連載 アナーキー 第10回

シュルレアリストたちの既存の価値観に挑戦する態度は、無意識への傾倒という局面を迎えた。その様子は失敗の趣を呈しているかもしれない。「シュルレアリスムは行き過ぎた」と。

確かに無意識の追及のために、死に向かってしまうというのは良くないことだと思われる。ここは十分注意を払う点であろう。

しかしだからといって、既存の価値観を疑う姿勢を崩してしまうことはない。既存の価値観を疑う態度と無意識に向かう態度=無意識を崇めることではない。この両者は=(イコール)で繋がれているものではない。

シュルレアリストたちは当時まだ始まったばかりだったフロイトによる精神分析に多くを期待していたのだろう。

しかし、精神分析は万能ではない。実際現在の精神治療の主流はフロイトによる精神分析とは別のものとなっている [松本卓也, 2018, ページ: 19]。精神分析にも限界があったのである。

既存の価値観に対して反抗的な姿勢をとることが必ずしも精神分析に行き着くことはない。手段はともなう結果によって修正を加えられていくものなのである。

既存の価値観にとらわれない思考を求めて、未知のものに向かう姿勢は何も悪いものであるとは限らない。

しかし、それが失敗したとわかった時にそれを続ける必要はない。その時はまた、新しい手段をとればいいのである。

精神分析の使用の程度がここで問題となってくると思われる。精神分析を信頼し過ぎて進んで行くことにストップがかかった状況というのが、当時のシュルレアリスムの立場だということができる。

精神分析の使用の仕方にも、その限界を見極めるための視点が必要なのである。

例えば既存の価値観を疑ったセックス・ピストルズ精神分析に走ったか?答えはノーである。

しかし、ピストルズシド・ヴィシャスというベーシストの死により、不幸な結果を生み出している。何事にも限界というものが存在するのだ。

人間は学習する。第2のシドを出さないための努力が今現在の我々に求められていることは事実だろう。