独善的な、消費至上主義と帝国主義から逃れて…

映画「モスキート・コースト(原題:The Mosquito Coast)」を観た。

この映画は1986年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ・アドベンチャー・スリラーだ。

この映画の主な舞台は、モスキート・コースト(蚊の海岸)と呼ばれる中央アメリカの、まばらに人が住む沼、潟、熱帯の森からなる、ホンジュラスの南東の部分の沿岸から、ニカラグアのカリビアン・コーストと呼ばれるニカラグアの東の部分の沿岸にかけての細長い部分のことだ。ちなみに、この映画のロケ地は、ベリーズと呼ばれる、グアデマラの東に位置する国で、モスキート・コーストでこの映画は撮られてはいない。

このモスキート・コーストと呼ばれる地域は、1650年から1860年の間、イギリスの保護領で、その時モスキート王国として知られる、自治権のある国となった。1894年にニカラグアはこの領域を盗ったが、1960年に国際司法裁判所によって、モスキート王国、つまりモスキート・コーストの北の部分はホンジュラスに与えられた。

モスキート・コーストという名前は、ミスキトと呼ばれる、ニカラグアホンジュラスの大西洋沿岸のアメリカン・インディアンによって名付けられた。

1980年代の初期のホンジュラスは、米国の設立した軍隊が国にいて、エル・サルバドルや、ニカラグア政府を攻撃するコントラというアメリカ側のゲリラを支援していて、ホンジュラスには小さな空港と、近代的な港が発展していた。

その間、ホンジュラスでは国を引き裂く国内戦争が行われ、チンチョネロス人民解放運動のような、マルクス主義者やレーニン主義者の民兵隊に対するキャンペーン(弾圧)が、ホンジュラス軍によって静かに遂行されていた。

そのキャンペーンでは、米軍の設立したホンジュラス軍は、悪名高い誘拐や爆撃をおこなっていた。それは、非武装の民間人に対しても行われた。その軍事行動は最も顕著なものはバタリオン316と呼ばれ、CIAがバックにいて、政府により、法外の殺しが行われた。

この映画が公開されたのは1986年だ。映画は製作から公開までに2年から3年かかると言われているから、この映画の製作開始時は1983年か1984年に当たり、この映画が描いているのは、前述したホンジュラスの1980年代初期の状況と遠くないと思われる。

この映画には宣教師が登場するが、それは欧米の植民地主義を現わすと同時に、チンチョネロス人民解放運動(解放運動という弾圧)というような、アメリカをバックとした軍隊の誘拐や爆撃を現わしているのだろう。実際映画中では宣教師が、ジェロニモと呼ばれる主人公が買った土地の住民を連れ去るということが起こる。

この映画の主人公は、アリー・フォックスという父親で、アリーは妻と、その子供の長男チャーリー、次男ジュリー、双子の娘エイプリル、クローヴァーを得意の発明で養っている。アリーはアメリカの消費市場主義や帝国主義を厳しく非難する。

アリーは自分の理想を持った父親で、家族はそれに振り回されている。アリーはインテリでエンジニアなのだが、消費市場主義や帝国主義を非難していることからわかるように、当時のアメリカではマイノリティで、社会にうまく溶け込めていない。

発明をしても周囲から認められずに、そんなアメリカ社会に嫌気がさして、アリーはモスキート・コーストに家族と共に移住することを決意する。そして、家族はモスキート・コーストに移住する。

アリーは、モスキート・コーストでも石器時代と呼ばれる地域に移住する。そこでは、奥地にミスキトというアメリカン・インディアンが住み、少し文明的な場所には黒人が住んでいる。その黒人の人たちは、16世紀以前に、当時ホンジュラスを支配していたスペイン人によってアフリカのアンゴラから連れてこられた奴隷の子孫なのだろう。

アリーは、帝国主義を非難しているように見えるが、実は自分もモスキート・コーストへの入植者で、現地民にとっては入植者でしかない。息子たちはアリーに猜疑心を抱いているが、それは父の偽善的な態度を見ているからだろう。

少年というのは反抗期を持つ。父親の行動が逐一気に入らなくなる時期がどの少年にもある。それが、大人になるための通過点だ。チャーリーとジェリーも父親の独善的な態度に疑念を持って、父親に従っている。

この映画は、消費至上主義や帝国主義への非難という面も持っているが、この映画は、家族の物語でもある。父親を信じているが、主婦の生活にどこかしら不満を抱えてそれを表に出さない妻。父親への反抗心を抱き始めている息子たち。父の独善に時に当惑する娘たち。

この映画の語りは、息子のチャーリーだ。チャーリーの父親に対する思いが、映画の途中各部分にインサートされる。そしてチャーリーの語りが、この映画を家族物語として観ることを可能にしている。

アリーは、自分の理想を持ち、文明を一から自分の手で築き上げようとする。その姿は独善的だ。アリーの他に収入源を持たない家族は、アリーに従うしかない。そうこれは、ある独裁的な父親の話だ。それは、実はアリーが嫌っているアメリカと何も変わらない。

アリーのしていることは、スペイン人が、アメリカ人が帝国主義として、ホンジュラスを支配したのと何も変わらない。但し、アリーは軍人をひどく嫌っている。しかし、その軍人を殺そうとするアリーもまた軍人と同じ殺人者に過ぎない。

父親は理想を持つ。それは父親にとっては、理想的で優れたものだ。しかし、家父長制の頂点に立つのが父親と呼ばれるものだ。つまり、父親も支配者の一種に過ぎない。それを典型的に表しているのがアリーだ。

そして、消費至上主義、帝国主義の推進者は、きっと父親・男だろう。つまり、すべての父親は結局は、何かしらの独善的な結論に辿りついている。それは、家族・国民のためなのかもしれない。その男にとっては。

しかし、その男の独りよがりはこれ以上許されるべきではない。とするのが、アリー的な見方で、アリーは独善に陥っていくのだが。つまりすべての父は、冷静になり、客観的になり、真に共感的になり、独善から解放されなければならない。それは男らしさからの解放だ。

男らしさを作り上げるのは、社会だ。男らしさを、当の男たちや、当の男以外の人たちが作り出している。それはメディアにより、教育により、社会的に作り出される。社会が男を作り出す。

社会が男を作り出すならば、男の形を、男の在り方を作り出すのが社会ならば、それを変えるのも社会、つまりは人びとだ。消費至上主義的で、帝国主義的な、人たちを作り出す社会を、人々は作る。ならば、社会の変革は可能だ。

 

参考資料

American Heritage Dictionary-5th Edition "Mosquito Coast"

Oxford Dictionary of English,2nd Edition "Mosquito Coast""Miskito"

Wikipedia "Honduras" Honduras - Wikipedia 2022年3月12日閲覧