エリートとブルジョアの失策

映画「過去のない男(原題:Mies vailla menneisyytta)」を観た。

この映画は2002年のフィンランド映画で、映画のジャンルは貧困・コメディ・ドラマ映画だ。

この映画の舞台は、2000年頃のフィンランドだと思われる。この映画は、フィンランドの首都ヘルシンキを主な舞台として進んで行く。

この映画の主人公には、名前がない。この映画の主人公は老年期に入ろうとしているくらいの50代後半ぐらいの男性で、ヘルシンキに電車でやってくる。そして、午前4時くらいに駅の近くのベンチに座って眠っていると、そこで右翼っぽいチンピラに絡まれて、重傷を負い、その際に記憶喪失になる。

右翼っぽいチンピラと書いたが、この映画の監督のアキ・カウリスマキの他の映画の「汚れた手」という映画を観ると、この右翼っぽいチンピラは、チンピラの中にスキンヘッドの大男がいるところから、ネオナチのスキンヘッズを連想させる点で、ナチの系統のブルジョアのチンピラではないかと思われる。

なぜ、ナチとブルジョアが結びつくかというと、映画「汚れた手」では、ナチは階級を維持する、フィンランドブルジョアくらい嫌な奴らというように描かれているからだ。つまり、ナチは、階級も、ブルジョアも歓迎する汚い奴らとして映画「汚れた手」に登場する。

この映画「汚れた手」の3人組のパンクとスキンヘッドのネオナチを思わせるチンピラは、ナチスブルジョアの象徴だ。家のない身体障碍者や、おそらく知的障碍者、依存症の人などの腕力の弱い人で、政府が見捨てて警察が保護しないような人を狙って暴行をする、3人のチンピラ。

ホームレスの人がお金を持っているわけはないので、3人のチンピラの目的はお金を盗ることではなくて、ただの憂さ晴らしの暴行だ。3人のチンピラは、ナチと手を組んだブルジョアの象徴で、フィンランドブルジョアが、ホームレスの人たちを救わずに、貧困の状態に置いていることを現わしているのだろう。

ブルジョアやリッチな人たちが作り出したシステムの欠陥が、ブルジョアであったというのが、この3人組のチンピラが表していることだと思われる。

ちなみに、フィンランドは1990年代に不況になり新自由主義の嵐が吹き荒れた。不況で、貧しい人を救うほど国にお金がなく、国営企業はドンドン民営化されていき、無駄と呼ばれた公共的な出費はカットされ、社会福祉は削られた。

アキ・カウリスマキ監督の映画「浮き雲」では、その当時の不況で仕事を失った2人の子供のない夫婦が、職を失い、貧困に陥り、そしてまた仕事を見つけて人生を取り戻すまでが描かれている。

ちなみに、フィンランドで失業率が1991年から2022年までで一番高かったのは、1995年の17%だ。この映画「過去のない男」が制作された2002年の失業率は10.42%だ。映画が、作り始められるのは、映画の発表年の2年前といわれているので、2000年の失業率を見てみると11.13%だ。1991年の失業率は6.50%、2022年の失業率は6.80%なので、1995年や2000年や2002年の頃のフィンランドの失業率は相対的に見ても非常に高いものだったといえる。失業率が高い時期のフィンランドの状況を描きとったのが、この映画「過去のない男」だということができる。

この名前のない男の物語を追っていくと、この物語は復活の物語だということができる。何からの復活かというと、破綻した夫婦生活を乗り越える復活であり、生活を立て直し、新しい恋人を見つけるまでの復活がこの映画「過去のない男」では描かれる。

この過去のない男は、3人組のチンピラに暴行をうけて、病院では一度、死が確定される。すると、過去のない男が急に包帯をぐるぐる巻きのまま起き上がって、自分の捻じれた鼻を直すと、そこから人生の再生の物語が始まる。

病院で死の判定を受ける辺りは、リアルと言うより象徴的な話で、寓話的だ。つまり、医者は死を過去のない男に与える。その死とは、結婚の終わりであり、それまでの自堕落だった人生への決別だ。また同時に、生きている人間を死んでいる人間と誤診するということは、エリートの社会的判断のミスを現わしているかのようだ。

それは、ホームレスの人間を人としての生活をできなくした、エリートの新自由主義という判断のミスを表しているかのようでもある。つまり、この映画の3人のチンピラはブルジョアを現わし、医者はエリートを現わしている。ブルジョアの上にいるリッチな人たちは、どちらかといえば医者の部類に入る者と思われる。

アキ・カウリスマキ監督の映画は、ウィキペディアによると、drolleryでdeadpanだと表現されている。Drolleryというのは、drollという単語からの派生語だと思われる。Drollというのは、「乾いた楽しみを引き起こす、シリアスで普通でない方法」という意味だ。Deadpanというのは、「(冗談を言うのに)〈顔・表情が〉大まじめな、無表情な」という意味だ。

このウィキペディアの表現はアキ・カウリスマキ監督の映画をよく現わしていると思われる。この方法により、つまり“大まじめで無表情な俳優たちが、ドライな楽しみを引き起こす”方法により、アキ・カウリスマキ監督の一連の映画は括ることができる。時折、間違いもあるウィキペディアだが、この表現に関しては的を得た表現だと思える。

この映画「過去のない男」の中で、都会の人間と、農民つまり田舎の人間という表現が出てくる。「俺は農民だ。農民は農作物を育てるから未来を見ている。それに比べて都会の人間は刹那的だ」と、主人公の過去のない男は言う。

ここで思い出されるのはアキ・カウリスマキ監督の映画「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」だ。ツンドラの貧しい農業地帯からアメリカに渡ったレニングラードカウボーイズというバンドが、アメリカでロックンロールに触れ、ロックンロールのルーツであるアメリカ南部を演奏しながら旅するロードムービー。始まりはツンドラの農村。

アキ・カウリスマキ監督の作品には必ず貧しくて困難な状況に陥った人たちが登場するが、そのアキ・カウリスマキ監督の視界には、当然農民の姿も入っている。

貧しい人たちが、貧しさから、可能ならば、自力とコミュニティと、国の力を使いながら再生していく、物語。それがアキ・アウリスマキ監督の一連の映画であり、この映画「過去のない男」も、そのようなアキ・カウリスマキ監督の映画の一部を成している。

 

過去のない男 6:08 自分で折られた鼻を治す主人公 Euro Space Inc.

過去のない男 2:14 主人公を襲う3人のチンピラ Euro Space Inc.

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