泣け!!マッチョよ!!

映画「クライ・マッチョ(原題:Cry Macho)」を観た。

この映画は2021年のアメリカ映画で、映画のジャンルはロード・ムービー・ドラマ映画だ。

この映画の時代設定は、1979年だ。この映画の主人公は,、マイケル・マイロという年老いた老人だ。マイケルは元ロデオの大スターで、今は馬の調教師をやっている。マイケル通称マイロは、ハワード・ポルクという男に雇われている。

ある日、マイクはハワードに首を言い渡される。昔のマイクはロデオの花形スターで、いつ引き抜かれるか心配だったが、今では年老いて役立たずだというわけだ。それから、1年後ハワードがマイクのもとに訪ねてくる。

ハワードはマイクに、ハワードの息子を連れてこいという。ハワードの息子はメキシコにいて、母親に虐待されており、ハワードが息子の面倒をみたいと言う。実は、ハワードにはメキシコに投資した過去があってその投資が満期を迎えるので、ハワードは、収益を回収したい。

その投資のことを、ハワードはマイクに隠している。ハワードは言う。「俺はお前が怪我をして選手生命が断たれて私生活がボロボロになった時も、面倒をみてやった。今の家が取り上げられそうになった時も、家を買ってやった。マイク、お前は俺に貸しがある。だからその貸しを返せ」と。

お金を回収するためにハワードが、人質として息子ラファエルをメキシコから連れてこようとさせていると知らないマイクは、メキシコのラファエルのもとに行く。そうすると、ラファエルは手の付けられない不良だと、豪邸に住むラファエルの母親は言う。

ラファエルは家にいても虐待されるし、ストリートにいても危険なのだが、家よりストリートの方がましだと、路上で生活をしている。そして、闘鶏をしてお金を稼いで暮らしている。ラファエルは、闘鶏の鶏にマッチョという名前を付けている。

この映画のタイトルは「クライ・マッチョ」だ。“泣き叫べ、マッチョ”とは、闘鶏の鶏が、けたたましく勇敢に泣くことを指している。そして、マッチョとは男らしさをけなして表現する言葉だ。

最初、マイクは闘鶏のマッチョのことを“チキン”と呼んでいる。チキン、つまり弱虫のことだ。英語のcryには泣くという意味もある。“めそめそ泣け、マッチョ”というのが、最初マイクがラファエルの闘鶏の鶏を呼ぶ意味合いだ。

映画の途中にマイクは、ラファエルの闘鶏の鶏のことをマッチョと呼ぶ。それには2つの意味がある。それは、古風な男らしさが必要とされなくなった1979年代のアメリカの文字通りマッチョという、男らしさがけなされた表現を受け入れてあえてマッチョと呼ぶ意味。

そしてもう一つは、けなされた男らしさでも、それでも俺(マイク)は、一人前の男として男らしさを、そのラファエルの闘鶏の鶏に認めるよ、という意味。そして、そのラファエルの闘鶏の鶏は、ラファエル自身の男らしさでもあり、メキシコ人が持つ男らしさでもある。

勇敢に泣くのか、めそめそ泣くのか。マッチョの本来の意味の、けなされた男らしさを指すのか、けなされていることを受け入れてあえてマッチョとしての称号を、誉め言葉として遣うのか。

この映画を観ている中で、この映画のタイトルにある「クライ・マッチョ」の意味合いは変わってくる。そのどの定義も、的を得た定義で、その映画で描かれているシーンをうまく表現している。

クライ・マッチョには、また別の意味がある。それは性的な男性性の誇示だ。映画の道中で、マイクは夫と娘を失った女性と出会う。その女性と結ばれることを、クライ・マッチョという言葉で表現している。

この映画の監督・主演は、クリント・イーストウッドだ。イーストウッドは1930年生まれで、2022年で92歳になる。そのイーストウッドが、古風な男と自分を笑いつつ、けなされた男らしさという表現を用いて映画を表現する。

マイクもラファエルも、この映画のタイトルにある、クライ・マッチョだ。勇敢で時代遅れで時に涙ながらの物語を、涙なしで語る。「ダーティ・ハリー」「父親たちの星条旗」「アメリカン・スナイパー」「ミリオンダラー・ベイビー」「グラン・トリノ」「運び屋」など、様々な映画を撮ってきたイーストウッドだが、そこにはいつもイーストウッド風の男らしさがあった。

この映画「クライ・マッチョ」の中で、「カウ・ボーイは自分で料理を作る」というセリフに、イーストウッドの男性性のあり方みたいなものを見ることをできる。なぜなら、イーストウッドの映画の、イーストウッドが演じる男は家族を作るのに失敗した、一人で暮らす男だからだ。

イーストウッドはこの映画「クライ・マッチョ」の中で、男らしさについて表現をしていると言える。それはいつものイーストウッドの映画のように、孤独で、プライドが高く、しかし優しく、筋が通っている男の姿だ。

この映画「クライ・マッチョ」は、映画「グラン・トリノ」に似ている映画だとも言える。家族に見放された男が、少年と出会い、家族になっていく物語。それは、イーストウッドの作り出す映画のテーマの一つだ。この映画は、家族の物語だ。

日本では、家族というと血縁のことを示す。もしくは、一緒に同居している、血縁を元とした集まりのことを指す。まったくの見ず知らずの人間同士が、家族になっていくのがイーストウッドの映画だ。

日本でも、同じ釜の飯を食った人間が家族だ、という表現もある。つまり日本でも、イーストウッドの映画のことのようなことは起こりうる。そのような可能性を、この映画は再発見させてくれる。

在日韓国人への差別。日本へ入ってきた移民への不当な扱い。同じ釜の飯を食ったもの同士が、家族になるのが日本だ。日本人は今こそ、日本の外からやってきた人たちと、同じ釜の飯を食べるべきなのだ。

血のつながりでも、地縁でもなく、同じ釜の飯を食べたもの同士が家族になっていく。それが、今の日本に必要とされていることだ。家族でないものが家族になっていく。その可能性こそが、未来を作っていく。

イーストウッドの場合は、アメリカの家族の成り立ちだ。人種を越えて、人と人が結びついていく。それはしかし、難民の問題を抱える世界のすべての場所で言えることだ。家族を作る能力。それがこの先、人間が生きていくために必要なのかもしれない。

そして、その家族観とはきっと常に更新されていく、しかし普遍的な価値観によって支えられていて、その価値観とは共有した時間に依存しており、常に柔軟に変化していくものだろう。固定された移民観は、ウィシュマさんのような犠牲者を生むだけだ。

形式上の移民の取り扱いが、固定されたものから、柔軟なものに変わることの重要性を、この映画「クライ・マッチョ」は示してもいる。