教養と愛情

映画「ローラ殺人事件(原題:Laura)」を観た。

この映画は1944年のアメリカ映画で、ある女性の殺人事件をめぐるミステリー映画だ。

この映画で主人公となるのはマーク・マクファーソンという刑事だ。そしてマークが担当することになるのが、ローラという女性の殺人事件だ。そうこの映画の邦題にも原題にもあるローラのことだ。

最初に結論を言ってしまうと、ローラは殺されてはなかったということだ。ローラは殺されたと思われていたが、実は別の女性がローラと間違われて殺されたのだ。

そのローラと誤認されて殺された女性の名前はダイアンという。ダイアンはローラの婚約相手の交際相手だ。ローラの婚約相手はローラ以外にも女性と付き合っていた。

この映画の始まりの方で、いかにローラが上流階級の人間あるウォルド・ライデッカーにより淑女に作り上げられていたかが物語られる。ウォルドは要は知識人で、ラジオの番組を持っているような大衆に人気の上流知識人だ。

ただし、上流といっただけでその人間の人間性までもが保証されているわけではない。知識人を人は信用するが、知識と人間性とは別のものだ。かつてナチス・ドイツの上位の者たちが高い教養を持っていたことからもわかるように、知識と人間性は比例しない。

この映画をザックリと言ってしまえば、マーク・マクファーソンという常識的でまともな人と、ウォルト・ライデッカーという偏執的な人物、そしてローラ・ハントという博愛の人物が織りなす人間劇だ。

マークの視線は映画の観客の視線と重なる。ウォルドの視線に人々はおぞましさを感じる。そしてローラ・ハントの博愛さに人は魅了される。

ナチスを例に出したが、日本でも勝ち目のない戦争に人々を引きずり込んでいったのは、日本のエリートたちだ。戦争に高揚して人々を戦場へ送り込み、飢え死にさせる。それが日本の1900年代初期から半ばにかけてエリートたちが行ったことだ。

ローラはウォルドを愛し、ジャコビーを愛し、シェルビーを愛する。ローラは愛する気持ちに正直に生きようとするが、なかなかウォルドの洗脳的な愛し方から脱することができない。

ローラの求める愛は必ずどこかに欠乏があり、その欠乏を見せつけられるとローラは恋を諦めざるえなくなる。よく知られていることだが、この世に完全なものなどない。当然人間の愛についてもそう言える。

完全な愛などはない。しかも愛の形も不定形だ。人はただ、愛していると言えるような状態を続けたり断ったりしているだけだ。