連載 アナーキー 第9回

人は無意識に身を任せると、何とも形容しがたい判断をする。否、判断すること自体が無効になるともいえるのかもしれない。

錯乱した自我ではなく、正常な自我でもないもの。それは何か?

自我か混乱して判断を下すのではない。はたまた正常な自我による判断でもないもの。それは無意識により可能になることをシュルレアリスムは考えるのである。

シュルレアリスムフロイト的な精神分析の方法に興味があったのであろう。

「無意識層において身体エネルギーと混然一体となった肉体的な言語を自動記述によってできるだけそのままに文学の世界へ表出させようとした」 [酒井健, 2013][ロケーション886]。これがシュルレアリストたちのとった態度であった。

しかし、その帰結はあまり良いものではなくなった。無意識を引き出すために催眠という方法をシュルレアリストたちはとった。

しかし、それは集団自殺や、他者の殺害を企てるというような歓迎されざる結末を迎えることになる。

つまり過剰な無意識は人間にとって危険なものだったのである。

シュルレアリストたちの既存のものに反する態度。理性による是か非かの判断が第一次世界大戦を引き起こしてしまったという問題意識。それは、その実践の悲劇的な帰結(集団自殺、ストーカー的行為)になった。

しかし、既存のものに対する懐疑的な、もしくは挑発的な態度は、いつの時代にも登場するものなのである。1976年頃のセックス・ピストルズの登場のように。

AでもBでもないもの。それを無意識に任せて見つけ出す行為。それは、その態度は、我々に新しい見方を与えてくれる。

A、それは是でも非でもない。B、それについても是でも非でもない。これは近代合理主義に対する戦術であるということができる。そしてその戦術はいつの時代にも、それが行き過ぎないならば、そしてそれが新しい視点を我々に与えるという点において有効であることが期待されるのである。