我々は王だ

映画「へレディタリー/継承(原題:Hereditary)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、ある家族を描いたホラー映画だ。

この映画の中心となるのはリー一家だ。リー家は、父スティーブ・グラハム、母アニー、長男ピーター、妹チャーリーから成る4人家族だ。この4人が映画が進むにつれて、どんどん悲惨なことになっていくのがこの映画の筋だ。

家族というのは集団だ。家族は1人だけでは生きてくのが困難な人間という生命が、生き抜いていくために選び出した形式だ。よく言われることだが、人は1人で生きて行けるわけではない。

もしかしたら、アラスカの奥地で自給自足の生活を送っている人もいるかもしれないが。しかし、そのアラスカの住人でさえも、生まれた時は母親から生まれてくるはずだ。そしてその子供が生まれるためには父親も必要だ。つまり人は生まれた時から誰かと一緒だ。

集団を成り立たせているのは規則だ。規則がなければ集団は存在しないし、規則がなければ人は生き抜いていくことが困難だと考えられる。少なくとも人は、規則がなければ生きて行けないと思い込んでいる。

もしかしたら生きていくのに規則は必要ないのかもしれないが、ここでは生き抜くために規則は必要だと考えることにしたい。

規則というものはいつの時もその時の状態で万事オーケーというわけではない。規則は時に緩み、時にさらに進んで崩壊する。つまり規則はいつの時代も万能であるわけではない。規則を再構成する必要はいつの時もあるのだ。

そして規則を再構成するために行われるのが儀式だ。この映画でその儀式を行うのは家族だ。リー家の長男のピーターを王として最終的に仕立てることで、この家族はとある宗教のための規範の再構築を行う。

そしてこの家族の反社会的な儀式によって、規範を再確認しているのは、映画を観ている観客なのだろう。

映画の中で、ピーターの妹、父、母が犠牲にされる。とある宗教つまりそれは現実の観客の生きる世界のために彼女たちは犠牲にされる。

王を必要としているのは、この現代という混沌とした時代に生きる我々であるとこの映画は言っているように思える。

王は必要か否か?きっと王は必要ないのだろう。

この映画は我々1人1人に向けられていて、ピーターと同時に観客も主体性を確立していくことになる。つまり我々1人1人が王であるということだ。我々1人1人が王である以上、その上に立つ王の主など必要とされないのではないだろうか?