愛は相手の死すらも所有する

映画「地上最大のショウ(原題:The Greatest Show on Earth)」を観た。

この映画は1952年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマだ。

この映画の主となる登場人物は、サーカスの公演監督であるブラッド、ブラッドの恋人であるサーカスの花形の空中ブランコ・ショウウーマンのホリー、新しくサーカス団に招かれる同じく花形ブランコ・ショウマンのセバスチャン、サーカスの象を使ったショウをするセバスチャンと過去に関係があり今はブラッドのことが好きなエンジェルだ。

既に書いたが、この映画の舞台はサーカスだ。このサーカスは移動式のサーカスで、サーカス団の専用の汽車があって、その汽車を使ってアメリカの全国各地に巡業して回っている。サーカスの売り上げは一日に2万5千ドル、つまり大規模なサーカスだ。

この映画はサーカスの映画なので、この映画の中には、存分にサーカスのショウの見せ場がある。サーカスのショウに来ているお客は、皆子供か、童心に戻った大人だ。よって、サーカスの客は皆子供の客だということもできる。

その子供たちの前でショウをするサーカスの人たちは、サーカスの見世物の登場シーンで、子供たちに手を振りながら、恋愛の話をしている。サーカスの出し物の話をしているシーンはないと言ってもいい。

サーカスの人たちは客に手を振りながら、「お前はあの男が好きなのか。許さないぞ」とか「あなた最近あの人たちの仲はどうなのよ」とかいった恋愛の話をしている。この映画はサーカスを題材とした、恋愛映画だということができる。

ブレッドはホリーを愛し、ホリーはいつも優しくしないブレッドの気を引くために、ホリーのことが好きなセバスチャンと親しくするし、クラウスに所有物として愛されているエンジェルは束縛しない男ブレッドに惹かれている。

映画の最中にナレーターが言う。「公演が終わってもドラマは続いている」。この公演とはサーカスのショウのことだが、別の意味では、この映画が終わってもドラマは続いているとも解釈できる。

映画が終わっても、映画の視聴者の中でドラマは続いていて、その心の中のドラマが現実の世界に変化をもたらすこともある。それは映画を観た人が、映画の優しさや残酷さに触れて、そこからなにか教訓のようなものを受け取り、それが生き方に影響してくるといったものだ。

この映画も人に影響を与える映画だ。

この映画には、もう一人主要な登場人物がいる。それはバトンズというピエロだ。バトンズは、恋人を安楽死させ、警察に追われる身になった医者で、姿を隠して生活するためピエロの化粧を常に落とさずにいる。

バトンズにとってピエロは、世間から隠れるための隠れ蓑だ。バトンズは愛のために恋人を殺した人物だ。バトンズが救われるには、バトンズが恋人を救うことが必要だった、というようにこの映画のラストは描かれる。そしてバトンズは罪を償うことを受け入れるのだが。つまり、バトンズは、相手の死を所有しようとしたことを、過ちとして認める。

この映画では、男女間の愛とは何かが描かれる。愛とは所有か?束縛か?それとも自由か?この映画の中の登場人物にエンジェルとクラウス、ホリーとブラッドがいる。クラウスはエンジェルを束縛という形で所有して、その所有が愛だと思っている。ブラッドはホリーを束縛せずに自由に決めさせることが愛だと思っている。

そこに介入するのが、セバスチャンだ。セバスチャンは、自由に愛を求める。相手を束縛しすぎず、しかし相手の愛を欲しがる。その愛の証明とは相手の言葉や態度からセバスチャンが読み取るものだ。セバスチャンの愛も所有だ。相手の心の所有ということができる。

愛と所有。それはセットなのかもしれない。愛を語り身分の高い女性に膝まづく騎士は、愛の見返りとして相手の心の所有を求めた。所有という観念が生まれてから恋愛、ロマンティック・ラブが始まったと言えるかもしれない。

ではなんのために、相手の心を所有するのか?それは、膝まづく騎士が、相手の持つ高貴さを理解しているというサインだ。素晴らしい心を持つ君を所有したい、と。もしくはそれは、相手の財産手に入れるためだ。もしくは、現代的労働者階級的に言うならば、家事労働を手に入れるためだ。もしくは跡取りを産み育てさせるためだ。

所有と愛。所有が愛を生んだ。そう考えると、そこには家父長制や資本主義が絡んできて、あらためて所有の持つ意味を考えさせられる。定住民には所有は切り離せないものなのかもしれない。