近くの人を愛していると、遠くの人も愛せる

映画「ナイト・オン・ザ・プラネット(原題:Night on Earth)」を観た。

この映画は1991年のアメリカ映画で、映画のジャンルはコメディ・ドラマだ。

この映画の邦題は、「ナイト・オン・ザ・プラネット」で、この映画の原題は、「Night on Earth」だ。邦題の「ナイト・オン・ザ・プラネット」のプラネットは、英語のplanetのカタカナ表記で、planetという言葉は、例えば太陽というような恒星に照らされた地球外の星の集まりのことを指す。

それに対して原題のearthの方は、私たちが今住んでいる地球そのものを指す言葉だ。つまり、邦題の「ナイト・オン・ザ・プラネット」の方は太陽系を指し、原題の「Night on Earth」の方は地球自体を指す。

邦題の方は、太陽系の惑星、とか他の銀河系の惑星の夜のことを指すが、原題の方は、この地球の夜を指す。映画を観て、映画の内容と照らしてどちらが正確な表記かと言えば、原題の「Night on Earth」の方が正確な表記になる。

社会学者の宮台真司You Tubeの動画「なぜ悪はあるか―神学的弁神論から生態学的システム論へ」(講義「人間・文化・社会」、2023年5月22日)(2023.6.2視聴)の中で言っていたが、人の社会は常に内と外を作り出す。

どの範囲を仲間とするかで、いつも我々の社会では内と外が作り出され、社会は廻っている、というようなことを言っている。キリスト教で、神に対して語る時に、「私が間違うことがないように私をみていてください」と言う時に、「私が皆を裏切らないように、私をみていてください」とキリスト教徒は祈っていることになる。ここで、重要なのは「我々」だ。

宮台真司は、人間社会の近接性を唱える。近接性とは、自分の近くにいる、自分の周辺にいる人たちを大切にすることだ。それにより、「我々」ができあがる。つまり、自分の近くにいる人たちのために生きることが、排外的ではあれ、人間の生き方だと説く。

ただ、宮台真司は別に排外的であることが、良いことであるとは言ってないように思われる。近接性が連鎖すれば、それはより大きな範囲に広がることになる。その大きな範囲とは、例えば、先ほど示した、国を越えた地球とか、太陽系とか、銀河系とか、宇宙全体のことだ。

地球規模で、「我々」になるには、まずは、自分の近くの仲間で助け合って生きていく、それが近接性の在り方だと、僕は捉えている。つまり、それは市民社会と国民とも繋がってくる。

市民社会とは、地球規模での連帯を指す言葉だ。市民として一人の人間が生きると、その市民という一人の人間は、外へ外へと繋がっていく。今の言葉で言えばグローバルな繋がりだ。市民とは、世界規模での連帯を指す。

それに対して国民とは、国の中での、国単位での連帯を指す。つまり、そこでは自分の住む国が、他の国よりも優先される。それは、国の単位を地方自治体にしてみても同じだ。自分の住む地方自治体を、自分が住まない他の地方自治体よりも優先する。

人間には、市民と言う外向きの方向性と、国民と言う内向きの方向性があることがわかる。人間は、この二面性を達成するために、近接性を重視するべきではないか? 「我々」を大切にすることにより、複数の「我々」をまたぐ「我々」の中のそれぞれの人間が、市民を指向する。

つまり、そこで出てくるのは、「我々」を越えるのは裏切りではないか? という、市民的生き方に対する反動だ。「我々」を大事にするために、他の近接性でまとまった「我々」に親切にする。それは、人の生き方として尊いものだ。

「我々」と「我々」が対立しないためには、近接性という、愛や親切を、他の「我々」の集団に向ければいい。近接性はそのために重要なのだ。近接性が、裏切りというさもしい行為に堕落しないように、だから常に神にみていてもらう必要がある。その神は、実は近接性のことなのだが。

日本は道徳的社会だと言われる。道徳とは外側からやって来る。それは、他人からの視線だ。他人からの視線を感じて、日本人は道徳的に振舞う。それに対してキリスト教圏の場合は、倫理的社会だ。

倫理的社会とは、自分の中に自律した規範があって、その規範に従って生きるということだ。そして、その規範からずれることのないように神にみていてもらう、というのがキリスト教圏の倫理的生き方だ。神とは近接性だ。

つまり、日本人は他人の視線を気にするが、キリスト教圏の人間は内面化された神の視線を重要視する。どちらがより普遍的価値観かと言われれば、道徳的な大衆が時折、衆愚に陥ることを考えれば、キリスト教圏の考え方の方が普遍的な価値観に近いのかもしれない。

市民社会は外向きの指向だ。そこで、規範となるのは日本社会という狭い範囲に囚われた道徳よりも、より普遍的である価値観だ。市民社会の普遍的価値観には、日本の道徳という空気より、キリスト教の、神にみていてもらうという倫理の方がふさわしいのかもしれない。

さて、ここで映画の話しに戻る。この映画「ナイト・オン・ザ・プラネット」は、5つの都市の同時刻を描いた、5つの話からなる映画だ。ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキ

アメリカの2都市、フランス、イタリア、フィンランド。それぞれの国の都市について、この映画では描かれる。どの、国もキリスト教圏である。つまり、先ほど示した、自分の内面に倫理を持って生きる国々だ。

ロサンゼルスで、映画の配役の仕事をしているヴィクトリアという女性に、ヴィクトリアを乗せたタクシーの運転手のコーキーは言われる。「あなた女優にならない?」と。するとコーキーは言う。

「私の将来は自動車の整備士になることに決めているの」と。つまり、コーキーは、人にちやほやされることや、ヴィクトリアの視線などは気にしていない。そこにあるのは、倫理的規範だ。私は私のことを、間違わないように神にみていてもらう、という価値観かもしれない。

自分の内面にある規範に従って生きる。それが間違っているかは、神によって決められることで、私は規範に従って生きるだけ。何が正しくて、何が間違っているか? その判断は私にはできない。ただ、内なる規範に従って生きる。

では、その内なる規範が来るのはどこからか? それは筆者の能力では到底及び知ることはできないが、それは近接性に寄っていると思われる。コーキーの家族は、自動車の整備士をしている家族だ。家族という近接性に、コーキーは従っているかのようだ。そう、キリスト教の神の目ではなくて、近接性だ。つまり、神の目は、近接性だった。

言い忘れたが、この映画は、映画中の5話どれもが、タクシー運転手とその客の話だ。タクシー運転手というと、思い出すのは例えば、ロバート・デニーロ主演の「タクシー・ドライバー」や、韓国映画の「タクシー運転手 約束は海を越えて」などが、思い浮かぶかもしれない。

タクシー運転手と、その客の関係性。それは、殺伐としているものだ。なぜなら人は、それぞれの近接性で生きており、タクシー運転手の近接性の外にタクシーの客は存在しており、また客の近接性の外にタクシー運転手は存在しているからだ。

ただ、タクシー運転手とその客は、時間を経ると、次第に打ち解けていく。それが、近接性だ。タクシーという密閉空間の中で新しい近接性が生まれる。

この映画の第5話のラストで、タクシー運転手のミカは、酔っぱらいの仕事を首になってやけ酒で泥酔しているタクシーを下車するアキに言う。「ここがどこかわかるか?」「ヘルシンキだよ」ミカに対して、そうアキは答える。

すると、ミカは少し困った顔をする。そう、ミカはヘルシンキ人であり、フィンランド人であり、世界市民だからだ。近接性をミカも重んじる。ただ、ミカは客人を尊重する。近接性がまた生じる。そして、その新しく生じた近接性は、市民的繋がりを持っていく。