暗いことを忘れるな

映画「オクラホマ!(原題:Oklahoma!)」を観た。

この映画は1955年のアメリカ映画で、映画のジャンルはミュージカルだ。

この映画の中心となるのは、ローリーという農家の女性と、カーリーという牧童つまりカウボーイ、そしてローリーの家に住み込みで働いているジャッド・フライという男だ。

この映画は恋愛結婚を描いた映画だ。この映画の舞台はオクラホマ州のクレアモアという街の周辺だ。その街で繰り広げられる、男たちと女たちの結婚までの道程を描いたのがこの映画だということもできる。

この映画には恋愛結婚の例として、ローリーとカーリーという2人の恋愛が描かれる。映画で描かれる期間は、祭りの行われる期間だ。農家と牧童(カウボーイ)たちが一緒になって祭りを行う。祭りで行われるのは求愛活動だ。

祭りでは競りが行われる。女性が作ったお弁当を男性が競り落とす。競りのお金は街の学校の増築費に充てられる。つまり、競りをしている男女の子供が将来入ることになるだろう学校の増築のお金に、競りのお金は充てられる。目的が明確で、合理的に思われる競りだ。

だいたいの男女は、この競りのような行事に浮かれる。競りで自分の弁当を高く買った人が、自分を好きな人だからだ。お金をよく払ってくれる人が、自分を好きな人? なんだか違う感じもするが、お金がなくても好きな女性の弁当を大金はたいて競り落とそうとする男の姿は、なんだか情けなくて同情してしまう。

しかし、この恋愛の舞台から零れ落ちてしまう人間もいる。そして、その人間がこの映画に登場することで、この映画はより輝きを放つ。なぜなら暗い部分が暗ければ暗いほど、そのコントラストとして、明るさは際立つからだ。

この映画の暗い部分の象徴がジャック・フライという人物だ。ジャックはいつも笑わず、人付き合いが苦手で、友達もいなくて、昼間から暗い部屋に閉じこもっている人間だ。社交の方法を習得しておらず、ジャックは思いを寄せているローリーをうまくデートに誘うこともできない。

しまいには、ジャックはローリーに、カーリーとの間を取り持つための嫉妬のだしにされてしまう。そんな、残酷な目に合うのがジャックという人間だ。社交のできない人間で、農家に住み込みで働く人ジャック。きっとジャックは年期奉公人なのだろう。これは推測でしかないが、ジャックはアイリッシュスコティッシュなのかもしれない。

ジャックは、社会からつまはじきものにされている者の象徴だ。彼は抑圧されて、暴力性をコントロールするすべを知らず、ローリーの家で住み込みで働く以前にも、どうやら住み込みで働いていて、その一家を恋愛のもつれから焼き殺しているようだ。

そしてそれが、この映画のラストの辺りで明らかになる。ジャックは、友達もおらず、恋人もいなくてひとりぼっちの、寂しい青年だ。そしてジャックの人生が暗ければ暗いほどこの映画は輝く。

この映画のラストは、暗い出来事がなかったように終わる。歌の歌詞も「何かいいことが始まる気がする」というような歌詞だ。暗いことは忘れて次に進みましょう的な。しかし、ジャックのことをひと時の出来事として葬ってしまっていいのか? ジャックは、この映画で救われるべきではなかったか? ジャックのような人物が救われる映画。そんな映画があってもいいのではないか?