善悪の発見

映画「私というパズル(原題:Pieces of a Woman)」を観た。

この映画は2021年のカナダ・ハンガリー合作映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画はある家族についての映画だ。ある家族とは、マーサとショーンという夫婦、マーサの母であるエリザベス、マーサの妹のアニー、アニーの夫のクリス、マーサのいとこのスザンヌだ。

そしてこの映画では、この家族に関わっている人物がいる。そのうちの一人が、助産師であるエバだ。

この映画は、映画中にリンゴをマーサが齧るシーンが何度も登場することからわかるように、聖書に関連する映画だ。旧約聖書の創成期の第3章の「蛇の誘惑」が、この映画に深い関りを持って要る。

この「蛇の誘惑」とは、エデン園の木の実を食べるように蛇が誘惑する有名な一節だ。エデンに住むエバに対して蛇は、エデンの園にある木の実を食べるように誘惑する。蛇は言う。「あの木の実を食べても永遠の命は失われないし、あの木の実を食べると善悪を知る賢いものになれるよ」と。

その誘惑にのってエバは木の実を食べてしまう。その木の実をアダムにもエバは勧める。するとそれ以降エバとアダムと、エバとアダムの子供には、つまり人間には、とある属性が宿るようになる。その属性とは以下だ。

まず、それまでは不死であったが死んで土に返るようになる。

裸でいることが恥ずかしくなる。

女(エバ)の子孫と男(アダム)の子孫の間に敵意が生じる。

はらみの苦しみが大きくなり、苦しんで子を産む。

男を求め男に支配されるようになる。

草を食べようとしても、食べられそうな草には棘があるので、土を耕して食べ物を、パンを得なければならない。

以上のような属性が、木の実を食べたエバとアダムに宿るようになる。

この映画ではこの創成期の第3章の「蛇の誘惑」にみられるような人間の属性について具体的に描写がなされる。

人は死に土に返る。この映画でも人はその営みを続けている。

アダムとエバの間の子孫の間には敵意がある。それはこの映画の家族を観ていればわかる。ショーンはエリザベスが自分に冷たいと言い、マーサは妹のアニータが自分に嫉妬していると言い。エリザベスはマーサにつらく当たり、ショーンは自動車セールスの仕事をしているクリスに無理やり車を買い取らせる。映画中には描かれないが、もちろん世界には紛争があふれている。

映画の冒頭23分間ほどは自宅出産の様子が描かれている。マーサは自分の娘イベット(YVETT)を痛みと匂いとに苦しみながら出産する。これは苦しんで出産するという旧約聖書の記述と同じだ。

マーサはショーンの力に支配されている。それは暴力的な意味でだ。マーサはショーンに腕力で強引にセックスされそうになったり、口論の結果としてバランス・ボールを顔面にマーサは食らう。これが支配でなくてなんだろうか?

食事は人間に必要なものだ。それはこの映画の世界でもかわらない。

この映画は、これらの人間の苦悩のいくつかが乗り越えられる物語となっている。

「蛇の誘惑」で蛇はエバに言う。「あの木の実を食べれば、賢くなって善悪が分かるようになる」と。確かにその結果として人間は裸であることが恥ずかしくなり服を着る。この映画でも当然のように登場する人間すべては服を着ている。それは、別の言い方をすれば、人が賢くなり善悪を知った証拠でもありえる。

ここで注意しておく点は、賢くなり善悪を知った人間は、「蛇の誘惑」で登場した人間の苦悩のいくつかを克服する可能性を持って要るということだ。生まれつき賢い人間は残念ながらいない。木の実を食べただけでは賢くないのが現実の人間だ。「蛇の誘惑」は、誘惑でしかないのか?

