おせっかい

映画「ミッション(原題:The Mission)」を観た。

この映画は、1986年のイギリス・フランス・アメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の中心人物は、3人いる。1人はイエズス会の宣教師、もう1人は奴隷商人で傭兵からイエズス会の僧になるメンドゥーサという男、もう1人は彼らの暮らす南米のスペイン領の枢機卿の男だ。

映画が始まって、映画タイトルのThe Missionが表示される前に、最初に画面に大きく表示されるのは、Robert De Niroの文字だ。そこから映画の主人公は、ロバート・デ・ニーロかと誰もが思うはずだ。筆者も、そう思った。

しかし、映画の序盤でロバート・デ・ニーロがいつものキレた役を演じている以外は、この映画の主人公は、ロバート・デ・ニーロであるとは考えられない。映画の主人公は、ロバート・デ・ニーロではなく、現地人のように見えてくる。

現地人とは、スペインとポルトガルに支配されている南米の、今まさにスペインからポルトガルに支配権を移そうとしている、その土地の現地の人のことだ。映画では、セリフの訳で“インディアン”とされる人たちだ。

南米は、スペインとポルトガルによって15世紀から支配されている。スペインとポルトガルによる支配とは、力の支配だ。力とはこの場合、暴力のことだ。スペインとポルトガルは、現地人を暴力により屈服させて支配した。

この映画は、イエズス会の宣教師が中心となって物語が進んで行く。宣教師は、言う。必要なのは愛だ、と。そうつまり、スペインとポルトガルの暴力とは正反対のものが、愛だ。その愛を伝えるのが、宣教師だ。

しかし、宣教師たちの愛も余計なおせっかいでしかない。現地人は、ヨーロッパ風の愛などなくても十分自立して生活を行うことができていた。西洋人の愛は、単なるおせっかいだ。布教による影響力の拡大、権力の拡大が、結局のところ宣教師たちの目的だ。

傲慢な国と、傲慢な宗教と、それに翻弄される現地の人たち。それが、この映画の登場人物だ。

スペインとポルトガルによる支配は、現在の南米でも、欧米による南米の支配という形で残っている。欧米による第三世界の支配が、この世界の大きな見取り図になる。第三世界とは、欧米以外の国のことを指す。

第三世界とは、アフリカ、中東、アジア、南米、オセアニアのことだ。欧米は、国際通貨基金世界銀行を通じて、第三世界を支配している。例えば、第三世界のある土地では、アグリカルチャーと呼ばれる単作農産業が行われ、現地には輸出用の農作物しかなく、現地の人が食べる食糧は育てられず、現地の人は輸入された作物を買うしかなく、しかし低賃金のために輸入された農作物を買うお金はない、という悪循環に陥っている。

そのような状況にある第三世界の一部である、南米の現状の原型を作り出したのが、15世紀に行われた、南米大陸へのスペイン、ポルトガルの軍事的侵攻だ。南米の資源が目的だったのがこの侵攻だ。インドに行くための航路を探していて、コロンブス南インド諸島に辿り着いてから、ヨーロッパ人は南米の資源に目がくらんだ。

現地人は、金の装飾品を身につけていて、ヨーロッパ人はその金を求めて南米を支配した。その後、砂糖などの農作物を南米で生産して、ヨーロッパに輸入していた。その時に、メンドゥーサのような奴隷商人や傭兵が活躍した。

つまり現地人はただ同然の、もしくは低賃金の労働者だった。つまり、現地人はスペインやポルトガルの所有する奴隷の供給源だった。

この映画では、奴隷商人で傭兵のメンドゥーサが自らの罪を改めて、イエズス会に入る姿が描かれる。それは、今欧米の国々がとるべき姿を示している。但し、宗教が欧米の侵略のための存在でないことが、必須条件となるが。実は、ロバート・デ・ニーロはこの映画の隠れた主人公だったのだ。