連載 アナーキー 第8回

そして、今ここでシュルレアリスムが問題としているのは、前近代からの分離という①の面ではなく、②の面ではないだろうか?

つまり近代の合目的性がシュルレアリスムにとっての問題である。そしてそれは近代の特徴でもあるのだ。

目的のために無駄なく動くこと。それが合理性である。近代=合理性ということも可能である。

シュルレアリストたちは、つまりシュルレアリスムは、この合理性が第一次世界大戦というような惨劇を生み出したと考える。

近代において人々は目的合理的に行動するようになった。

例えば近代においては、それぞれの場所には目的がある。歩道は歩くところ。道路は車が走るところ。学校は勉強やスポーツをするところ。スーパーは買い物をするところというように。

すべては目的に合理的なるように配置されている。そこに無駄はない。合目的的に判断することが近代合理主義では必要とされる。合理的な判断が、近代を成り立たせているのである。

AとはAであり、BはAでない。すべては厳密に概念によって区別されるべきである。それが近代合理主義の在り方である。

そこにはあいまいな判断などない。すべてが判断の度に、きっちりと右と左、上と下、手前と奥にわけられる。

近代において移動することも合理的だ。A地点からB地点まで、わき目もふらずに近代人たちは歩き続ける。歩く人にとって目的地以外のことは目に入らない。

しかし、それに否を突き付けるのが、シュルレアリストたちである。シュルレアリストたちはA地点からB地点へというように目的を定めない。定めたとしてもそれはきっと裏切られる。偶発的な事件によって。

偶発的な事件とは、何も大きな変化でなくてもいい。歩いていたら、晴れてきて太陽が出てきた。じゃあこのまま広場に行こう。と思っていたら知り合いと出会い、何時間も立ち話をした。

シュルレアリストは偶発的な出来事を奨励するのである。

合目的的とは、明確な目標に向かって進むことである。そこでは曖昧な判断はない。

しかし、そこでシュルレアリスムは曖昧さに注目する。曖昧さ。AでもBでもないものにシュルレアリスムは執着する。

そのためシュルレアリスムは確立された自我ではなく無意識に注目する。