既得権益者の利益維持という腐敗

映画「特攻大作戦(原題:The Dirty Dozen)」を観た。

この映画は1967年のアメリカ・イギリス合作映画で、映画のジャンルは戦争アクションだ。

この映画の舞台背景は、第2次世界大戦だ。アメリカを含む連合国軍は、ナチス・ドイツ占領下のヨーロッパに侵攻をまさにかけようとしていた。それは、オーヴァーロード作戦と呼ばれ、その作戦の開始日はD-デイと呼ばれる。

そのD-デイにナチス・ドイツの幹部が集まる屋敷に侵入して、ナチス・ドイツの幹部もろとも屋敷を破壊するという作戦が立てられた。ナチス・ドイツの幹部たちがパーティーをしている最中に、そのパーティー会場を襲撃する作戦だ。

その作戦は、敵の警備が厚いところで行われて、いわば決死の作戦だ。だから、連合軍はその作戦に、死んでも特に構わない人間たちを使うことにした。その決死の作戦、つまりタイトルにある“特攻大作戦”を行うのは、アメリカ陸軍刑務所に入っている、絞首刑や30年の刑などを受けている12人の人物、つまり原題にある“汚れた12人”だ。

1944年、その指令を受けた、反抗的な少佐、ライズマン少佐は、その12人を訓練して特攻大作戦に挑ませようと意を決した。もともとこの作戦に乗り気でないライズマン少佐は、この作戦に成功したら、囚人である12人の刑をなくすように上官に申し出て、その訴えは受理された。

敵の本拠地に落下傘で降りて、急襲するという、決死の作戦に挑むべく、ライズマン少佐は、社会のつまはじき者、つまり社会不適応者からなるこの特攻部隊に、規律と団結を教えこむ。

この特攻大作戦でメインとなるのは、ラストにくるナチス・ドイツとの戦いでもあるかもしれないが、実は、どうしようもない理由によって犯罪者になってしまった受刑者たちが、自分たちの自尊心を取り戻していくその姿にある。

この映画の中での1番の汚れた人物とは、実は“汚れた12人”ではないのではないか、と思えてくるのがこの映画だ。そう1番ダーティなのは、連合国軍の特攻作戦を思いついた人物。つまりは、軍隊の上官だ。

日本でも第2次世界大戦中には、神風特攻隊と呼ばれる、特攻作戦があった。軍用機で、連合国軍の艦隊に突っ込むのだ。その時、脱出用のパラシュートは使わず、飛行機もろとも連合国の艦隊に突っ込む。つまりは、自殺するようなものだ。

この特攻大作戦を思いついたのは、大西瀧治郎をはじめとする日本の軍人たちだった。戦争に戦死はつきもの。だったら、敵を確実に叩いて死んでもらいたい。というのが、この時の軍人たちの思考だったのだろう。連合国軍の上官の思考と、日本軍の上官の思考は同じものだ。愚の骨頂だ。

ライズマン少佐は、自分たちの上官のことが気に入らなくて仕方ない。作戦を立てて、実戦は下位の者にやらせる。その上官の発想の、下位の者への敬意のなさが、ライズマン少佐をいらだたせる。

下位の者への軽蔑。それは、社会不適応者への軽蔑とでも言える。社会不適応者が、なぜそのような状況になってしまったのか? そのような状況にこれから人々が陥らないために、どのようにするべきなのか? 安易に人を、国の権力が殺してしまっていいのか? そもそもそのために、社会不適応者に対する同情的な見方があってもいいのではないか?

そのような疑問が、この映画を観ているとわいてくる。社会不適応者への、まなざしの問題だ。現行の社会体制を見直すこともせずに、ただ現行の体制に盲従すること。それが、よりよい社会を築いていくという意思の妨げになっている。

そのような既得権益維持者と、既得権益を変えていこうとする者たちとの戦いが、この映画「特攻大作戦」だとみることができる。既得権益者は、既成の体制を変えることを拒む。なぜなら既得権益者の頭の中には、改革は自分たちの既得権のパイを少なくする、という思考があるからだ。

そのために命を踏みにじられるのが、社会不適応者たちだ。また、社会不適応者によって踏みにじられる命もある。それは、止めることができなかった殺人だ。ただ、そのような環境を変えていくことはできる。

社会不適応者が人を殺した場合、その社会不適応者を死刑にするのか? それは、国が国民を殺す権力を、国民が認めているようなものだ。人を殺しても、人が多く死ぬことになるだけで、しかもそれは国家権力の肥大をもたらすだけだ。

国家権力に人を殺す権利を与えていいのか? それが、問われるべき問題の1つでもある。つまり、この“ダーティな12人”の刑罰は本当に妥当なものなのだろうか? という疑問も、ここに浮かび上がる。

既得権益者は、社会を良くすることを考えてはいない。既得権益者の考えることは、自らの既得権益の維持と拡大だ。そのために、既得権益者は、現行の体制を維持する方法をとろうとする。その一部が、この特攻作戦だ。

この映画の中で、“汚れた12人”のうちの1人が、「俺たちは一体、何人のドイツ兵を殺すことになるんだ」と言うシーンがある。つまり、この言葉は、明らかに反戦、反権力の的な発言であり、彼の中に罪の意識や、権力者への怒りがあることの現れでもある。

この映画の中では、戦争と性の話も出てくる。人間は他の動物と違い、生きている間ずっと発情している。教育やマスコミや家庭が、その発情の装置となっている。当然、戦争に出る戦士が発情しないわけはない。

この映画ではD-デイの前日に、ライズマン少佐が、“汚れた12人”に売春婦をあてがうシーンがある。戦争と性欲は切り離せない。なぜなら人間は万年発情しているからだ。この社会の発情装置に囲まれている限りは。

戦争と売春は、切り離すことができない。戦士たちの士気を維持するためにも、セックスは軍隊に欠かすことができない。そのために、従軍慰安婦が必要とされる。第二次大戦時の女性に、生きるために残された選択肢は少ない。

生きるための選択肢として、売春を選ばざるえなかった人も存在する。それは、強制として、社会的な力による強制として考えることができる。つまりは戦争は、従軍慰安婦という強制を生み出す強制力として存在する。

戦争は権力の暴走であり、国民への強制だ。それが生み出した従軍慰安も、戦争という既得権益の拡大が生み出した、権力側の強制に過ぎない。この映画では、性欲の昇華がうまくいかずに社会不適応者になってしまっているマゴットという人物が存在する。

マゴットは、性欲をうまく受け入れることができない。それは聖書に、女性の性欲は神によって罰せられるものだと書いてあるからだ。それを本音と建て前を理解せずに、その言葉のままに受け入れてしまっている。だからマゴットは社会不適応者とされる。

マゴットの存在が、人間と性欲の問題を浮き上がらせるポイントになっている。女性には、性欲がない、という思い込みだ。またマゴットは南部の黒人差別者だ。マゴットは周囲の環境により、人間的な判断を下すことのできない存在だ。マゴットは特攻作戦中に、黒人の仲間の兵士を殺そうとして、その兵士に撃たれ死亡する。

ちなみに、黒人差別のあるアメリカでは、黒人はマリファナを持っているというだけの軽犯罪で、白人より厳重に取り締まられることが頻繁にあった。この映画でも、黒人差別が原因で、黒人の兵隊が刑を受けている。既得権益者のパイの維持のためには、多くの黒人は、搾取されて安い労働力として買い叩かれる必要があるからだ。安い労働力は、多くの余剰価値を生み出す。

この映画は、既得権益の利益維持のために犠牲になる人たちの存在を浮き彫りにさせる。