連載 アナーキー 第6回

ピストルズが存在するよりも前の時代にダダイズムの人々は、キリスト教信者に対して否を突き付けていたのである。ただピストルズのようにキリスト教そのものを否定してはいないが。

既存の体制に否を突き付けるのがダダイズムであると書いた。

しかし、既存の体制に否を突き付けることが有効であるのか?例えばキリスト教に否を突き付けて完全に破壊してしまうのか?またキリスト教を完全に破壊することが可能なのだろうか?

何かに否と言うことは、既存のもののうちの何かの存在を前提としている。つまりキリスト教がなかったら、それへの反抗は何の意味を持たない。

つまりキリスト教の否定はキリスト教を存続させる。その否はキリスト教を破壊させはしない。そうそれでいいのだ。

キリスト教のすべてが悪なのではない。キリスト教には良心的な面もある。

しかし、キリスト教的な抑圧が人に重圧になっている事実もある。

例えば、キリスト教カソリックの神父による幼児に対する性的虐待である。これはキリスト教の性欲への強い抑圧が引き起こしたものとしか思えない。この事件の告発の様子は映画「スポットライト 世紀のスクープ」にも描かれている。

キリスト教が存在する意味もあるというのはとてもたやすい。しかしキリスト教の負の面から目を逸らしてはいけないのである。

キリスト教に挑戦したピストルズとダダの両者には、はっきりとした共通点がみられ、その共通点は今現在も必要とされているものなのである。

ダダイズムは既存の体制に反抗し、破壊を繰り返した。それは当初芸術的な側面を持つものだと思われた。

しかしそれは、現実の我々が生活する社会への対抗ともなった。

ダダイズムは既存の体制に対するアンチテーゼである。ピストルズの時代には(それは資本主義的な消費社会の時代でもあるが)反抗すらもメディアにからめとられ、その抵抗は中央集権的な現在の体制を肯定するメディアの中で体制を批判するという入り組んだ構造をもつことになった。

だが、ピストルズが既存の体制に反抗した魂はダダから受け継がれてきたものなのである。ダダの態度には、第一次世界大戦を起こした既存の価値観への疑いがあることが、ここに見て取れる。