連載 アナーキー 第14回

次に近代のアナキズムの主要人物である、プルートン、バクーニンクロポトキンについて述べたいと思う。

大澤正道の「近代アナキズム思想史」によると、それぞれに以下のような主義、在り方が当てはめることができる。 [大沢正道, 1971]

プルートンは近代アナキズムの前史。バクーニンは無政府集産主義。クロポトキンは無政府共産主義

何やら話がややこしくなりそうな予感がするが、順を追って述べていきたい。

まずプルートンである。プルートンは近代アナキズムの前史ということである。つまり、近代アナキズムの前提条件がプルートンの元で出現したのである。

プルートンが説いたのは連合主義であり、経済的実践である交換銀行などである。

交換銀行とは従来の銀行とは違ったシステムである。しかし交換銀行も銀行でしかない。

だが当時のフランス政府は、このプルートンの発想を快く思わなかった。交換銀行は政府の力により潰されている。

一方の連合主義であるが、それも実現したわけではない。

連合主義とは国家とは違う。国家は政府を作り出し、政府が政治を行う。民衆は選挙で自らの代表を選出するが、国と民衆の距離は遠い。

民衆の意見が国に取り上げられるかどうかわからないし、取り上げられたとしても、それまでに時間がかかるのは必須である。

それに対し連合主義とは、国よりももっと小さい単位を主軸として考える考え方である。

国は分割されて地方が主役になる。そして主体たる地方が、それぞれ手を組み連合を作る。それが連合主義である。

日本で言うなら、例えば各県が重要になり国の単位はその次になるということである。財政が国の中心に集まることはない。財政は、県が持つのである。

もっと進んで言えば、その県は労働者や農民が管理するのである。現状、財政と言えば、それを管理するのは民間ではなくある特定の機構ということになる。

ここで考えたい。財産は誰が管理すべきかについて。別の言い方をすれば、財産は誰が所有すべきなのか?という問題について。

私的所有というように個人が財を所有する状況というのがある。一方である特定の団体が財産を管理するという方法もある。

ここで私的所有に注目したい。私的所有の問題点として、ある団体による財の再分配が存在せず、個人が財産を独占して、持たざる者貧しい人が出てきてもいいのか?という問題点が上がる。これが所有に関する問題である。