管理社会を懐疑せよ

映画がテレビ化された、テレビシリーズの第1作目「ロボコップ:ザ・シリーズ(原題:RoboCop:The Series:The Future of Law Enforcement)」を観た。

このテレビ・ドラマは1994年のテレビ・ドラマで、ジャンルはバイオレンス・SF・アクションだ。

このテレビ・ドラマの元になった映画版シリーズ第1作目の監督は、最近では映画「エル Elle」を撮ったことで知られる、ポール・ヴァーホーベンだ。

このテレビ・ドラマの舞台は、近未来のこの世の終わりのようなデルタ・シティだ。この市は、オムニ社という大企業と契約して、街の事業を任せている。オムニ社は既に、市との契約の一環として、警官の機械化を受け持っている。

警官の機械化で生まれたのが、このテレビ・ドラマのタイトルにある、ロボコップだ。ロボコップは人造人間で、体のほとんどの部分は機械でできている。漫画「サイボーグ009」のサイボーグのように、ロボコップもサイボーグなのだ。

このテレビ・ドラマは、大企業と、公営サービスをつかさどる街が、手を組んでいる。市は市の事業を企業に発注して、コンペで勝った企業に事業を委託している。企業と市の間の関係はズブズブで、企業が儲かれば、市長も優遇される状況にあるようだ。

なぜなら、市長はオムニ社の開発のことを悪く言わない。市民にとって不都合な開発でもだ。

市はオムニ社と結託して、市の管理を一括で行えるようにしてしまう。市の電力や管理を、中央のコンピュータの脳でコントロールできるようにしてしまう。ジョージ・オーウェルが小説「1984」の中で書いた、管理社会を近未来のデトロイト市で行おうとしている。

今でいうなら、スマート・シティだ。すべてのインフラを電子化して、人ではなくコンピュータの管理に任せて、一部の優遇された人たちのための社会を作り上げる。そのために、その他の人々は今よりも悪い環境に置かれる。

実際、中国ではスマート・シティが実際に誕生している。お金の支払いが、現金ではなくで、スマホで決済をするのが一般化している。そのレポートを映画評論家の町山智浩さんがしていたが、町山さんのスマホは、街の決算を行うためのアプリにログインできずに、決算がスマホで行えない状態になったと言われていた。

これが、スマート・シティの実態を端的に表している。つまりスマホが持てない貧困層は、街に入っても何もできないということが起こりうる。町山さんは、スマホで決済ができないがために、街での買い物の支払いの際に大変な不便に遭遇した。

スマート・シティは管理されて便利になる一方、監視カメラで、人の動きが常に録画されていたり、プライベートな空間すらも、監視される状態になる。ただ半面、管理されているので、急病者の発見や、犯罪の場面を、合理的に正確にとらえることができるかもしれない。

街の管理という場面においては、日本でもマイナンバーカードというものが既に導入されている。人間を数字で扱うという点に、抵抗が多い方もいると思う。しかし一方でマイナンバーカードは、生活保護の不正受給をなくすなどの合理的な面もある。

プライベートな空間を制限される代わりに、合理的に社会を運営することができるのが管理社会だ。ただ管理社会では、管理社会の管理からこぼれる人間が出てくる。そうこのテレビ・ドラマ「ロボコップ」でも描かれているような、ホームレスは人体実験の被験体、という状況が起こりえるのだ。

しかし、人間が被験体のような扱いを受けるのは、管理社会が完成した段階の社会だけではない。社会では社会から排除された者を、ごみのように扱うという状況がある。大阪では戸籍を売らないかと持ちかけられるホームレスの人もいる。

このテレビ・ドラマ「ロボコップ」で描かれる近未来のこの世の終わりのような社会は、実は現実の社会でも起こっていることだ。このテレビ・ドラマが作られたのは1994年のことだが、この時よりも、現在は、このテレビ・ドラマで描かれている状況に、より近づいているとも言えるかもしれない。

管理社会はディストピアだ、というのがテレビ・ドラマや映画や小説における定説になっている。管理社会に向かう、現実社会に対して警鐘を鳴らすのが、テレビ・ドラマや映画や小説の役割でもあるということができる。それが人間の良心だ。

城の周りを城壁で囲った時から、既に管理社会は始まっていたのかもしれない。城の周りの町ができて、その周りを城壁が囲む。その中では、城主に税金を払い、それにより城主の保護を受けた者しか、正規の販売者としては扱われない、というような。

このテレビ・ドラマ「ロボコップ」で唯一救われる点は、街の管理者が善良な女性の脳ということだ。善良な女性なら、相対的に恵まれない人たちのことを考える視点を持っていることが、女性という差別される存在という状況により培われた想像力によって期待できる。

実際にこの街を管理するブレインは、優しい女性だ。街の病院に生命維持装置がないと生きていけない赤ちゃんの存在を知ると、この女性のブレインは即座に危機感を覚える。良心を持つのが、このブレインの特徴でもある。

この女性のブレインを開発したのは、人間を権力者に都合の良い合理的生き物に変えてしまうような意思を持っている、オムニ社の科学者だ。この科学者は街の管理をするコンピュータを作った自分が、街の支配者になるべきだと考えている。

つまり、公的な情報を私的に利用する。ロボコップがこの科学者の逮捕をしようとしていることも、この科学者は公的な情報へのアクセスによって知る。情報を管理するものが、世界を支配する。

この独善的で合理的な支配観に反対するのが、女性のコンピュータをつかさどるブレインだ。このブレインは、この科学者と対立する独善的でない合理性とも言えるかもしれない。しかし、この女性のブレインを採用したのはこの科学者なのだが。もちろん、女性の脳以外は廃棄処分しているが。

女性のブレインは、人間性を残したブレインだ。このブレインは、極限の状態でどのように判断をするのかは、このテレビ・ドラマの中ではまだ未知数だ。ただ、この映画の中では、この女性のブレインに対する描かれ方は好感を持ち得るものだ。

このテレビ・ドラマ「ロボコップ」では、管理社会がモチーフであることはこれまでの記述で明確だと思われる。そして今現在の社会は、管理社会の方向性に向かって進んでいると言える。問題は、管理する側の倫理性と、管理される側の民主主義的な動きだ。

管理される側の民主主義がしっかりと確立されていて、それが管理する側をしっかり監視することができれば、その管理社会はもしかしたら成功するのかもしれない。管理社会の問題性は、管理する側の善性が独善的にならないかどうかにある。

このテレビ・ドラマ「ロボコップ」は、管理社会の在り方について、懐疑的に考えるヒントを私たちに与えてくれる。