世界のクソは僕らにとって最高

映画「惡の華」を観た。

この映画は2019年の日本映画で、映画のジャンルは青春映画だ。

この映画の主人公は2人いる。1人は春日高男という少年と、もう1人は中村佐和という少女だ。この2人には共通点がある。それは2人とも人に理解されにくいものに共感してしまうという性質を持つことだ。

この映画の中では、それは変態という言葉として表される。しかし、だ。映画を観ている者にはなぜかこの変態行為が時として爽快に見える。どこまでも人に理解されないものに傾倒していく2人。

春日高男は女性の服にこだわりを示す。ただの布切れに異常なほどに執着する春日。その春日高男の常軌を逸した執着心に、異常性を認めてその異常性を助長する中村佐和。

中村佐和は、春日高男に言う。もっと変態になれ、もっと、もっとと。

さてそれではなぜこの2人は変態を求めるのか?それは2人にとっては世界にとってのクソこそが、2人にとっての最高だからだ。春日高男も中村佐和も、世界中に満ちている偽善に心底イライラしている。

2枚舌の政治家。純愛を説くナンパ師。良い父親はただの奴隷主だという事実。この世は誰もが気付いているように偽善に満ちている。そんな世界にうんざりしているのがその2人だ。

そのような世界の良いものとしているものは、2人にとってはクソだ。世界にとってのクソは2人にとっての宝物。なぜなら世界は2人にとってはクソだから。

嫌いなものの反対は、好きなもの。嫌いな人が嫌いなものは、僕らにとっては大好物だ。世界はクソに見える。2人にとっては。ならば世界にとってのクソになろう。それが私たちの生きる道。

クソな世界が尊ぶ、プラトニック・ラブからのセックスそして結婚。中村佐和は言う。「お前らはセックスだけかよ」。

精神分析の始祖のジークムント・フロイトが言ったように、人は性欲をエネルギーとして生きている。人はいわば生きる性欲だ。その人間が性欲の野蛮性と性欲の高潔さに、性欲を2分して生きている。

そこでは同じ性欲のはずなのに、なぜか野蛮な方は疎外されて嫌われる。ならば、世界のつまはじき者たちを救え!!

中村佐和と春日高男は、世界の逆を生きる。2人の逆行は、2人だけのものではないことに気付いた時に、2人の逆行は終わりを告げる。世界への逆行は、誰の中にも多かれ少なかれある。それに過剰さ、矮小さはあるが。

映画中の春日と中村の逆行ぶりには青春映画というものがよくあてはまると思う。自分の生きている世界と、自分の理想とのぶつかり合い。そのぶつかり合いは、いつの間にか馴致されてしまうのかもしれないが。