家族になる

映画「ダウン・バイ・ロー(原題:Down by Law)」を観た。

この映画は、1986年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の監督はジム・ジャームッシュで、この映画の他にも「パーマネント・バケーション(原題:Permanent Vacation)」(1980)、「ストレンジャー・ザン・パラダイス(原題:Stranger Than Paradise)」(1984)、「ブロークン・フラワーズ(原題:Broken Flowers)」(2005)、「パターソン(原題:Paterson)」(2016)等の監督として有名だ。

ジム・ジャームッシュは、インデペンデント映画の監督として有名だ。インデペンデント映画は簡単に言ってしまえば、低予算で撮られる映画の事だ。ハリウッドの商業映画よりも、映画の製作費が低く、出演した有名俳優が低賃金で働く。

こう書いているとインデペンデント映画は、俳優を搾取する映画のような感じがするが、実際俳優は出演料より、自分のキャリアや、インデペンデント映画を愛するファンからの尊敬のために、インデペンデント映画に出演している。

インデペンデント映画に出演する俳優は、インデペンデント映画をそれゆえに愛する。それは、大手の映画会社と違った表現形態がインデペンデント映画にはあるからだ。商業的成功のために着飾ることもなく、ただ監督の撮りたいものを撮る世界。それがインデペンデント映画かもしれない。

インデペンデントと言って、連想するのは、音楽のインディと呼ばれるジャンルだ。音楽のメジャー・レーベルから楽曲を発表するのではなく、例えば自主製作で、少ない資金で、今までに聴いたことのない音楽をインディ・レーベルから出す。それが、インディ・ミュージシャンだ。

インディで楽曲を発表する機会を作り、そのアルバムなり、シングルが売れたら、メジャー・レーベルに移っていく。メジャー・レーベルのための登竜門的な感じがインディ・レーベルにはある。

しかし、中にはインディであることを誇りに感じているミュージシャンもいる。大企業でなく、聴取者の近くに音楽を作る人たちがいるインディ・レーベル。会社の上部の会議で決められる、ブランド設定に従うことなく、自分の好きな音楽を追求することができるのがインディ・レーベルだ。

もっと言うなら、インディ・レーベルよりも自主製作の方が、自分の意思は通せる。ただ機材等の費用や、スタジオ代は、不安定な稼ぎしないミュージシャンには高くつく。そこで、大手メジャー・レーベルからは音楽が出せないし、出せたとしても会議でアルバムの内容が決まってしまうようなメジャー・レーベルが嫌いなミュージシャンは、自主製作よりも費用の負担が少ないインディ・レーベルを選ぶ。

ただインディ・レーベルもブランド化していて、ミュージシャンの間には、尊敬するミュージシャンがアルバムを出しているあのレーベルで曲を出せたら、という思いもあるのかもしれない。

映画「ダウン・バイ・ロー」はインデペンデント映画だが、出ているのは有名な人たちだ。ミュージシャンのトム・ウェイツ。監督としても有名なロベルト・ベリーニ。バンド、ラウンジ・リザーズのメンバーであるジョン・ルーイ―。

この3人が映画の主な登場人物だ。トム・ウェイツはザック、ジョン・ルーイ―はジャック、ロベルト・ベリーニはロベルト通称ボブ、という名で映画の中に登場する。

ザックは一つのラジオ局に定着することができず、同棲している女性にも捨てられ、つまり無職のDJ。ジャックは、売春斡旋業をしているピンプと呼ばれるヒモ。ボブは、イタリア系移民で、英語を覚えている最中で、一人喋りが好きな人物。

この映画はこの社会からはじき出された3人が、家族となる映画だ。それは疑似家族と言ってもいいかもしれない。しかし、この3人はこの映画の中で、本当の家族となる。そしてその家族としての出発点が刑務所の雑居房だ。

そして3人は、刑務所から脱走して、ルイジアナ州マンチャック湿地の深い沼地の中に入っていく。それは、自分自身と向き合うことであり、自分のナマの生を相手にさらけ出すことだ。そうして、3人はより強い繋がりを持った家族になっていく。

沼地の中でボブは、ウサギを食料としてつかまえる。それを、それまでケンカをしていたザックとジャックが帰ってきて食べる。酷い味だと言いながら、ボブが30分かけて捕まえた利口なウサギを、3人はワイワイ言いながら食べる。辺りにはワニがいる。

刑務所からの逃避行の最中には、川のほとりにある小屋で休憩する。そこにはなぜだか3人分のベッドがある。まるで3人の家であるかのような設定だ。刑務所の雑居房といい、この小屋といい、それらは3人の家族の家だ。

この映画のクライマックスには3人は、刑務所よりも、川岸の小屋よりも、もっと正統的な家に辿り着く。それはイタリアからの移民のニコレッタという女性が住む家だ。その家では、豪華な食事が用意される。そこで4人は、家族として食事をとる。

この映画のオープニングには、トム・ウェイツの「Jockey Full of Bourbon」という飲んだくれの登場する曲が流れ、多分、ルイジアナのものと思われる家々が映し出される。そこでは、貧しい家が多く映し出される。まるで、4人がアメリカで住んでいるかのような家だ。飲んだくれが住んでいるような。

家は家族の住む場所だ。貧しい家には、貧しい家族が住む。その家族の一つが、ザック、ジャック、ボブ、ニコレッタの家族だ。そして、ザック、ジャック、ボブ、ニコレッタは、一つの屋根の下に住むことになる。

オープニングの映像が示しているのは、これは家族の物語だということだ。それは、特にリッチでもなく、特に格別成功しているわけでもない家々の物語だ。家族と家は不可分のものだ。一応は。

一度、一つの屋根の下で暮らしたものは、家族になって、離れてしまっても家族の絆は消えることはない。そしてその家族を作り出すのは、簡単な家と、時間と空間の共有だ。生まれた国が違っても、英語を少し話せれば、アメリカでは家族になれる。

家族を作るのに失敗した人たちが集まって、血のつながりのない家族を作り上げる。それがこの映画だ。様々な理由で、崩壊してしまった家族の一員が、古い家族と別れを告げて、新しい血のつながりではない、家族を作り出す。それがこの映画だ。

但しその家族は、白人の家族だ。そこに、アジア系、ラテン系、黒人、インド系、中東系が混じって家族を作り出すのが、今現在、これからの家族だろうし、それをアメリカという国はそれを実際に実践している。なぜならアメリカという多民族国家こそが、一つの家族なのだから。