映画「聖衣(原題:The Robe)」を観た。
この映画は1953年のアメリカ映画で、映画のジャンルは歴史映画だ。
この映画のタイトルの聖衣とは、イエス・キリストが磔刑になって十字架にはりつけられている時に身にまとっていた、ローブのことだ。ローブとは衣類の一つで、キリスト教の聖職者が羽織るガウンのこと。ガウンとは洋服の一形式で、膝あるいは床に届くような丈の長い衣のことだ。
このことからわかるように、この映画はキリスト教を題材とした映画だ。この映画の中で、イエス・キリストを、ローマ帝国が捕らえる。ローマ帝国の支配下にあるパレスチナのエルサレムの地で、ローマ帝国に反逆するような教えを説くイエス・キリストを捕らえて、はりつけの刑にする。
その、はりつけの刑の実際の執行役、つまりキリストを十字架にキリストの手と足に釘を打ってはりつけにするという行為を実際に行ったのが、この映画の主人公のマーセラスという人物だ。
聖書の中の記述には、キリストが磔刑にかけられると、天気が一変して悪くなり、”この人は神の子だった”と百人隊長やその他の人々が思ったとある。百人隊長とはローマ軍の基幹戦闘単位である百人隊(ケントゥリオ)の指揮官のことだ。
その百人隊の指揮官である百人隊長が、このマーセラスという男だ。聖書の中では、マーセラスは、天候の変化でイエスを神の子であると思ったと、一瞬でキリスト教の回教している。しかし、この映画の中ではマーセラスのキリスト教の回教には、しばらく時間がかかる。それが映画の前半部分を構成することになる。
マーセラスはイエスが神の子であると気付いた時には、既にイエスを殺すという罪を犯している。キリストはその時、「このひとは知らないだけです。神よ彼を許せ」という言葉を発していて、マーセラスはこの言葉を聞いている。
しかし、マーセラスは自分のした行為に、殺人という行為に悩むことにとになる。そこで登場するのが、キリストの身につけていた赤いローブだ。マーセラスはローブに触れると罪を意識して、罪から解放される。
これは、マーセラスが、キリスト教の教えを理解したことを視覚的にわかりやすく示したものだ。マーセラスは、キリストの呪われたローブを探せというローマ帝国の命令ために、ローブを探すうちにキリストの教えに感化された。
そのキリストの教えとは、「神を愛せ」「隣人を愛せ」だ。この映画の中では、キリストの起こした奇跡についても語られる。そこで興味深いエピソードがある。それは、キリストの奇跡は、人の心を救うものでもあるということだ。
映画の中に、ミリアムという琴を弾く足の不自由な女性が、登場する。キリストの信者たちはこういう。彼女の足は動かない、しかしキリストの教えで、彼女の中にある、”自分は足の不自由なものだ”という劣等感が消えて、彼女は救われた。これは奇跡だと。
このことにマーセラスは、深い感銘を受けているようだ。これならば罪を犯した自分も、救われるかもしれないと感じだのだろう。なぜならキリストは、人の心の中にある劣等感を取り除いてくれるからだ。
マーセラスの場合の劣等感とは、キリストを殺してしまったという罪悪感が来るものだ。”自分は殺人者である、しかも神の子の”という劣等感から、マーセラスはキリストの教えにより救われる。それは、キリストがマーセラスを、隣人として愛していたから可能になった。
この映画は、ローマ帝国という奴隷売買を公認しているような、快楽主義的な地に生まれて、酒と女を好み、好き勝手に生きていたマーセラスという男が、奴隷や女性や侵略者であるローマ帝国といった存在を見直す、という視座に立つまでが描かれる。
帝国主義で、侵略の限りを尽くしていたローマ帝国の姿は、今の欧米諸国にも当てはまる。しかし皮肉なことに、その欧米はキリスト教の信者の多い場所だ。帝国主義からの脱却。それもキリストの教えには含まれているのではないだろうか?