたのだ。もちろん、その水道事業では、企業はお金のことしか考えておらず、多くの人々がその水道事業とやらの犠牲になった。

まず、大企業は多額のお金を手に入れるために、高額の公共事業を行った。それがダム建設だ。世界銀行と大企業は手を組んで、世界中にダムを作った。高額の融資を、それらの国は受けて、その融資は国の借金となる。国はその融資の返済を、世界銀行や大企業に行うことになる。

ダムの大義名分は、貧しい人々に水を行き渡らせることにあった。しかし、そのダムから供給される水を利用できるお金を持っているのは、大農家だけで、一般の人々には、水の値段は高すぎるものだった。

水道水を飲めない人々はどうしたか? 人々は川の水を飲んだ。前述した、化学物質で汚染された水循環の中にある、川の水を貧しい人々は飲んだ。そして、汚染された水を飲んだ結果、多くの人が病気にかかり死んでいった。

こうした事態を解決するために、現地の人々が立ち上がって、それぞれに水を集めたり、集めた水を紫外線を使って除菌するシステムなどを、作り出した。それらの、取り組みのおかげで、安価でより良い水を手に入れることが、一部の人たちは手に入れることができるようになったとこの映画ではある。

高額な事業のためにダムを作ることは、人々に水を行き渡らせることを全く考えていない。水は雨から手に入る。だったら、雨を集める工夫を身近なところですればよい。わざわざダムを作る必要なんてなかったのだ。

大企業や世界銀行が考えることは、巨大な事業のことだ。つまり、どれだけお金が儲けれるか? だけが、そこでは問題にされるのだ。地球の環境や、水不足のことなど、世界銀行や大企業は考えていない。

一般的な人々のことを親身になって考えることができるのは、当事者である人々だけだ。大企業の思考に、一般の人々の生活のことは入っていない。彼らの思考は、金、金、金だ。金をより多く所有することだけが、彼らの目的だ。

欲張りな大企業は、アメリカでも水の所有権を手に入れようとした。水は太陽と同じだ。所有するものではない。この映画の中で登場する、活動家はそう主張する。それに対して企業は、水をボトルに詰めて売ることだけを考えている。だから企業は水を所有したがる。

水にブランドのラベルを張って売り出す。すると、タダで手に入れられるものであるはずの水に、お金が払われる。ただのものから、高額の儲けを引き出す。大企業が好きそうなアイデアだ。元値はかからず、利益を大きくする。

大企業はお金のことしか考えることのできない、ただの頓馬か馬鹿の集団だ。大企業の思考は、半歩どころか、何万歩も、人々の思考から遅れている。有名な大学を出て、何か国語も操れるようなエリートの、教養の生かし方は実に浅はかだ。

大企業には当然、有名な大学を出たエリートが入る。しかし、そのエリートの目的は、公共性にはない。エリートの目的は、お金を、儲けることだけだ。美人の妻に、愛人に、高級車に、豪華な邸宅に、かわいい子供に、将来の余剰な安定。それが、エリートの目的だ。

エリートと水を買うことができない人々とのずれが、ここでは見て取ることができる。お金を儲ければいい、という短絡的な思考が、ここまで権力を握ってしまったのはなぜか? なぜものを持たない美徳が、ここまでないがしろにされるのか? なぜ所有しようとするのか? なぜ公共的な思考ができないのか? エリート教育とは一体何か? この映画を観ると、様々な疑問が浮かんでくる。