キリスト教の息苦しさ

映画「サスペリア(原題:Suspiria)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ・イタリア映画で、映画のジャンルはホラーだ。

この映画の主人公は、アメリカのオハイオ州出身のスージー・バニオンという女性だ。映画の舞台は1977年のドイツだ。

ドイツのベルリンの壁が崩壊したのが1990年のことになる。1977年のドイツはベルリンの壁があり、ドイツが西ドイツと東ドイツに東西に分断されていた期間だ。(ベルリンの壁は1961年から1989年まで存在した。1990年のベルリンの壁崩壊とは、ドイツの統一された年ということ。ベルリンの壁は1989年11月10日に撤去作業が行われた。)

この映画を一言で言ってしまうとしたら何だろうか?

例えばこの映画は解放の母の物語と言えるかもしれない。

ヨーロッパやアメリカなど世界で多くみられる宗教のうちの一つがキリスト教だ。

キリスト教は、神の子イエスが愛の福音を説く宗教だ。つまりキリスト教=愛=エロス=男の神だ。それに対してこの映画の中でヘレナ・マルコス舞踏団という集団が信仰しているのは、キリスト教以前の神=破壊=タナトス=女の神だ。

解放の母と書いたが、これはキリスト教の愛の神に反対するものだ。

愛は解放というよりも束縛の神だ。愛とは人と人との繋がりを指す言葉だ。それに対して解放は破壊だ。なぜなら人と人との繋がりが切れた時に人は連帯から解放されて、束縛から解き放たれる。

この映画の冒頭に出てくる映像の中に、額縁に飾られた言葉がある。そこにはこのような言葉がある。「母は何の代わりにもなれる。しかし、母の代わりになれるものはいない」と。つまりこの言葉に従うならば、世界中に存在する母というものは存在しないとも言える。

なぜならすべての母は、自分を生んだ女性の代わりでしかないからだ。つまりすべての女性は、女性から生まれ、その女性も女性から生まれる。樹形図で表現することも可能なその図表では、女性をどこまでさかのぼっても母には届かないかもしれない。

しかし、人間がある1対の人間から生まれたという前提に立てば、最後には1人の母に突き当たる。そしてその最後の母というのがこの映画の主人公のスージー・バニオンだ。

この映画には2つの差別がある。ユダヤ人迫害と、魔女狩りだ。

ドイツではアーリア人こそが人であるとし、ユダヤ人は人間以下とされて殺された。ユダヤ人を虐殺するのに使われた、ユダヤ強制収容所ナチス・ドイツの統治下の現在のドイツ以外の国にも作られた。

この映画にはユダヤ人の老人が登場する。映画の終盤では、この老人の罪の意識からの解放がメインになる。

もう1つの差別である魔女とは、キリスト教以外の宗教を信仰するこの映画の舞台となる舞踏団の女性のことだ。彼女たちは、キリスト教文化圏からは排除された女性たちであり、そして、この彼女たちを解放するのが主人公の「解放の母」であるスージーだ。

キリスト教社会で求められる愛情深く繊細で慎ましい女性とは、キリスト教文化の下の女性にはかなり圧迫感があり窮屈で苦しい存在だろう。