連載 アナーキー 第17回

プルートンは近代アナキズムの前史であり、プルートンは連合主義を唱えた。つまり国より小さい単位を主な単位とする連合である。この場合決定権は国にはない。国より小さい単位に存在するのである。

バクーニンは無政府集産主義を唱えた。それは、生産手段を労働者と農民が管理するというものである。

クロポトキンは無政府共産主義を唱えた。生産手段と生産手段が生み出した財を労働者と農民が管理するというものである。

生産手段とは、原材料や道具、機械のことである。財とは世の中のものから生産手段を除いて残ったものである。テレビ、パソコン、クーラー、車などがそれに当たる。

バクーニンの唱えた無政府集産主義と、クロポトキンが唱えた無政府共産主義との違いは、農民と労働者が財を管理下に置くか置かないかの違いである。

生産手段のみを管理下に置くのがバクーニンの集産主義であり、生産手段+財を農民、労働者の管理下に置くのがクロポトキン共産主義であった。

バクーニンの集産主義も、クロポトキン共産主義も、頭に無政府という言葉が付く。無政府集産主義、無政府共産主義というように。

そうつまり、バクーニンクロポトキンも無政府である状態、つまり連合主義的な状態を前提としているのである。

国を統合の第一単位としないような連合主義、国より地方の決定そしてその中の農民や労働者の決定を重視するのが、プルートン、バクーニンクロポトキンの3人の立場なのである。

現在一般には人と人を繋げているのは国という単位であるという考えが通っている。同じ国の人間だから我々は協力するのだと。

つまり国という崇高な存在の元に人々が集結しているのだと多くの人は考えている。

しかし、国とはなんであろうか?国とはどんな実体を持つものであるのか?国とは国境のことだろうか?

ここでこう断言したい。国とは想像上の存在であると。「国とはなんですか?」と聞かれて、これが国ですと目の前に提示することができる人など世の中にまずいないのではないだろうか?

なぜなら国とは触れられないもの、実体として存在しないものであるから。国とは人々の想像力により創り出されるものなのだから。