触れられないが愛を求めてしまう

映画「シザーハンズ(原題:Edward Scissorhands)」を観た。

この映画は1990年のアメリカ映画で、映画のジャンルはダーク・ファンタジーだ。

この映画の主人公は、エドワードという人造人間だ。エドワードは街の離れの山の頂上にある城で、ある貴族のような男性に作られた、手がハサミになっている人造人間だ。

エドワードはもとは、野菜を刻む機械だった。その機械から直接進化したのか、それともその男性が機械からの間接的な進化の着想を得たのかは定かではないが、その刻む機械をルーツに持つのがエドワードだ。つまりエドワードは、労働する機械をルーツに持つ。

エドワードはその貴族のような男性が死んでから、しばらくはそのまま山の上の城にいたが、ある時、化粧品売りの女性が城を訪ねてきた際に人間社会に取り入れられることになる。その女性は、エドワードのことがかわいそうだと思った。

もとが労働する機械だけあって、人間の社会に入ったエドワードはその力を存分に発揮する。切ることが専門の機械をルーツに持つだけあって、庭の木をきれいに切りそろえ、女性の髪まで切ってしまう。

この映画の舞台となる街は、アメリカのどこかの郊外だ。マイカーを持ち、愛犬を飼って、子供もいて、家族でクリスマスを祝う。そんな典型的な郊外の家庭だ。

1950年代に確立されたようなこのような生活様式に含まれるものは、女性の専業主婦化だ。家庭の中に閉じ込められた女性は、自らの愛情表現を家庭の中だけに閉じ込められてしまう。女性の愛情は、家族の所有するものとなる。そこで女性は、行き場のない愛情を抱えることになる。その愛情とは、いわば性欲のようなものだ。

エドワードは最初は、専業主婦たちのアイドルになる。専業主婦たちの行き場のない愛情の矛先が、エドワードに向かう。その愛情をセックスという形で得ようとする女性にとっては、エドワードのような触れることのできない存在とは、その女性の願望は達成されない愛情の形をとる。エドワードは手がハサミだ。エドワードの愛情表現は限られる。

エドワードは、化粧品売りの女性の娘を好きになる。その女性はキムという。キムに強盗に入るように言われて、エドワードはキムへの愛のために、そのキムの願いを聞き入れる。それによりエドワードは、警察に捕まる。

その際にエドワードは釈放された時に、キムの父にこう言われる。「君は大金を拾ったらどうする? その金で自分の好きなものを買う。愛する人の欲しいものを買う。貧乏な人にあげる。警察に届ける。君はこのうちどれを選ぶ?」。

するとエドワードはこう言う。愛する人に捧げますと。つまり、エドワードは社会のルールよりも愛を選択する人造人間だ。その選択は、社会で生きるには生きにくい選択肢となってしまうのだが。

エドワードの手は、ハサミだ。愛情を触れることで表現しようとしても、それは相手が傷つくことになってしまう。愛情は、エドワードにとっては触れることではなくなる。しかし、エドワードはその事実を受け入れることができない。

どうしても、愛する者に触れようとしてしまうからだ。

エドワードは触れることより、切ることで愛情を表現する方法を学ぶ。それは、キムと過ごした時間に身につけたものだ。夢中で自分の特技である切ることをしていると、それが相手にとっての一番の贈り物になる。その印が映画の冒頭と、劇中と、ラストで観ることができる。