言い方によっては、実際の人間は、直観的に何が正しくて何が不正かを知っているかもしれないし、学習により善悪を知ることができるのかもしれない。直観よりも学習で得られることが多いのかもしれない。直観や学習で人は、プラトンの言ったようにイデアを想起することができる。それがおそらく善悪を知るということだろう。

この映画の中で乗り越えられる困難とは、敵意だろう。それは家族内の敵意でもあるし、家族と家族の外との敵意だ。

マーサは出産直後に自分の娘イベットを失うことになる。それをマーサの家族は、特にマーサの母のエリザベスは助産師の責任にする。助産師の仕事に不備があったのでマーサの娘は死んだとエリザベスは家族の中でも強く主張する。

マーサの子供の死はニュースになる。マサチューセッツ州のボストンのサフォーク郡で、マーサは暮らしているが、その地域でニュースとなっているのだ。マーサの母親の友達などは、助産婦など罰を食らえばいいとマーサを抱きしめて言う。マーサにはそれが苦痛だ。

映画の中のマーサは知的で冷静な女性だ。マーサは自分の中に善悪の判断の基準を持っており、常にその秤で自分や周囲の人たちをジャッジしている。夫の言動や母の言葉やらにマーサは常に細心に心を遣っている。

マーサはどこで善悪を手に入れたか?そのヒントはマーサの言葉にある。マーサは言う。「娘はリンゴの匂いがした」と。マーサは出産の後に何度もリンゴを食べている。リンゴとはそうエバが食べたリンゴだ。なんと、蛇が言ったようにマーサは子供を産むことにより、リンゴの匂いを嗅いだために、間接的に善悪の判断を手に入れたのだ。

マーサが娘を生むのを手伝った、助産師の名前はエバという。そうエバだ。リンゴを食べた旧約聖書の中のエバと同じ名前だ。おそらくエバは善悪を知っている人だ。マーサの娘の出産直後の死に深い悲しみを持ち、裁かれる立場を粛々と受け入れている。それはエバの表情を見れば伝わってくるものだ。

善悪の判断を娘の出産に置いて獲得したマーサはその後どう生きたか?それはきっと旧約聖書の内容にある人間の負の財産を克服するように生きたに違いない。

人間の負の財産?ここで連想されるのはマーサの母エリザベスの、ホロコーストの犠牲者としての立場だ。エリザベスはハンガリーユダヤ人で、ナチの迫害から逃れて必死に生きていた。

エリザベスが助産エバを訴えたのは、自分が外部からのプレッシャーを常にはねつけて生きてきた証拠だ。エリザベスは言う。「私は医者に見捨てられそうになった。衰弱して弱った私を医者はさかさまにしてこう言った。もしこの子が頭を持ち上げたら診察してあげよう」と。

エリザベスはあからさまなユダヤ人差別を生き抜いてきたのだ。自分と外部との接点に敏感であるのが、エリザベスだ。エバを責めるのには理由があった。それはエリザベスのナチスにより強化されたユダヤ人差別と闘う心だ。エリザベスは攻撃的であることでしか生きられない女性になってしまったのだ。

このエリザベスの攻撃性というものを実はマーサ持って要る。それは、彼女自身が身に着けているリッチな人間の生き方だ。それが実はショーンにとってはプレッシャーとなっている。

ショーンは男らしくあることが誇りの人間だ。ショーンはブルカラーの人間だ。ショーンにとっての恐怖は自分の男らしさを貶めるかもしれない、妻のつまりマーサのリッチな生活態度だ。

ショーンには日常生活が常にプレッシャーだったに違いない。実は、娘のイベットをつくった時の2人の間のセックスは、ショーンの適切でない性交によるものだった。ショーンは酔っぱらって、おそらく力でマーサを押さえつけてセックスしたのだろう。

ショーンは実は元中毒者だ。そして娘の死に耐えられずに、また薬物にはまり、マーサのいとこのスザンヌと浮気している。ショーンは映画の中で見られる男性性の影の部分だ。マーサのように娘の死から復活できるかはショーン次第だろう。

マーサは娘の死により、否、娘の誕生により善悪を知る賢いものになることができた。すべての人間にこの神の恩寵のようなものが到来することを期待するのは、誰もが同じことだろう。マーサのように、我々は生きるべきなのだ。そう、この映画ではマーサがまさに生まれてきた娘なのだ。