捏造されたイメージを取り払え

映画「プロミシング・ヤング・ウーマン(原題:Promising Young Woman)」を観た。

この映画は2020年のアメリカ映画で、映画のジャンルはスリラー、ダーク・コメディだ。

この映画の主人公は、カサンドラ・トーマスという映画中で30歳を迎える女性だ。カサンドラ、通称キャシーは、夜な夜なクラブに行って泥酔したふりをして、男にナンパされ、男の部屋に連れ込まれて、レイプされそうになると「あんた、何してんの?」と急に素面になって男をビビらせる、ということをしている。

キャシーは、男のデート・レイプが許せない女性だ。それは多くの女性と共通する価値観だと思われるが、キャシーの場合は男に対して、デート・レイプする男を懲らしめようとする点で、他の女性とは違うということができるかもしれない。

なぜ、キャシーはデート・レイプする男に対してそこまでするか? それは、世の中の男が、女性を酔わせて家に連れ込んでレイプするのを常套手段としているからだ。それと同時にキャシーには、幼いころから仲の良かったニーナ・フィッシャーという女性がいて、ニーナがデート・レイプされた後に、デート・レイプされたために命を絶った過去があるからだ。

なぜ、世の中からデート・レイプがなくならないのか?

例えば、2015年の2月10日のWashington Post紙の記事の、Some alums object when ‘Princeton Mom’ says some ‘date rape’ is just a bad hookup, a ‘learning experience’という記事がある。

この記事のタイトルにプリンストン・マムとあるが、これはプリンストン大学の卒業生のSusan Pattonという女性で、大学で男を探す重要性についての本の著者でもある。

この記事のタイトルからわかるように、スーザン・パットンは、デート・レイプはただの悪いひっかけで、体験から学ぶものだと述べている。つまり、女性がレイプされてもそれは学びの経験だと言っている。つまり、デート・レイプする男性を、スーザン・パットンは責めない。

レイプが学びのための経験? 心に傷を負ってようやく学ぶ? もちろんこのパットンの発言は厳しく非難されている。パットンは現実に起こっているデート・レイプ、特に大学で起こるデート・レイプの現実を容認しているものととられても仕方がない。

インターネットでdate rape sex Washington postで検索をしてみると、トップ辺りには、80年代後半から90年代前半に書かれた記事がヒットする。この時代の辺りからデート・レイプは、注目を浴びるようになったのかもしれない。

しかし、それ以前にデート・レイプがなかったというわけではない。女性は、大学のキャンパスで男性に襲われる危険を感じていただろう。デート・レイプに関する最初の著書Against Our Will: Men, Women and Rapeが、アメリカのジャーナリストで作家で活動家のSusan Brownmillerによって1975年に書かれている。

A Brief History of Woman in Higher EducationというJone Johnson Lewisによって書かれた2019年3月24日の記事によると、1970年以来、大学に通う女性の数は、男性の数を越えている。つまり、大学に通う女性の人数が増えた時に、大学でのデート・レイプの実態が告発されたということになる。

デート・レイプは、特に大学で起きたものが注目されている。大学で親の保護から離れて、解放された気分になった男性たちがすることが、デート・レイプという女性への抑圧だ。この映画でも、大学でのデート・レイプが取り上げられている。

この映画が発表されたのが、2020年だ。デート・レイプは、今現在もなくなっていないといことを物語っているのかもしれない。1970年代に大学でのデート・レイプが告発されて50年近く経っているが、デート・レイプに関する記事は無くならない。

この映画でも男性は女性を酒で酔わせたり、ドラッグを吸わせたり、ドラッグを口に含ませたりして、抵抗しない女性をレイプしようとする。男性は、セックスに対する強い欲望に突き動かされている。男性は自制できない。

この映画でキャシーは、男性に復讐するというよりは、デート・レイプを容認する、すべての人に警告する。復讐よりは、キャシーの行動は警告に近い。女性はデート・レイプされると、死を選ぶほど傷つくのだと。

この映画でも男性は女性に対して、強い興味を持っている。女性を、セックスの相手としてしか見ていない。女性の名前や住所や年齢や職業や趣味などには、全く興味がない。男性はセックスするだけの女性と、付き合って結婚する女性を分ける。

男性は、結婚を望む相手には優しくする。ただし、セックスの相手だけの女性には冷たい。ひと時のセックスを楽しめるものと、男性は思っている。しかし、現実にひと時のセックスとは存在しないに等しい。

同意が、セックスに関しては問題になってくる。女性からセックスの同意を得ることが難しいのかもしれないが、それ以前に、男性は女性にセックスに関する同意を得ようとしていない。セックスは、同意がある性行為だ。レイプは、同意がない性行為だ。

なぜ、男性は同意のない性行為に走るのか? それは、男性への、教育や家庭やメディアが男性に対して強化したイメージの問題なのかもしれない。性行為への強い衝動に駆られた男性は、どのようにしてできあがるのか?

性行為ができるのが立派な男、というようなイメージが出来上がっているのではないのだろうか? また性欲はメディアにより強化され、そのメディアを友達などが是認していく。メディアはセックスをばらまき、友達もそれに便乗して、セックスに対するイメージを加速させる。

家庭も、その一環かもしれない。なぜなら、家庭は子供をつくるセックスを容認するからだ。となると、セックスを禁止してしまえばいいのではと思われる。しかし、合意があればセックスはしていい。

問題は、循環するセックスに対するイメージだ。そのイメージを、良好にするためにメディアは動かなくてはいけない。つまり、セックスには同意が必要というイメージを振りまくのが、家庭や教育やメディアの使命になるべきなのだ。

セックスは気持ち良いとか、女性のノーはイエスだとか言っているうちは、何も物事は進まない。セックスの快楽よりも、セックスのための同意の必然性を人々は口にするべきだ。セックス=気持ちいい、ではなくて、セックス=合意、というイメージを流通させる。

過剰にセックスの快楽を求める、過剰にセックスの男性性の誇示を認める、そのようなイメージを取り払っていくのが、これからの私たちの進む方向性ではないのか? セックスに関する捏造されたイメージを取り払っていくのが、これから私たちが進む道だ。