セックスのタブー視、女性の従属

映画「ドアをノックするのは誰?(原題:I Call First/Who’s That Knocking at My Door)」を観た。

この映画は1968年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画に登場する、主な登場人物は、J.R.という青年と、その2人の男友達、そしてJ.R.の恋人の女性だ。

J.R.は職に就かずに、周りの人から借金をして、生活をしている、酒とケンカ好きな、いわゆるごろつき、パンクだ。J.R.の2人の友達のうちの、サリー・ガガという青年は、女性とセックスしている最中に、その女性の財布を盗んで、しらばっくれるような、ろくでなしだ。

その女性が「40ドルがないわ」というと、ガガは「知らないよ」と言う。ガガは女性をなだめるために、ガガがその女性から盗んだ40ドルのうちのいくらかを、女性に貸すという形で渡して、女性は納得してガガの元から去っていく。

とにかく、J.R.たちは手荒いし、ガサツだ。J.R.たちはニューヨーク近くに住んでいて、イタリア系か、ユダヤ系の、不良青年だ。生まれも貧しい。酒とケンカとセックスが、J.R.たちのしていることだ。

パンクな青年であるJ.R.は、好きになった女性だけには貞節を求める、古風な男だ。キリスト教文化圏であるアメリカの青年としては、当時、当たり前のことだったのかもしれない。J.R.は恋人がデイト・レイプ・セックスにあったことを、恋人のせいにして、恋人を“許すこと”ができない。

男性が女性を誘い、人がいない場所で、車の中などで、女性をレイプするのは、明らかに男性に責任がある、男性の罪だ。しかし、J.R.は、デイト・レイプ・セックスを女性のせいにする。“レイプはされる女性に落ち度があったんだ”というのが、この場合のJ.R.の思考だ。

キリスト教の結婚観が支配するアメリカなどの国では、男性は1人の女性と一生を共にするという価値観が根付いている。処女マリアが、結婚する女性の理想とされている。結婚対象にしない女性、例えば路上にいる売春婦の場合はその例外とされるが。

J.R.の中には、結婚する女性と、売春婦は違うという認識がある。女性は、処女が好ましいが、セックスしたくなったときは、“売春婦という通常の女性とは別の女性”とセックスをする。映画の中で、J.R.は恋人に対して、「君と町の売春婦とは違う」とはっきり言う。

しかし、そのセリフの後に、恋人がデイト・レイプ・セックスに遭ったと言うと、J.R.は、売春婦と恋人との差異がわからなくなる。純潔な恋人が、実は結婚以外でセックスをしている、しかもレイプされた”穢れた女性”だった。J.R.は恋人のことを、そう受け止めることしかできない。

デイト・レイプ・セックスは、男性の落ち度であり、それで女性は傷つく。そのことで、女性は周囲に保護される必要があるが、J.R.の恋人のように、多くの女性はデイト・レイプ・セックスを隠す。それは、レイプされた女性は嫌われるからだ。

デイト・レイプ・セックスについての教育は、学校で行われていないのだろうと、この映画では思わせる。なぜなら、デイト・レイプ・セックスされた女性に対するJ.R.の態度があまりに、女性に対して無知だからだ。

レイプだけでなく、婚外のセックスや、子供を産まないセックスは、タブーとされていた時代があった。それがこの映画の作られた、1968年にも根強く残っていた。キリスト教の気範に基づくセックス観や、家族観は、19世紀に生まれたヴィクトリアン・モラリティが基盤となっている。

それは婚外のセックスを禁止して、女性は男性の財産になり、子供を作るセックス以外は認められなかった。当時、有効な避妊具がなかったのが、セックスは子供を作るものとされていた主要な原因だったのかもしれない。

セックスがタブーなこのような社会だと、性教育はもちろんされない。当然、男性は、男性の中の男性中心的なセックス観で、女性とのセックスを妄想する。そこに女性の本当の気持ちは登場しない。

セックスがタブーな社会だと、レイプはもっとタブーだ。レイプは、社会的に黙殺される。セックスがタブーな社会において、男性の性欲が抑圧されて、暴力的なセックスのイメージと共に、女性へのレイプが暴発する。そのレイプは、男性を守るために、隠されることになる。

男性を告発した女性は、女性が穢れているものとされるので、女性のレイプ被害の主張はかき消される。女性は、男性の財産で、女性に主体性はないからだ。女性に性欲はある。しかし、女性はセックスを恐れる。それは、男性中心的なキリスト教圏内では、女性は保護されないからだ。セックスでは、子供ができるからだ。

女性の経済的自立は、女性が男性の財産とされる社会では、避けられるものとなる。男性並みの経済力は、女性に男性並みの力を与える。特に、女性の人権が保障されていない社会では、女性が経済力を持つことが可能なら、それはきっと生き抜くための有効な手段となったはずだ。

しかし、1960年代のキリスト教価値観をもつアメリカ社会では、女性が結婚以外の選択肢を持つことは、ほとんどできなかった。そこで、女性は、セックスに対する誇大に間違った先入観を抱いている男性と結婚するほかなかった。

セックスをタブー視する社会で、しかもその社会は男性中心的な社会であった場合、抑圧されるのは女性だ。セックスに対するタブーがなく、男性中心的でない社会ならば、女性に負担がかかることはないだろう。

暴力的なセックスは、男性に女性を屈従させる力を持っている。レイプ被害に遭った、女性は、男性に対して恐怖を覚える。その恐怖を、男性社会は利用するのだ。

セックスによる人間の屈従。それを利用した事件が、中国の新疆ウイグル自治区で起こっている。それは、2010年代に入って起ったものだ。

新疆ウイグル自治区は、石油や天然ガスが豊富にある地域だ。中国の経済発展にその資源は利用される。中国の経済発展のために、新疆ウイグル自治区には、入植者たちが入ってきた。それが1990年代から、2000年代のことだ。

入植者は、いわゆる植民地の支配者のことだ。新疆ウイグル自治区は、中国の支配下に置かれたということだ。そこでは、中国政府による監視体制が敷かれた。そこでは、住民の職業訓練などの再教育もあった。

その再教育の際に使われたのが、拷問とレイプだ。強制的に、新疆ウイグル自治区支配下に置いた中国に、現地の人は抵抗感があるのだろう。でなければ、拷問やレイプなどの手段は使われない。それとも、中国政府は、新疆ウイグル地区の現地民に必要以上の従順さを求めたのかもしれない。

映画「女工哀歌」では、中国の経営者が、工場の従業員である女性を、安い賃金で酷使する様子が描かれていた。その様子から想像すると、新疆ウイグル自治区での、現地民の置かれた立場は酷いものであったことが想像される。

新疆ウイグル自治区では、中国で使われるコットン(綿)の80%が生産されている。つまり、中国製のコットンを使っている人たちと、新疆ウイグル自治区で起こっている、現地民への迫害は繋がっている。

新疆ウイグル自治区の女性に対して使われたのはギャング・レイプという方法だ。集団で、女性をレイプして、女性の尊厳を折るという方法だ。そのような様子を、この映画「ドアをノックするのは誰?」でも見ることができる。

ちなみに、デイト・レイプ・セックスを扱った映画には「プロミシング・ヤング・ウーマン」という映画がある。デイト・レイプ・セックスは、現在でも起こっていることなのだ。

セックスをタブー視する社会。女性を屈従させる社会。そのような社会を変える力が、私たちにあることを忘れてはならない。

 

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