対価なき無償の労働

映画「菊とギロチン」を観た。

この映画は2018年の日本映画で、女相撲無政府主義者たちを描いた映画だ。

この映画のタイトルにある「菊とギロチン」とは、一体どういう意味なのか?それはこういう意味だ。菊とは女相撲の力士である花菊のことだ。そしてギロチンとは、ギロチン社というアナキスト団体の一人である、古田大次郎のことだ。

映画の舞台は関東大震災後の日本で、時代的には大正12年、13年辺りだ。西暦にすると1923年、1924年辺りということになる。

当時の世相というのは保守的な傾向が強かった。統治権力は国を国たらしめることに必死で、国の存続に障害となるようなものは、徹底的に弾圧をして抑え込んでいた時代だ。

この映画の中に登場するアナキストである、古田大次郎、中濱鐵、木村源次郎、和田久太郎も国家ににらまれていた存在だ。いずれの人物も国によって捕えられており、古田は25歳で、中濱は29歳で刑死しており、村木も刑を受けて肺病で亡くなっている。

この映画の冒頭でアナキズムに対して簡単な定義が与えられる。それは「既成の国家や権威の存在を望ましくない有害であると考え、調和的な社会結合を目指す政治思想」というものだ。

しかし、現実と理想は違うもので、中濱においては、自分が無政府主義の活動を行い食べていくために、資本家をゆすってお金を巻き上げている。また古田は、1人、人を殺している。

ただアナキストたちは映画の中で、自由と平等を信じる人たちとして描かれている。

一方、女相撲の方であるが、女相撲の在り方は、花菊や十勝川という人物に象徴的に描かれている。花菊は、DVの被害者であり、十勝川は人種差別の被害者だ。

花菊は、家事労働、子守り、夫のセックスの相手、夫からの暴力という日常からの脱出口を女相撲の中に見い出す。「女相撲は強ければ良くなる。日常ではいつも負ける」と花菊は言う。

体制側というのは女性を無償の労働者として扱う。ある時は料理を作り、子供を育て、年老いた両親の面倒をみて、セックスワークもこなし、家庭を支える。

これらの一切の労働を国は女性に対して無言のコントロールにより、男性側に無償で提供させる。専業主婦という言葉はこの無償の労働を表す言葉だ。

封建的な社会を支配する側と、支配される側。その2つの下位への分化。人はもう気付いているはずだ。自分のことは自分で決めていいと。命令に従う?そんな必要はないと。ただそこにある程度の限度はあるかもしれないが。